近年の世界は「個人主義」の台頭を経て、「分断」へという流れがありました。
戦後の日本も核家族化が進み、親子3代で歩む家庭は減少していき、少子化もどんどん進んでいきました。ここ10年ぐらいは、特に民族の分断もさらに強くなり、一時期以上に差別意識も増して来たようにさえ感じました。
国と国の敵対心はより強くなったように思えます。
そのような中でコロナウイルスの問題が世界を襲っています。
そして新型コロナウイルスは、私たちを孤立させるウイルスのように見えます。
お互いに感染を避けるために、接触を減らすようにと促されます。
感染対策の考え方にも賛否あります。
五輪開催の是非も賛否あります。
ワクチン接種を受けるのか、受けないのかも各自の状況で異なります。
そこで自分と異なる考えの人を「否定」したり、「排除」したりしてしまう問題について、真剣に向き合わないといけないように思います。
どうしても「自分が正しい」という前提を人は持っています。その前提があるので、異分子を否定し、排除しようとしてしまうのではないでしょうか。
他の人と自分の意見がピッタリ合うのは確かに快感でしょう。
しかし、意見は10人いれば10通りあるのが通常です。
統計的には、10人いれば自分と全く反対の意見の人はその中に最低2人ぐらいはいるものです。
自分の正義に固執しない柔軟さと他者の異なる意見へのリスペクトが、分断ではなく結束への道です。ローマ14章に次のようなことばがあります。
ローマ書14章1-3節
信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。
信仰が強いか弱いかは単純に決められるものではないですが、他者の判断を安易に否定すべきではないと言えます。信仰のゆえに「食べない」と選択する人もあれば、信仰のゆえに「食べる」と選択する人もいます。
「感染予防をとことんすべきだ!すべてオンラインにすべきだ!」と信仰のゆえにおっしゃる方もあれば、「感染予防ばかりに偏ると、別の大切なことを失う!集まるべき時は集まろう!」と信仰ゆえにおっしゃる方もあるのです。
ワクチンをぜひ!と言う人もいれば、ワクチンはまだ未知の危険が多い、慎重に!という人もいるのです。
どちらも正解であり、どちらも不正解かも知れません。
それぐらいの気持ちで、各自が祈りのうちに自分で判断すべきであり、その判断はお互いに尊重されるべきです。
そのことで「分断」されることの方が危険です。家族間で異なる意見のために分断され、教会が様々な意見の違いから分断されるのならば、悪魔は大喜びでしょう。
コロナウイルス対策を含め、危機的状況において欠かせないことは「結束」であり「助け合い」であります。聖書は、様々な違いがあってもなお「一致を保ちなさい」と教えています。しかし、一致について誤解をしてしまうと分断の危険があるのです。
聖書が教える一致とは、お互いの違いを理解し尊重し合いながら、本質的な最も大切なところでのみ一致しようということです。
それは、イエス様がおっしゃるように
①神を愛すること
②隣人を愛することです。
神と人とを愛する動機で感染対策を頑張る人と神と人とを愛するゆえに感染対策に偏らず、交わりも大事にし続けようという人は、「神の愛」「隣人愛」において一致しているのです。みことばにおいて決してバラバラとは言えないのです。
誰もコロナウイルスの感染を拡大させようとは思っていません。
感染者も早く良くなるようにと願っています。
いのちを守ろうと思っています。
そして自分のいのちも他者のいのちも大切です。
皆が良くなることを願っていながら、分裂、分断されてしまうのは非常に残念です。奇しくもアメリカのバイデン大統領の演説で「分断ではなく結束を」とおっしゃっていましたが、私も今、コロナ下だからこそそれが大切だと思います。
医療連携をしなければなりません。医療が分断されたままでは困ります。町医者さんも、大きな病院のお医者さんも、えらい医療の学者さんも、そして看護師さんたちも、立場がどうこうとか言って分断されている場合ではなく、結束して連携して事態に当たるべき時ではないでしょうか。こういう時こそ官民が結束して事態収束に向かうべきでしょう。
国と各自治体でだいぶ意見が違うのですが、そこも分断ではなく、各自治体にもっと委ねつつ、しかし情報を共有し合って結束して立ち向かうべきでしょう。
さばき合って、奪い合ってではなく、あるものを分かち合い、お互いの助けを借り合いながら、大きな敵にしっかりと対峙し、勝利すべきではないでしょうか。
ローマ書15章1節
私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。