東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記14章、ヨシュア記14章「忍耐深いカレブ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/06/08

民数記14章、ヨシュア記14章「忍耐深いカレブ」

*** 6/8(水)祈祷会 説教概略 ***

民数記14章、ヨシュア記14章「忍耐深いカレブ」

 本日は、エフンネの子カレブの姿に目を留めましょう。彼の信仰から学び、主のみこころを知る機会とさせていただきましょう。今、ちょうど礼拝説教でも民数記から学んでおり、カレブとヨシュアの場面をお話ししたところでした。記憶に新しい場面です。

 さて、カレブはどういう人物だったのでしょう?

 彼は約束の地を探るために派遣された偵察隊の一人で、イエス様と同じユダ部族出身です。彼の信仰の純粋さと勇敢さ、忍耐とは見習うべきものがありました。

 実際、他の偵察隊の者たちが否定的な報告をする中、カレブは恐れずに言いました。

「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」(民数記13:30

多くの人が否定的な意見を言う中、必ず勝利できると告白することは簡単なことではありませんでした。しかし、民は約束の地に入ることは不可能だと考え、一晩中泣き明かしました。そして、ついにエジプトに帰るとまで言い出したのです。

それでは主のみこころに反し、神に敵対することになります

 それはいけないと、カレブとヨシュアは必死に説得を試みたのです。

民数記148-9  
8節 もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。
9節 ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」 

 この発言はいのちに関わる発言でした。民の反発を招いたからです。民はエジプトに戻った方が良いと言い、反対に「進もう!」と主張する二人を石打にしようと考えたほどでした。でも、カレブは石打にされる危険が迫っても、その姿勢を変えなかったのです。

神様に逆らうことだけは選ぶべきではない。主がともにおられるから、進むべきなんだ!と。

 この時の彼は40歳でした(ヨシュア記で年齢のことが触れられています)。まだ若手の方であったでしょう。年配の人々がいる中で、彼は勇気を持って発言しました。

 この姿勢のゆえに、カレブとヨシュアだけは、約束の地へと入ることができたのです。
24節にこうあります。 

民数記14:24 ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。 

 カレブはこのことばをそのまま信じていました。ただし、長い間待たされ、忍耐の時を過ごすことになります。彼は信じて進むと言ったのに、多くの者が反対したゆえに、なんと40年間も荒野で待たされるのです。それでもカレブは主の約束を信じて待っていたのです。カレブはこのことばを、ずっと心に留め覚えていました。ヨシュア記14:7-8に進みます。
ヨシュア記14章

7節 主のしもべモーセがこの地を偵察させるために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。私は自分の心にあるとおりを彼に報告しました。
8節 私とともに上って行った私の兄弟たちは民の心をくじきました。しかし私は、私の神、主に従い通しました。 

 この発言の時、彼はすでに85歳となっていました。荒野で40年過ごし、さらに約束の地に来て5年がすでに経過していたのです。続く10-11節です。

10節 ご覧ください。イスラエルが荒野を歩んでいたときに、主がこのことばをモーセに語って以来四十五年、主は語られたとおりに私を生かしてくださいました。ご覧ください。今日、私は八十五歳です。
11節 モーセが私を遣わした日と同様に、今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです。 

 85歳になってもその信仰は衰えるどころか、純粋であり勇敢です。信仰によって85歳であっても彼が意気軒昂である様子が伝わってきます。もう年だから私はできない。ダメだと下を向く姿ではありませんでした。信仰を持ち続けている人の強さです。

 伝道師アーサー・ホーランドが初めて教会に行って驚いたことは、ご年配の方々の目がみんな輝いていたことだったと言います。それに感動して、イエス様ってすごいと思ったとの証しを伺いました。

 これは私も真実だと思います。

カレブは85歳になって、ますます力強く成長しているのです。それでもまだ、彼は自分に約束された地を得てはいませんでした。ただ、その時が近づいていたのです。1412節です。

14章12節 今、主があの日に語られたこの山地を、私に与えてください。そこにアナク人がいて城壁のある大きな町々があることは、あの日あなたも聞いていることです。しかし主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができます。」 

彼はあの発言から45年も経って85歳になってなお、主の約束を覚えています。今から主が約束してくださった地に獲得しに行くと言うのです。カレブの信仰のすばらしさは「純粋」かつ「勇敢さ」でしたが、より素晴らしいものは信仰による忍耐深さかも知れません

約束が語られて45年たってもまだ実現していない主の約束を信じていたのです。しかし、それを主はずっと見ておられ、よくご存じでいらっしゃいました。13-14節です。

ヨシュア記14章
13節 ヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。
14節 このようにして、ヘブロンはケナズ人エフンネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。

 14節の最後に「主に従い通したからである」と語られています。彼が途中であきらめずに、主に従い通したので、彼とその子孫たちが大いなる豊かな地を相続したのです。

 それは本当に大きな財産、繁栄、民族の祝福となりました。なんという信仰でしょうか!与えると言われてから45年の時を経ている。でも、信じ続けている。

 皆さんはそんな信仰はいやだと思われるでしょうか?
 
 すぐに成就して欲しいと思われるでしょうか?

 では、カレブはこの45年間不幸だったのでしょうか?? 

 むしろ逆でしょう。信じて待ち続ける恵みを、生涯通して経験してきた人だと言えるのではないでしょうか。彼はこの約束を信じて生きることで、主から生きる力をいただいたのです。祈りがすぐに聞かれ、約束が即成就するというのは、一見良いように見えます。しかし、霊的な意味では必ずしも良いことではないのです。時にそれは、信仰の成長の機会を奪ってしまうことになるからです。

 私も牧師になって初期の頃から、この教会の成長と新会堂の事を祈りました。でも、それぞれ随分と待たされました。ですから「主よ、なぜ?」と問いかけることも幾度かありました。しかし、こうして主に何度も問いかけ、食い下がり、求めることで、主との交わりが生まれ、主から語られて来たのです。挫折、失敗。思うようにいかない日々がなければ、私は主から新たに教えられることも少なかったでしょう。砕かれることがなければ、今より乏しい説教しか提供できなかったでしょう。

 むしろ、思うように行かず、待たされる中でこそ、私たちは練られ育てられていくのです。受洗された姉妹方のお証しを聞きながら、多くの苦しみ、試練が人を育て、主に近づけるのだと改めて教えられました。「様々な試練にあうときは、いつでも、この上もない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2とのみことばは真実です。

カレブは長く待たされる歩みの中でこそ、信仰を練られ育てていただいたのです。

 忍耐は「練られた品性」を生み、練られた品性は「希望」を生み出します。プロセスの一瞬一瞬に、育ててくださる主の大いなる恵みがあるのです。ゆえに、ある信仰者の祈りは「成就されるよりも、祈り続けさせてください」でした。弱い私たちだからこそ、望んでいた通りの答えが簡単に出てしまうと満足し、祈り求めることを止めてしまうのです。

 思うようにいかないこともある。親しい人の救いも簡単ではない。

 だからこそ、真剣な祈りの格闘が主との深い交わりを生むのです。そこに主による愛のご計画があることを心に留めましょう。約束のものを得るのに必要なのは忍耐であって、自分を楽させる選択肢を選ぶことではありません。

 試練のその先に、主が義の実、平安の実りを備えておられます。



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