*** 8/15(日)主日礼拝 説教概略 ***
創世記2章7-9節、他「人とは何者か」
私たち人間は、何者なのでしょうか?案外こんな質問をすると、答えに困ってしまうのではないでしょうか。人間である自分が、自分のことを実はよくわからないのです。生まれた時のことも幼少期のことも、どのようにして言葉を身に着け、どのように成長してきたか、自分の中で何がどのように作用して、今の自分になったのか。実はよくわからないのです。
しばしば、今の自分の気持ちも分かりません。自分の体の中で何が起こっているのかも分からないのです。宇宙にも行けるほどの知識や技術を持ちながら、自分のことは案外まだまだ分からない。
童謡「ゾウさん」の作詞で知られる詩人まどみちおさんの発言は素朴でありながら、はっとさせられるものがあります。彼のことばに、このようなものがあります。
「私は人間の大人ですが、この途方もない宇宙の前では、何も知らない小さな子どもです」
自分の意志でこの世界に生まれ立った人はおらず、気が付いたら生きてここにいるのです。そんな私たちですから、人を造られた神様から謙虚に教えていただきたいと思います。自分でわからないのですから、無理に想像や憶測でとらえるのではなく、造り主である神様に教えていただきましょう。
神のことばである聖書は、人をどのように語っているのでしょうか。
創世記2章7節
神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。
人が具体的にどのように造られたのかが記されています。大地のちりで形づくられ、その鼻からいのちの息を吹き込まれ生ける人間となったと語られています。なお、「ちり」と聞くと「小さなゴミ」をイメージされる方もあると思います。けれどもそうではなく、粒子の細かな土(砂)という意味でしょう。人の肉体の成分は、実は土の成分とよく似ていると言われますから、説得力がありますよね。ですから「土に帰る」という言い方もあります。
しかし、「つちくれ」に過ぎなかった者が、こんなにも精密な人間となれたのは、何よりも神様がそこに、いのちの息(霊魂)を吹き込んでくださったからです。
これなしに人は人としてこんな風に会話し、時に悩み、時に感動し、時に大声で笑うことなどできないのです。こうして人は、神の霊をいただいて、肉体だけではなく、魂や霊といった大切な部分を含めて人となりました。私も幾度なく親しい人の死に直面してまいりました。その際にいつも感じることは、亡くなったあとのからだは、生気が失われた抜け殻のようであることです。神様が吹き込んだいのちの霊魂が、もはや天に挙げられ、その体には宿っていないという事を実感したものです。
神が与えられた霊的いのちが、私たちを人とならしめているのです。
そう考えるなら、肉体の健康も大切ですが、魂と言われる部分が生かされていることが本当に大切なことだと気づかされるのです。
目に見える部分でばかり歩みがちな私たちです。しかし、もう少し、日々の生活の中で、自分の魂の健康のことにも心を配り、よくケアしていく必要があるのではないでしょうか。
教会の存在意義はそこにありますよね。肉体のケアは医療や温泉で得られても、魂のケアまではできません。魂のケアができるのは、唯一神がいのちの祝福を置かれた教会です。
イエス様ご自身、教会を指して「ハデスの門(地獄の門)もこれには勝てない」とおっしゃいました。教会は魂の健康をしっかりと保ち、この滅びの力にさえ余裕で勝利するのです。人が霊的な存在であるからこそ、このケアの大切さに目が注がれますね。
2. 似姿を継いでいく存在
さて、続いて少し先。創世記5章をお開きいただけるでしょうか。5:1-3です。
創世記5章1-3節
5:1 これはアダムの歴史の記録である。神は、人を創造したとき、神の似姿として人を造り、5:2 男と女に彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、彼らの名を「人」と呼ばれた。5:3 アダムは百三十年生きて、彼の似姿として、彼のかたちに男の子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。
ここで神様は人に、ご自身の持っている性質を付与してくださったことがわかります。
どんな性質でしょうか?
