東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨハネ19章1-16節「この人を見よ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/03/31

ヨハネ19章1-16節「この人を見よ」

*** 3/31(水)受難週 祈祷会説教概略 ***

ヨハネ19章1-16節「この人を見よ」

 受難週です。
 私たちはこの週、どこに心を向けるのでしょうか。
 年度末ということでなすべきことも多いでしょう。イースター礼拝があるので、その奉仕の準備や新しい年度の様々な備えのことで心がいっぱいかも知れません。

それでも、いえだからこそ、私たちがイエス様に目を注ぎませんか。
一心に見つめるべきは私たち自身や問題そのものではありません。私たちを罪とその報いである滅びから救い出してくださる主イエス・キリストに目を注ぎましょう。

ヘブル12:2にもこうあります。
ヘブル12章2節
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

 場面はイエス様が逮捕され、不当な裁判を受けているところです。イエス様は無罪でしたが、神を冒涜し人民を惑わしたという罪をでっちあげられ捕まっていました。ローマ総督のピラトはイエス様を見て色々調べても、どうにも悪くないのではないかと感じました。それもそのはずです。偽りの証言で無理やり犯罪者にされているのですから。

ピラトとしても、無罪の人を死刑にしてしまっては自分の責任が問われます。

そこで1839節でこう言っています。

ヨハネ18章39節
「過越の祭りでは、だれか一人をおまえたちのために釈放する慣わしがある。おまえたちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか。」

こうして無罪と思えるイエス様の釈放を提案しました。

しかし、ユダヤ人たちは反対したのです。釈放するのは、強盗殺人罪で捕まっている「バラバだ!」と彼らは叫びます。自分の身を案じるピラトは、このユダヤ人の狂気じみた叫びに恐れをなし、イエス様が無罪だとわかっていながらひどい目にあわせました。

ヨハネ19章1-3節
それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。

イエス様は鞭で打たれ、茨の冠をかぶせられ、バカにするために王族の衣装である紫の衣を着せられました。当時の鞭打ち刑は、鞭の先に金具や骨などが取り付けてありますから、鞭で打たれる度に肉が裂け多くの血が流れました。

打たれた痛みよりも裂傷の痛みの方が大きかったであろうと思います。想像するのもイヤですね。さらに「ユダヤ人の王様、万歳」と心にもないことを言ってののしり、顔を平手で叩きました。

これだけの事をしてピラトはやはり良心がとがめたのでしょうか。
あるいはここまですれば、ユダヤ人の溜飲が下がると考えたのでしょうか。

4節でこう言っています。
ヨハネ19章4節
ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」

 ここにあるように、客観的に見ていたローマ総督のピラトには、イエス様が悪人には思えなかったのです。罪を見つけられませんでした。明らかに何か感情的なものでユダヤ人たちが叫んでいるように思われたのでしょう。何より、何の抵抗もせず、自分の権力についても語らずない主イエス様です。

 ピラトは今まで見てきたどの権力者にも似ていないイエス様に興味わいていたようです。彼はイエス様に「真理とは何ですか」と問いかけもしました。彼はイエス様から何かを感じたことは確かでしょう。
 そこで5節です。
イエス様が無罪であると人々に知らせようと、皆の前にイエス様を連れてきました。

ヨハネ19章5節
イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」

茨の冠をかぶせられた血まみれのイエス様が目の前に現れました。
ここが今日のメインテーマとなる箇所です。「見よ、この人だ。」と訳されています。

原文を直訳するならば「この人を見よ」です。 総督ピラトはこの時、血だらけでぼろぼろのイエス様を群集の前に連れ出したのです。そして言いました「この人を見よ!」ピラトはどのような思いで「この人を見よ!」と言ったのでしょうか。その姿はみすぼらしく、惨めで、弱々しく見えたことでしょう。

「この人を見よ。彼は痛めつけられてもう満身創痍で無力だ。もはや恐れる必要もないみすぼらしい王様にすぎない!誰も彼のような王について来ないだろう」 

ピラトはそんな思いで「この人を見よ」と言ったのかも知れません。彼が悪人に見えるか?彼はそんな強盗なとでもなく、革命家のような人間でもないであろう?この姿がそれを物語っている。そんなメッセージでしょう。
これによりユダヤ人たちの留飲を下げ、納得させようとしたのではないかと思うのです。

しかしこの行為によって、イザヤ書53章の預言のとおりになっている事に気づきます。

ピラトの意思とは無関係にイザヤ書の預言の成就を手伝う形になったのです。
イザ532-4節です。
イザヤ書53章2-4節
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

このように痛めつけられるイエス様こそが、人間の救いに必要だったのです。 
 みことばは私たちに「この人を見よ」と語りかけています。ピラトとは異なる意図でそう語りかけて来るのです。罪ある人の手によって血を流され、痛めつけられているイエス様を直視せよと語られているのです。ヨハネ19章に戻り10節をご覧下さい。

ヨハネ19章10節
そこで、ピラトはイエスに言った。「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」

「俺にはお前を死刑にすることも、無罪にすることもできるぞ!俺に偉そうな態度を取るんじゃない!」とピラトは偉そうに威張っているのです。弱い犬ほどよく吠えると言いますが、彼の姿が滑稽に見えてなりません。なぜなら、ピラトの罪のすべてをご存知の聖なるお方に向かってこのような事を言っているのだからです。ピラトをも造られたこの世界の主である方が、神の御子を前にして威張っているのです。
ピラトは明らかにイエス様の中に罪を見出せていません。真理が何かもわからず威張っているだけです。

そしてピラトにもイエス様が悪人じゃないことはすぐにわかりました。それがわかっていながらも、人々を説得する力もなければ、自分の上の権威や群衆に立ち向かう勇気もなく、自分の立場を守るために16節にあるようにイエス様を十字架刑に引き渡すのです

無罪と知りながら有罪とする冤罪ですよね。ピラトは自分には権威があると思いたかったのですが、実際には無力でした。そして権力者を怖れ、群衆を恐れ、自分に火の粉がかからない道を選ぶしかできない弱い人間でした。ある意味誰もがピラトのような者ではないかとも思わされます。

本当に力ある方は目の前にいました。人が慕うような見栄えもないほどにボロボロの姿になられていますが、この方こそまことの神の御子でした。この方はこんなピラトや群衆のためにさえも十字架に向かって自ら歩まれていたのです。

ピリピ2:6-8を開きましょう。

そこには神であられる方が人を救うために神であることさえ後にして、へりくだられた姿が語られています。それに引き換え私たちは自分の小さな権利や立場、プライドを捨てられません。譲ることができずにもめます。妻と意見が対立した時、たいしたことじゃないにも関わらず譲ることができず、意地を張る自分がいます。

主イエス様のこの姿が思い出されるならば、なぜこんな小さなことさえ譲れないのかと、主の前に恥じ入るのではないでしょうか。

 十字架の主のお姿を見る時に深い愛を覚えます。愛するゆえに、神の栄光までも後にしてしまわれた。神のありようさえも、後にしてみじめな罪人のようになってくださいました。

 特に当時の十字架刑は特に極刑です。貴族や一般の人は悪いことをしてもそうそうこの刑にかかることがないのです。身分の低い者や極悪犯罪人のための刑罰です。

聖なるお方が、そこまでへりくだられたのです。しかし、だからこそ、どんな罪人をも救ってくださるのだと分かります。中途半端な小悪党だけでなく、どんな罪人をも。

イエス様は無罪とわかって尚極刑に引き渡したピラトや祭司長、群衆たちのためにも十字架にかかられました。拷問をし、唾を吐きかけ、ののしる者たちのためにも十字架に歩まれました。目の前に槍を持って、とどめを刺そうとしている兵士のために祈りました。「神の子なら、自分で十字架から降りてきて、俺たちも救ってみろ!」とののしる者のためにさえ、痛みと苦しみを引き受けられました。自分を今まさに殺そうと殺意を持っている者たちのために祈り、彼らの罪のためにさえ祈りました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」

 イエス様は十字架の上で息を引き取られる際に「完了した」とおっしゃり、ご自身の使命を全うされたことを確信されました。ご自身の苦しみが人々を救うことをご存じなので、耳代わりの死が完成することに満足されました。

 キリストを十字架につけたのは誰でしょうか。
 当時のユダヤ人たち、裁判を行い、磔にしたローマ人たちでしょうか。確かに彼らもその一人です。しかし、私たちは彼らをさばけるでしょうか。私たちの多くの罪のゆえに、キリストは身代わりの死を選ばれました。

 この方の愛を学び続けるのがクリスチャンライフです。
 あなたのために命をささげた主キリストが問いかけておられます。
「あなたはわたしを愛するか」との声が聞こえてきます。 


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教会花壇より






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