聖金曜日とも言われるイースター直前の金曜日。
それはイエス様が十字架にかかられ、死なれた日。
自分をののしる者のために。
自分に罪を着せて、でっちあげの証言で殺そうとする者のために。
あざけり唾を吐きかける者のために。
槍で自分を刺し通すローマ兵のために。
自分を捨てて逃げて行った弟子たちのために。
道に迷い、真理を探し求める者のために。
すべての虐げられている者、すべての罪に悩む者のために。
イエス様がそれらのすべての罪、咎、重荷を背負って十字架に歩まれた日。
それを覚えて感謝し、イエス様について行くことを新たに決意する日。
ローマ 6:6 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
Ⅰコリ 1:18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
下記に掲載している賛美の曲は、昔、知人から教えていただいた口伝の曲。
十字架にかかられたイエス様の姿をまっすぐに歌詞にしているのが印象的です。決して明るい曲ではありませんが、受難週に思い出す一曲です。
実はタイトルもわからないのですが・・・
歌詞とコードはわかったので、思い出しながら。
スマホからは埋め込み動画が見られないようですので、コチラへどうぞ(YOUTUBE)
カルバリ山に立つ イエスさまの十字架
その上で流された 尊い血潮
それは私を救うため 罪を赦すため
ただ身代わりとなって 耐えられた
ああ イエスさま あなたの愛に なんと応えるべきでしょうか
いのちさえ惜しまずに 捨ててしまわれた
こんなに罪深い 私のために
人々にあざけられ 神さまに捨てられ
ひとり苦しみを 受けられた
ああ イエスさま あなたの愛に なんと応えるべきでしょうか
ああ イエスさま あなたのもとへ いつまでも この道を行こう
エペ 2:16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
十字架刑は当時もっとも残酷で、身分の低い者や極悪犯罪人のための極刑でした。
そういった理由から街の中で行われることはなく、さびしい丘の上でなされました。
誰もが目をそむける十字架だったのです。
しかし、現代において十字架が愛と平和の象徴となっているのはなぜでしょうか?
キリストがこの残酷な十字架の上で愛を示されたからです。
いのちをかけて、自分を殺す者たちのために身代わりとなったからです。
キリストの十字架の愛が、あらゆる敵意を滅ぼす和解のしるしとなりました。