最初の人アダムは神の似姿として造られたわけですが、3節をよく味わうと、実は、人間も自分の子を生む時に、自身の似姿として子を生んでいくのだと語られているのです。
3節では1節と同じような言い回しで、「彼の似姿として、彼のかたちに男の子を生んだ」と表現されているのが印象的です。これは実際のところ、皆さんも経験されていますよね。
親子は確かに似ていますよね。骨格、目鼻立ち、声質、体質、性格等、よく似ているところがあります。アブラハムとその息子イサクが、同じような罪を犯したことも聖書は記録しています。自分に似せようと特別意識などしていないと思います。それでも、似た性質を受け継いでいくのが人間なのです。
神様はそのように、人が一つの世代でプツンと切れるのではなく、色々なものを受け継いでいける存在とされたということでしょう。
3. 神から働きの恵みをいただいた存在
本日のみことば、2章の8-9節のところに戻りたいと思います。
創世記2章8-9節
8 神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。9 神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
造られた人間は、「喜び」を意味するエデンの園に住まわされました。「園」ということばはギリシャ語訳では「パラダイス」に該当します。そこはまさに「喜びの楽園」であったのです。神様は苦しみの世界など望まず、喜びの楽園を人のために備えられたのです。
神様が本当に人を愛し祝福していたということです。わが子のように大事に思われていたと分かります。そこでは、働けば働いた分だけ実りを経験し、労働の喜びがあり、労働の実りである様々な農産物を食べて楽しむことができたのです。
少し先の15節を読むと、こうあります。
創世記2章15節
神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。
まだ人が罪を犯す前の時代です。ですから、労働は決して罪の結果生まれたものではないと分かります。耕し管理するという働きを神は人にゆだねていたのです。人はそもそも、神様から働きを与えられて、責任をもって働き、その労働の正当な報酬を受ける存在であったと言えます。
4. 罪によって神との交わりが壊れた存在
しかしながら、人は罪を犯してしまいました。9節で登場した「善悪の知識の木」、これだけは唯一食べてはならないと17節で禁じられています。
それにも関わらず、3章で人は食べてしまうのです。罪を犯した結果、人は本来得られるはずだった恵みを失い、代わりに多くの苦しみを担う者となり、特に死を持つ存在となりました。神に対する裏切り、背信です。神に背を向け、神様との愛の交わりから離れてしまったのです。今話しましたように、人が罪を犯し神から離れ、堕落してしまったということが、創世記の3章で語られています。
3:16-17、罪のゆえに生みの苦しみ、夫婦の愛のすれ違い、そして労働の苦しみが加わりました。
創世記3章16-17節
16 女にはこう言われた。「わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。また、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」
17 また、人に言われた。「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。
これらは、罪によって神様から離れた者の苦しみの一例です。どんなに良い物を所有しようとも、どんな地位を得ようとも、私たちの全部を知って、深く愛してくださっている神様との関係が壊れたら、人は幸せになることができないのです。
神にあって初めて健全な報酬が受けられ、神との毎日の対話の中で生活が守られていました。親元に居た時には、悪いことから守られ、規則正しく健康的な生活ができていた人が、ひとり暮らしをするようになって、全く不健康で不規則な生活になることがあります。
それと少し似ているかも知れません。神様とエデンの園で本当に幸せで、落ち着いた生活があったアダムとエバです。しかし神に背を向けて歩む道を選んでしまった。結果、交わりが絶たれ、自分の思うままに歩み、すべてが壊れて行ったのです。
5. 安息年の教え
ですから、仕事を良いものとして造られた方、神に立ち返って行くことこそ、仕事の本来の恵みに立ち返っていく方法であると言えます。休むべき時には休み、労働の本当の価値や目的を見出し、働く者にはふさわしい報酬をもたらす。
こうしたあるべき姿は、神のふところに帰る時に、回復されていくわけです。神様はそれをご存知ですから、人に救いの道を用意されたのです。大切な御子の犠牲をもって、すべての人にご自身との交わりの回復の道を備えました。
人間を聖書から理解するとき、神との関係が壊れ、堕落したという出来事で終わらないことが大切です。むしろ、人は救われる存在です。神との関係を回復し、本来の恵みを取り戻し、いや、さらに新しいことをされると言われる「主の新しい恵み」に歩める存在なのです。
数か月前、他教会でご奉仕したときに、各駅停車の電車に乗るべきだったところ間違えて、特快に乗ってしまいました。気づかず、それで予定の駅を通り過ぎ、しかもその後も5駅ぐらい先まで行ってしまう。「ああ、終わった。遅刻かも」と私の心の声が言いました。遅刻をしたら、説教も落ち着きを失い、すべてが崩れるような気がしました。
でも、神様に祈りました。「これもきっとあなたのご計画、この失敗さえも用いてくださるでしょう」と。すると、冷静さが与えられました。そしてこう思いました。たいしたことはない。次に止まる駅で降りて階段を下り、隣のホームに階段を上って移動し戻る電車に乗るだけだ!!事実そうなのです。時間にもギリギリではありましたが、無事に間に合いました。
人はやり直せる存在です。道を間違えた。なら戻って来て、やり直せばいいのです。神様から離れた。ならば戻ればいいのです。前と同じではないかも知れません。でも、前と同じである必要さえないのです。そこに新しい恵みがあるのですから。神がおられるならそうなのです。
そして、神様は間違えてしまった道で起こったことのすべてもご存知で、それを救いの道において生かしてくださる方です。そこに神の助けと導きがあれば、どんな失敗もどんな挫折も、必ず益とされて新しい恵みに明日を歩んで行ける。それが人です。