東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: マルコ 12 章 28-34 節「最も大切な戒め」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2021/08/23

マルコ 12 章 28-34 節「最も大切な戒め」

*** 8/22(日)主日礼拝  説教概略 ***
マルコ 12 章 28-34 節「最も大切な戒め」
相島功師(藤沢福音自由教会牧師)

 昨年から続いております新型コロナウィルス感染は、私たち人類に対して、私たち人間が 生きていく上で何が最も大切であるかという問いを投げかけたように思うのです。そしてそ れは当然のことながら、私たちキリスト者や教会に対しても、「私たちキリスト者の信仰生 活にとって何が最も大切であるか。」という問いが投げかけたのであります。確かにこのコ ロナ感染は私たちの日常生活だけでなく、信仰生活まで根底から変えさせたのであります。 そしてその時、私たちの信仰にとって何が最も大切かを問われたのであります。それはもう 一度私たちが信仰にとって最も大切なことは何か、いや信仰とは何か、礼拝とは何か、教会 とは何か、伝道とは何かということを本質的な所、根本的な所から見直す絶好の機会とも言 えるのではないでしょうか。そんなことを考えながら、今朝はこのコロナ禍の中にあって、 それぞれがキリスト信仰の本質は何かについて、イエスが教える「最も大切な戒め」からご 一緒に学んでみたいと思います。 



 今日の箇所では、あるユダヤ教の律法学者がイエスのもとにやってきて一つの質問をい たしました。それは「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」という質問でした。 

 この律法学者の質問に対してイエスは次のように答えたのでした。(2931 節)実はここ で、イエスが第一の戒めとして引用されたのは、旧約聖書の申命記 6 4 節の御言葉でした。 次の第二の戒めの「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」という御言葉もイエス独自の教えであるかのように思われるかもしれませんが決してそうではありません。実はこの第二の隣人愛の戒めも旧約聖書のレビ記 19 18 節からの引用なのであります。しかもイエスはここで、この二つの戒めを、旧約時代のイスラエルの民だけでなく、キリスト者も含むすべての信仰者が守るべき最も大切な戒めとして取り上げているのであります。 

 それでは、何故イエスは「すべての中で最も大切な戒め」としてこの二つの旧約聖書の御言葉を示されたのでしょうか? 

 私は、それはこの御言葉にこそ、神が人間を創造された本来の目的が示されているからではないかと思うのです。 

 創世記の126 節を見ますと、私たち人間は特別に「神のかたちの似姿に造られた。」こ とが記されています。そして、そのように人間が神のかたちに似せて造られたのは、人間が 神と交わる特別な存在として造られたのだと言われます。つまり、そもそも人間は神と交わ り、神から愛され、神を愛する、神さまと関わる存在として造られたというのであります。 そして、私たち人間はこの「神を愛する」最も具体的な表現として、「神を礼拝する」ので あります。それは私たち人間がこの「神を礼拝する」ことを通して、神が人間の創造主であ ること、そして私たち人間が神によって造られた被造物であり、神によって生かされている 存在であることを常にわきまえ知り、心から神を喜び崇めるためであります。 

 それと共に神のかたちに似せて人間を造られたのは人間が神に代わってこの被造世界を 支配するためでした。そして神さまがこの尊い使命を達成するにあたり、人間に命じられた ことは「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」という家庭の建設であり社会の建設でありました。 それはこの神の遠大な使命、文化命令はアダムとエバの二人だけでは到底実行することなど できないからです。それでは、私たち人間がこの世界で子ども産み、家庭を建設し、社会を 建設していく上で最も大切なことは何でしょうか。それは私たちが神を愛することだけでな く「あなたの隣人を自分自身のように愛する。」ということなのであります。何故なら、人 間はただ神と関わる存在として造られているだけでなく、人と関わる存在としても造られて いるからです。ですから、この「神を愛し、私たちの隣人を自分自身のように愛する」とい うことは、人間が神のかたちに似せて造られた創造の目的であると共に、この被造世界を治 めるという神の遠大な使命を達成していく上で最も大切な戒めなのであります。 

 ところが、最初の人類であるアダムとエバは神さまの言葉ではなく悪魔の言葉を信じて罪 を犯してしまいました。その結果、人間の神の御顔を避ける生活が始まったのです。こうし て、罪を犯した結果、神との交わり、神との愛の関係が壊れて行ったのです。しかし、壊れ たのは神さまとの関係だけではありませんでした。その結果、私たちの最も身近な隣人となりびと であ る夫婦関係にも愛の亀裂が生じてしまったのです。ここに神への愛、隣人となりびとへの愛を失った人 間の姿があります。そのため神はこの失われた愛をもう一度回復するために、イエス・キリ ストを遣わし、救いの計画をお立て下さったのです。
 
 それでは、イエスはこの時、律法学者の問いに対して、何故第1の戒めは「神を礼拝することである」と言わずに「神を愛することだ」と言われたのでしょうか。 

 それはこの愛こそが「神のかたち」そのものであり本質だからです。そもそも私たち人間 を造られた神が愛の神だからです。その本質が愛である神がその「神の愛のかたちに似せて」 私たち人間を互いに愛し合う存在として造られたのです。だからこそ神は、罪を犯した人間 をすぐに滅ぼすことをしませんでした。むしろその罪の状態から救われることを願い、その愛を回復するために、救いのご計画を準備されたのです。しかも、何と神に背き、罪を犯し た私たち人間の救いのために、父なる神さまは最も大切で愛しておられる子なる神のイエ ス・キリストを遣わし、十字架にまで架けて下さったのです。だからこそ、この命をかけた 愛はまた命をかけた真剣な愛を私たち一人一人に求めるのです。ですから、私たちが神を礼 拝する時に、この神を愛しているか、神を愛する愛があるかどうかが最も大切なことなので す。しかし彼ら律法学者たちはこの神を愛するという最も大切な戒めを暗記するほどに知っ ていましたがこの神を愛していませんでした。彼ら律法学者たちは誰よりも忠実に安息日の 礼拝を守っていましたが、神を愛する愛がなかったのであります。それは彼らが神ではなく 人の顔色や人の評価を見ていたからです。皆さんは礼拝において誰を見ていますか。 

