東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書22章54-62節 「イエスのまなざし」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/03/29

ルカの福音書22章54-62節 「イエスのまなざし」

*** 3/28(日)主日礼拝 説教概略 ***

ルカ22章54-62節 「イエスのまなざし」

 本日はキリスト教の暦では「棕櫚の日曜日」と言います。
 イエス様がエルサレムに入城された折に、人々が大きな棕櫚の葉を用いて歓迎したことに由来します。ただ、それから数日後、同じ週の金曜日にイエス様は十字架にかけられます。
今週の金曜日が暦の上ではその受難日、イエス様が十字架で苦しまれ息を引き取られた日になります。

 そして、金曜日から数えて3日目の朝、つまり来週の日曜日の朝にイエス様が復活なさったという流れになっています。それで来週はイースター礼拝(主の復活を喜ぶ礼拝)です。

 イエス様のよみがえりは、死への勝利であり、栄光に満ちた歓喜の時です。

 しかし、そのような復活の栄光の直前には、今お話ししたように十字架の御苦しみがあります。主は十字架の死と復活によってもたらされる「救いの喜び」のゆえに、この苦しみをご自分から引き受けられ、耐え忍ばれました。

 この犠牲のゆえに救いがあります。そして、主キリストは、その苦しみの途上にあっても、ご自身のことよりも罪のゆえに悩み苦しむ者たちと、愛する弟子たちを思いやっておられたのです。

 

ペテロの3度の否定

 
 今日のみことばは、イエス様が十字架にかかられる数時間前の出来事になります。

ルカの福音書22章54-55節
彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろした。

 イエス様は不当に逮捕され、大祭司の家へと連れて行かれました。
弟子の中でヨハネとペテロだけが、イエス様の後を追いかけました。
特にペテロはほんの少し前に「たとえ牢屋であろうと死であろうと、私はイエス様にお供します!」と言っていました。

 マタイの福音書によれば「皆がつまずいても私はつまずきません」とも言いました。

 ところが、ヨハネの口利きで大祭司の官邸の中庭に入ると、彼にとっての試練が起こります。56節にあるように、大祭司の官邸で仕えていた召使の女性が、ペテロをじっと見つめ「この人もあのイエスと一緒にいましたよ」と言い始めたのです。
ペテロはどうしたのでしょう。

ルカの福音書22章57節
しかし、ペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った。

ペテロはイエス様との関係を否定しました。続いて58

ルカの福音書22章58節
しばらくして、ほかの男が彼を見て言った。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし、ペテロは「いや、違う」と言った。 

 再びペテロはイエス様との関係を否定しました。そして、1時間ほど後にもう一度否定してしまいました。59-60

ルカの福音書22章59-60節
それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」 しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。

 合計3回、ペテロはイエス様をよく知っているにも関わらず、その仲間だと思われることを拒んで「無関係だ、知り合いではない」と言ってしまったのです。3度目の否定の後、鶏が鳴きました。その時のことが61節に語られています。

ルカ22章61節
主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。

 聖書の中でも最も劇的な場面の一つではないでしょうか。今日はここから2つの点に着目して、教えられたいと思います。

 

ペテロの姿

 
1.一点目は、まずペテロの姿に着目したいと思います。

私は若い頃、ペテロは感情や勢いで行動するからこうなるんだと思っていました。でも、聖書を味わうにつれ見方が変わってきました。特に最近は、彼は立派だなと敬意を払う気持ちが芽生えるようになりました。

それはなぜかと言いますと、ペテロが受けた誘惑は、彼がイエス様を愛する思いから勇気をもって行動したからこそ起こったことだと改めて気づかされているからです。 

彼は危険だとわかっていながらもイエス様の後について行ったのです。ペテロとヨハネ以外の弟子はさっさと逃げて行きました。もう一人の弟子ヨハネの場合も、彼が大祭司と知り合いだったので、ある意味安全に大祭司の官邸に滞在できたことでしょう。しかしペテロは違います。それでも主イエス様のことが心配で、怖い中でもついて行ったのです。

バークレーという学者はこう言います。「ペテロはなるほど誘惑に負けはしたが、それはいわば勇気ある人にのみ与えられた誘惑だった。勇敢な人はそれだけ、安逸を求める人間より危険な目に会うことが多い。」と。

本当にそうだなと思いました。
確かに「たとえ死であろうとついて行く」なんて安易なことを言わなきゃ良かったかも知れません。イエス様との関係を否定してしまうぐらいなら、最初からそんな場所に行かなければいいという考えもあるかも知れません。こういう事は言わない(しない)方がリスクも少ないし、安全に生きられます

でも、主の目にはどう映ったのでしょうか。
イエス様はあんなこと言わなきゃ良かったのにと責めたのでしょうか。わたしとの関係を否定するぐらいなら、ついて来るなと思われたのでしょうか。

そうじゃないですよね。主はご自身のためにそこまでしたペテロを本当に喜ばれたのではないでしょうか。パウロは彼なりの精一杯で主を愛したのです。勇気を出してチャレンジしたからこそ、しくじりもした。でも、最後はイエス様がこれらの失敗、しくじりを益と変えられたのです。ペテロにとってこの経験はなくてはならない、大切な出来事になりました。 

