東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 創世記16~21章「神から笑顔を授かったサラ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/04/27

創世記16~21章「神から笑顔を授かったサラ」

 *** 4/27(水)祈祷会 説教概略 ***

創世記16~21章「神から笑顔を授かったサラ」

 私たちは苦しい時、つらい時に心から笑うことができません。コロナになってから、笑う機会が減ったという方もいらっしゃるかと思います。人は笑いたい時に笑えるほど器用ではないのかも知れません。ただ、笑顔も神様がくださるものであることを教えられます。それはサラという女性が体験したことでありました。今日はアブラハムの妻サラに注目し、彼女を扱ってくださった主を知る機会とさせていただきたいと思います。


ウルという町でアブラハムとサラは結婚し、親族とともに過ごしていました。この町は当時、非常に栄えていました。考古学的発見によれば、この地域の比較的大きかったようです。アブラハムと妻サラは、割と裕福でな暮らしをしていた可能性が考えられます。

彼女の元の名前はサライで、「女王」という意味があったと言われます。生まれつき気品や美しさがあったのでしょうし、環境的にもある程度の家庭でないと、なかなかこうした名前は付けられなかったかとも思います。

彼女の美しさを象徴する出来事もありました。アブラハムは彼女の美しさを心配していましたし、実際エジプト人が「非常に美しい」と感じて、ファラオに勧めたほどでした。当時、サラは65歳ほどですから驚くべきことです。このようにサラは、豊かな町に生まれ、容姿も美しく、ある意味恵まれたお嬢様という印象です。

ですから、その人が夫に啓示された神様みこころを受け止め、豊かな生活や親族友人たちとの交わりを後にして、見知らぬ地へと旅立ったことは勇気のいることであったでしょう。

直接啓示を受けたアブラハムはまだしも、その夫について行き、故郷を離れることは、ある意味アブラハム以上の決意が必要であったかもしれません。 

Ⅰペテロ3:5 かつて、神に望みを置いた敬虔な女の人たちも、そのように自分を飾って、夫に従ったのです。3:6 たとえば、サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です。 

サラは自分が直接示されていなくても、夫のアブラハムが主から示されたことを尊重しました。神様によって夫が与えられたと信じ、自分が従うべき「あるじ」であると敬意をもって従ったのです。みことばに照らしておかしいものでないなら、主が立てた人として基本的尊敬をもって従うことも信仰ですね。

 とはいえ、彼女の信仰が成長する大きなきっかけは、出産を通してでありました。聖書によれば彼女は不妊症であったと語られています(創世記11:30)。富もあり、美しさもありましたが、彼女は子を産めないという弱さを抱え苦しんでいたのです。特に当時の社会では、子を産めないことが、現代以上に大きなハンディでした。さぞ苦しかったことでしょう。

 神様はアブラハムに、あなたの子孫は星の数のようになると告げられました。しかし、一方で現実は、子が与えられないままに年齢だけ重ねていく状況があったのです

 最終的には25年間も待たされることになります・・・。


 そして、彼らがカナンの地に来て10年後。アブラハム85歳、サラが75歳。

 さすがにサラはもう無理だと考え、あきらめました。そこで彼女は、自分のもとに仕えていた女性の奴隷ハガルに、自分の代わりに出産してもらおうとしたのです。

16:1 アブラムの妻サライは、アブラムに子を産んでいなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
16:2 サライはアブラムに言った。「ご覧ください。主は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。 

 事実、こうしてハガルは妊娠したのです。ただ、この事実がかえってサラを苦しめることになってしまいました。神のみこころの方法ではなかったからです。妊娠したハガルが彼女を見下すようになり、難しい関係になりました。サラはいら立ち、やがて彼女を追放してしまうのです(6)

 子孫を残すためにアブラハムの子を妊娠させたのですが、サライがそれに耐えられなくなったのです。サラはプライドも傷つき、ハガルの態度にいら立ち、どうにもならなかったのでしょう。

 実に私たちも、自分で良かれと思って判断したことで、結局苦しんでいくということがしばしばあります。一見、良い方策に見えても、主に祈り求めず焦って人間的な方法に頼る時、結果として余計に苦しくなっていきます。私たちは、落ち着いて主の御声に聴き、主の時を待つ必要があるのではないでしょうか。

詩編377節に「主の前に静まり 耐え忍んで主を待て。」とあります。

 それは一時的な感情に任せて行動せず、主に信頼して待ち望めということです。この7節の少し前5節に、親しみのあるみことばがあります。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」と。主が成し遂げてくださるのだと、信じて待てということです。焦りは何も生み出しません。

 そういう意味ではサラは、失敗をしながらも、非常に長らく待つ訓練をさせられた人物です。アブラハムが99歳となり、サラは89歳でしょうか。創世記18章です。神の人がアブラハムを訪れました。

18:10 すると、そのうちの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」サラは、その人のうしろの、天幕の入り口で聞いていた。
18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっていて、サラには女の月のものがもう止まっていた。
18:12 サラは心の中で笑って、こう言った。「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」 

 サラは来年の今ごろには、男の子を出産すると言われ、あまりにも信じがたくて笑ってしまったのです。来年にはアブラハムは100歳。自分も90歳。バカバカしさとあきらめの笑いでしょうか。

 しかし、それを神の人に聞かれ「なぜ、サラは笑っているのか」と。そして続けて14節でこう語られます。 

14 主にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」 

「神に不可能なことがあろうか」と告げられ、恐ろしくなって、彼女は「笑っていません」とウソをつくかのように打ち消しています。しかし、主は不信仰の笑いを、喜びの笑いに変えてくださいました。その時にこそ、サラは自分の不信仰を心から恥じ、そのような者に目を留めて約束通り子を与えられた主に感謝したことでしょう。

 21章で、主のことばが実現しました。

21:1 主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。
21:2 サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。 

 子どもの名前は「イサク」と名付けました。主が命じられた通りです。その意味は「彼は笑う」でした。この時のサラの発言が記録されています。6節です。

6 サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」 

 ここにサラの成長が示されています。いくら神様でも不可能だと笑ってしまった。そんな自分であったのに、主は約束を取りやめることなく、本当に与えてくださった。真実な神様が、私に笑顔をくださった。あきらめの笑いを、心からの喜びの笑いに変えてくださった。そんな彼女の感謝が現れています。

 主が約束を忘れず、サラの不信仰にも忍耐し、子を与えてくださったこと。その主の真実と優しさに、彼女は笑顔になれたのです。

 人々が笑おうとも、もう彼女には関係ないという姿勢にも見えます。辛い時自力では笑えないのです。笑おうとしてもひきつってしまうでしょう。しかし、主が顧みてくださると知る時、主が愛してくださっていると知る時、主によって笑顔にさせていただけるのです。



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