 実は、この神への信仰において、最も大切な愛が失われ、信仰が形式化する、偽善的にな る、これは決してイエスの時代の律法学者たちだけの問題ではないのです。今日の私たちク リスチャンであっても、ややもすると神への愛を失い、信仰が形式的になる、偽善的になる ということがあるのではないでしょうか。そしてこの神への愛を失いますと、隣人となりびとへの愛ま で人から賞賛を受けるための偽善的なものに変容していくのです。この愛は私たちと神さま との関係だけでなく、私たちの人間同士の関係においても非常に大切なのであります。 

 そういう意味では、私たちも神を愛するだけでなく、私たちの隣人となりびとを心から愛する者にな りたいと思うのです。しかしそうは言うものの、実はこの神を愛するということも、私たち の隣人を愛するということもいざ実践しようとするとそんな簡単なことではありません。 
 
 そのためイエスはここで、どうしたら私たちがそれらの愛に生きることができるか、そ の秘訣を示しているのであります。イエスはここで、律法学者の問いに対して、第一に、 第二にと語っていますが、何故順番をつけているのでしょうか。 
 
 それは私たちが、私たちの隣人となりびとを愛するようになるためにはまず神との愛の関係が回復さ れることが必要であるからです。ですから、この順番は大切なのです。しかも、聖書はここ で「あなたの隣人となりびとを自分自身のように愛しなさい。」と命じています。それは自分自身と神 さまとの関係が回復されていませんと自分を愛することができないからです。そして神さま と私との愛の関係が回復され、私が神さまからどんなに愛されている大切な存在であるかと いうことを知ることなしに私たちは自分の隣人となりびとを愛することはできないのです。ところが、 結婚カウンセリングなどをしていますと、意外と自分自身が愛せない、嫌いであるという人 が多いのです。よく愛されたことのない者に人を愛することはできないと言われますが、親 から愛されたという経験がありませんと人を愛するということがどういうことかわからな いし、難しいのです。だからこそ、私たちはまず神を信じ、神さまとのあるべき関係を回復 し、健全なセルフイメージを回復していくことが必要なのです。 

 ある牧師は自分自身のように自分の隣人となりびとを愛するとは他者の幸福について自分と同じように関心を払うことだと言います。しかし他者の幸福について自分と同じように関心を払う と言う時、クリスチャンは自分のことを犠牲にしてまで他者の幸福をひたすら願うことだと 考える人が多いのです。しかしイエスはここで「あなたの隣人となりびとを自分自身のように愛しなさ い」と言われ、自分自身を愛することを否定していません。むしろこの言葉は「自分を愛し、 大切にケアーしながら、あなたの隣人となりびとを愛しなさい」という意味が含まれているそうです。 何故なら、自分を大切にできない人、愛せない人は自分の隣人となりびとをも大切に扱い、愛すること ができないからです。 

 それでは私たちはどうしたら、心から神を愛し、隣人を愛することができるようになる のでしょうか。 

 それは私たちが、神が遣わされたイエス・キリストを救い主として信じ、受け入れること によってであります。それはその時から、イエスと共に歩む人生が始まるからです。残念ながら私たちの心の中には自己中心で自分勝手な愛しかなく、いくら自分の隣人となりびとを愛そうとしても愛せないからです。ですからイエスは最後の晩餐の席で 12 弟子たちに向かって、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛 したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ 1334)と言われたのです。 
 
 それではこのイエスの戒めのどこが新しいと言うのでしょうか。このイエスの戒めの新しさは「わたしがあなたがたを愛したように」という点にあります。それはイエスが十字架で私たちの身代わりになって死んで下さった、自分の命を賭けてまで私たちのことを愛された、 その十字架の愛に基づいてあなたの隣人を愛するということです。 
 
 しかし、そのイエスの愛に基づいて互いに愛し合うためにはまず私たちがイエスを救い主 キリストとして信じ、心の中に迎え入れ、そのイエスから愛を頂く必要があるのです。そし てキリストの愛の御霊に私たちの心の中に住んで頂く必要があるのです。何故なら、私たち の心にはキリストのような無私の愛、神の愛、隣人への愛など微塵もないからです。ですか ら、私たちが神さまとの愛の関係を回復するためにはまずイエス・キリストによる罪の赦し と神との和解がどうしても必要なのであります。そしてイエスをキリストと信じた私たち一 人一人の心のうちに御霊なる愛の神に住んで頂くことが必要なのです。その時に私たちは初 めて、「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する」という「新しいキリス トによる救いの時代」に生きることができるようになるのです。 
 
 イエス・キリストはこのように神の戒めを破り、神の創造の目的から離れてしまった私た ち人間をもう一度本来の神の創造の目的に回復するためにこの世に救い主として来られた のです。それは私たち人間がもう一度神との愛の関係を回復し、心を尽くし、いのちを尽く し、知性を尽くし、力を尽くして、私たちの神を愛し、私たちの隣人を愛する者となるためなのです。





教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *