東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: コロサイ1章21-23節「栄光の望み キリスト」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/06/14

コロサイ1章21-23節「栄光の望み キリスト」

*** 6/12(日)主日礼拝 説教概略 ***

コロサイ121-23節「栄光の望み キリスト」

 少し前に大ヒットしたアニメ「鬼滅の刃」。そこで話題になった主人公のセリフがあります。痛み・苦しみに耐える時の心の声です。「俺は長男だったから我慢できたけど、二男だったら我慢できなかった」というもの。戦いの最中にそんなことを思っているのはコミカルでもあり、印象的です。

 しかし、私も長男ではありますが、正直、あまり共感できませんでした(長男でも我慢はできません 笑)。ただ、彼の場合、6人兄弟の一番上で、お父さんも早くに亡くなっているという設定です。それで後から少し理解できたのは、幼い弟・妹たちを守らなければという立場で頑張って来たという背景があったからなのだろうということです

確かに、人は意味のわからない苦しみに耐えることは難しいものです。一方で、同じ苦しむのでも、目的があるならば違った景色が見えてきます。特に、その苦しみが大切な人を救うためであるなら、話は別でしょう

コロサイの教会に手紙を書いたパウロも、多くの苦しみを通っていました。しかし、その苦しみが、「栄光に満ちたキリストにある希望」を伝えるためだったので、彼は苦しみさえ喜びとして数える事ができました人々のいのちを救うため。ゆえに彼は喜びをもって苦しみを引き受けられたのです

生きているのならば、それぞれの人生に様々な痛みや苦しみがあるのは必然です。それは神様を信じて歩もうと、そうでなかろうと、避けられない現実です。どのように生きても苦しみがあるのならば、誰かの救いのため、いつまでも残ることのために苦しみたいものです。何よりパウロのように、「苦しみさえ喜びとできる」としたら、なんと尊いことでしょうか。その秘訣は、「栄光の望み、キリスト」を知ることにあります。

 

1. 苦しみを喜びとできる理由

 
宣教者パウロはこの手紙で、コロサイの人々のために苦しむ事を「喜びとしている」と語りました。「苦しみさえ喜びとできる」。どういうことでしょう。24節でパウロはこのように語っています。

24節 今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。 

結論としては、この苦しみはキリストの苦しみの一部を担わせてもらっているゆえに嬉しいのだということです。

非常に特徴的な表現があります。彼が「自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たす役目をさせていただいている」と言うのです。私は以前、これがどうにもピンと来なかったのです。しかし、最近、これがジワジワと胸に染みるようになりました。

これは「キリストの十字架の苦しみが不十分だ」と言っているのではありません。その十字架の死と復活は、救いのみわざとして完全です。これは間違いありません。

けれども、その十字架を伝えるゆえの苦しみは、信じる者たちが担うべき部分として神様によってあらかじめ計画されたものなのです。主は、「キリストの十字架の苦しみ」に、信じた者による「宣教の苦しみ」を加えられたのです。

これによって神の救いのみわざが豊かに現われるようにするためです。

キリストの弟子に、大切な役目を期待しておられるということです。これはとても光栄で、嬉しいことです。

救いのみわざとしては十字架の死と復活で完全です。しかし、世界の人々が信じ受け入れるためには、涙とともに種をまき、伝える人々の存在が必要不可欠なのです

神様は「あなたたち弟子は何もやることがなく不要だ!」とはおっしゃらない。むしろ、キリストの苦しみを一緒に担うあなたがたの存在によってこそ、世界はキリストの愛を知るのだとおっしゃっているのです。この「欠けたところ」ということばには「ニーズ、必要」という意味もあります。主が私たちの労苦を必要としてくださっているのです。そう思うと嬉しいのです。パウロの福音の理解の豊かさに改めて感動を覚えます。


2. 委ねられた務め

 
パウロは25-26節で、「キリストの苦しみを満たす働きの中身」について、具体的に説き明かしています。
25節 私は神から委ねられた務めにしたがって、教会に仕える者となりました。あなたがたに神のことばを、
26節 すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。 

神様が委ねてくださった務め。それは世界の人々に、福音の奥義を伝えることです。26節にある「奥義」ということばは、原語のギリシャ語で「ミステリオン」ということばです。英語のミステリーの語源で、「奥の方に隠されている真実」を指します。

これはイエス様を信じて、その福音の奥に入って行った者だけが知ることのできる恵み、真実を指します。外から眺めているだけでは、あるいは入口付近で引き返しては、分からない真理です。テレビの食レポなどでも、一切食べずに伝えていたら可笑しな話です。信じてよく味わい、豊かに経験する中で深みを知ります。だから「奥にある義」と書いて「奥義」なのです。

 それは27節にあるように「栄光に富んだもの」であって、異邦人たちに対して豊かに輝くものです。私たちは、真の宝を知った者として、世界にこれを現す特権を与えていただいたのです。その宝こそイエス・キリスト、栄光の望みです。