私たちも問われます。

リスクを冒すことなしに良いものを得ることは不可能です。批判されることを恐れていては何も新しいことはできません。深みに漕ぎ出して網を降ろしなさいと主が言われた時、また失望したくないからと深みに漕ぎ出さなかったら、網を降ろさなかったら、救いのみわざを味わうこともできないのです。
勇気を出してイエス様を信じませんかと尋ねなければ、「いいえ」とも言われませんが「じゃあ、信じます」との告白にも導かれません。

主のみこころは何でしょうか。

深みに漕ぎ出し網を降ろしなさいとのことばに応答したいのです。わたしについて来なさいとのみことばに、応答したいのです。「恐れずに語り続けなさい。黙ってはいけない。」との主のことばに応答したいのです。

 

主イエスのまなざし

 
2.二点目は、ペテロに対する主イエス様のまなざしです。

これがあるので、私たちは勇気をもって踏み出せます。

最初に考えてみたいのですが・・・

ペテロはどのタイミングで、主イエス様の「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」とのおことばを思い出したのでしょうか。

鶏が鳴いた事がきっかけとなってイエス様のことばを思い出したのでしょうか??

「あ、鶏!そう言えばイエス様が!」と思い出したのでしょうか?

おそらく違うでしょう。みことばを味わうと、鶏が鳴いた時に、主イエス様が振り返り、ペテロを見つめられたとあります。むしろこのゆえに、主のおことばを思い出したのでしょう 

「見つめる」と訳されているように、ここでは「一瞥した」というよりも「目を注がれた」という意味に近いものです。
※「エンブレポー」というギリシャ語は、エン(in)とブレポー(look)の合成語。「見る、一瞥する」といった意味のブレポーに「中へ」ということばが加わり、「じっと見つめる」といった意味となっています。それは表面的に見るのでもなく、奥にある真理を見つめるかのような印象を受けます。

イエス様は確かにまっすぐにペテロ自身を見つめたのです。この主のまなざしによってペテロは我に返って、主のおことばを思い出しました。 

「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」とのことばです。自分はそんなことにはなるまいと思い、他の人がつまずいても自分だけは大丈夫だと言ったのに・・・主のおことばの通りになったのです。

そして、主のおことばを思い出した時、自分のしたことの重大さに気づき、彼は外に出て激しく泣きました。彼は激しく自分を責め、後悔し、自分を憎んだかも知れません。

 主イエス様のこの「まなざし」はどんなまなざしでしょうか。ペテロは決して責められたのではないのです。主イエス様のまなざしは愛そのものでした。ペテロの信仰がなくならないようにと祈っていたイエス様です。彼が立ち直って他の者たちを励ます人になって欲しいと誰よりも願っていたイエス様です。

 だから、これは赦しのまなざしであり、心配し思いやるまなざしであったと言えるでしょう。

 私たちが自分の罪の重みがよくわかる瞬間というのは、意外にも厳しく責め立てられた時ではないのです。責められている時ではなく、自分の罪の問題に対して誰かが痛みを担って受け止め、自分のために心を痛めてくださっている愛に触れた時に、私たちは本当の意味で自分の犯した罪の重みや自分のした事の意味を知るのです。

 知人の一人が、自分の罪がわかった時の話を聞かせてくれました。まだ小学校低学年だった頃。彼はほんの出来心から万引きをしてしまったのです。しかし、それから心がチクチクと痛んで仕方がなくなり、ついに勇気を出してお母さんに告白したのです。お母さんはクリスチャンでした。彼はお母さんにひどく怒られるだろうと覚悟しました。ところが、お母さんはひどく怒る代わりに、一緒に神様に祈ろうと言いました。本当に胸を痛めて彼のために涙を流しながら祈ってくれたそうです。

「神様、この子は本当に大きな罪を犯してしまいました。どうぞおゆるし下さい」と。彼は自分のしたことが、こんなにも母親を悲しませ、神様を悲しませるものであったことに気づきました。怒られ責められるよりもずっと自分の罪の深刻さを感じ、悔い改め謝罪に行くことができたそうです。

ペテロもそうだったのではないでしょうか。イエス様に厳しく叱られたのなら、彼は激しく涙することにならなかったのでは?と思います。実際ペテロはイエス様に「下がれサタン、あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と諫められたことさえありましたが、その時は泣いた様子はありません。しかし、主の愛をそのまなざしから感じられたからこそ、彼は心底自分の罪深さに涙したのでしょう。

そして、だからこそこんな者にさえ、愛を惜しまず、何度失敗しても赦し用いてくださるイエス様の恵みの大きさ、愛の深さを知ることになったのです。この経験は、大きな喜びの栄光に至るために必要不可欠な主のご計画でした。ペテロにとっても、キリスト教界全体においても!すばらしい神様のご計画でした。ペテロは変えられていきます。この経験をしたからこそ、復活の主との再会を経て、大きく変えられて行くのです。

 私たちには、この主イエス様の愛のまなざしがあります。どうして失敗ばかりを恐れるのでしょうか。語られなければ失言もないし、責められもしない。でも、主は言われます。「恐れずに語り続けなさい。黙ってはいけない」と。私があなたのために祈り、あなたを守る。あなたをもう赦している。「大丈夫、立ち上がり使命を果たしなさい」との主のまなざしがあることを胸に刻みながら、この週を歩んでいきましょう。


萩山 四季の森公園の桜

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