 パウロはかつて、キリストとその弟子たちに強く反対し、激しい迫害をしてきた人でした。そこにも色々な苦しみがあったでしょう。満たされないむなしい心に悩んだことでしょう。罪悪感にも苦しんだでしょう。彼には何かしらの体の弱さもあったことを聖書は暗示しています。 

 しかし、彼はそれらの苦しみとは異なる苦しみに入ることが許されたのです。同じ苦しむにしても、別次元の苦しみを知る者となったのです。自分のための「むなしい苦しみ」ではなく、「栄光の望み・キリストのために苦しみ労する道」です。

私たちもしばしば、このために悩み苦しみ、葛藤します。ああでもない、こうでもないと話し合い、準備し、調整し合い、時に衝突し、時に傷つきながらです。けれど、それは真剣だからこそ本気だからこそ起こることです。どうでもいいのならば、適当に流せばいいでしょう。

 小説家・三浦綾子さんが救われるために、その隣で本当に苦しみながら導いた前川正さんという方がいました。深刻な病に自暴自棄になっていた綾子さんに、前川さんは繰り返し愛をもってイエス様を伝えました。肺の病でありながら、尚、自分の前で平然と煙草を吸う綾子さんを見て、前川さんは悲しくて仕方がなかったのです。ある時彼は、彼女の前でふがいない自分を責め、石で自分の足を打ち付けた程でした。「なぜ?そんなことを?」と尋ねられた彼は、正直な気持ちを答えました。綾子さんのために、それはもう激しく熱心に祈ったこと。綾子さんが生きるためなら、自分のいのちもいらないと思うほどであること。それでも信仰の薄い自分には、綾子さんを救う力もないこと。そして、そんな不甲斐ない自分を罰するために、自分を石で打っているということです。本気で綾子さんを助けたいと願ったのです。実に、頑なだった綾子さんもその姿を見ながら、「いつの間にか私は泣いていた」そうです。自分のために苦しんでくれる愛に心を打たれたのです。

このような真剣な姿勢で、一人の人の救いのために労苦することが私たちにはあるだろうかと考えさせられます。十字架の苦しみは、私たちが福音宣教のために労苦することをもって、真の意味で完成に向かうのです。別に苦しみたいわけではありません。しかし、人の人生やいのちが関わっているのですから、苦しみがあることはある意味当然ではないでしょうか? そして、その苦しみが強いからこそ、新しく生まれた人をより大きく喜ぶことができるのも事実でしょう。

 先日、あるインタビューを受けました。「牧師として働いていて、一番嬉しいことは何ですか」という問いです。「人々が神様と出会って変えられていくこと」だとお答えしました。絶望していた人が希望を抱き、孤独な人が愛を知り、生きる意味を見出せなかった人が、人のために生きる喜びを見出していく。キリストを知って新しい人生を歩んでいく。そのお手伝いができることは、何よりも喜びです。しかし、それは、簡単なことではないこともよく知っています。人が神と出会い、変えられていくプロセスにおいては、導き関わる者も忍耐と多くの痛みを経験します真剣に伝えればこそ、伝わらなくて、どうにかして伝えたくて苦しみます。祈っても祈っても、思うようにいきません。どんなに涙を流そうと、涙した分だけ人が救われるわけでもありません。

 

ただ、今日のみことばに慰められます。改めて励まされるのです。

 

これらの痛み、苦しみは無駄でないどころか、尊い必要なものとして主がご計画の中に持っておられるからです。キリストの十字架があれば、私たちは不要だという救いではない。キリストの友、キリストの弟子とされた私たちが、一緒に十字架の苦しみを担うことで、世界に救いが広がることが、主のご計画なのです。ですから、私たちの労苦がむなしく地に落ちることはありません。イエス・キリストと一つとされ、その部分とされ、キリストの苦しみの欠けたところを満たす働きができるのです。

すべては「栄光の望みなるキリストのゆえ」に。私たちはこの望みがあるからこそ、労苦が無駄にはならないことを知っているのです。

 

3. キリストとともに苦しみ、キリストとともに喜べる

 

私たちは何のために働くのでしょう?

何のために苦しみ悩むのでしょう?

それが、すぐに消え去るもののためであれば、なんとむなしいことでしょう。

 

どうせ苦しむのなら、むなしいことのために苦しむのではなく、良きことのため、人の笑顔のため、いつまでも残る豊かなもののために苦しみませんか? 苦しみのお誘いのようですが、実にこの苦しみの中にも、そしてその先にも大いなる喜びがあるのです。

28-29節でもこう語られていますね。

28節 私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。
29節 このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。 

「労苦しながら奮闘しています」とあります。

その苦闘は決して孤独なものではありません。

ここに「自分のうちに力強く働くキリストの力によって」とあるからです。ともにおられる主キリストの力によるのです。

 キリストは大宣教命令を語り、弟子を世界に派遣するときに、「あなただけで勝手に頑張れ」とは言いませんでした。

 むしろ、こう言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」 主とともに苦しむ者には、必ず主とともにある消えない喜びが備えられているのです。



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