コロサイ1章21-23節「栄光の望み キリスト」
確かに、人は意味のわからない苦しみに耐えることは難しいものです。一方で、同じ苦しむのでも、目的があるならば違った景色が見えてきます。特に、その苦しみが大切な人を救うためであるなら、話は別でしょう。
コロサイの教会に手紙を書いたパウロも、多くの苦しみを通っていました。しかし、その苦しみが、「栄光に満ちたキリストにある希望」を伝えるためだったので、彼は苦しみさえ喜びとして数える事ができました。人々のいのちを救うため。ゆえに彼は喜びをもって苦しみを引き受けられたのです。
生きているのならば、それぞれの人生に様々な痛みや苦しみがあるのは必然です。それは神様を信じて歩もうと、そうでなかろうと、避けられない現実です。どのように生きても苦しみがあるのならば、誰かの救いのため、いつまでも残ることのために苦しみたいものです。何よりパウロのように、「苦しみさえ喜びとできる」としたら、なんと尊いことでしょうか。その秘訣は、「栄光の望み、キリスト」を知ることにあります。
1. 苦しみを喜びとできる理由
けれども、その十字架を伝えるゆえの苦しみは、信じる者たちが担うべき部分として神様によってあらかじめ計画されたものなのです。主は、「キリストの十字架の苦しみ」に、信じた者による「宣教の苦しみ」を加えられたのです。
これによって神の救いのみわざが豊かに現われるようにするためです。
キリストの弟子に、大切な役目を期待しておられるということです。これはとても光栄で、嬉しいことです。
救いのみわざとしては十字架の死と復活で完全です。しかし、世界の人々が信じ受け入れるためには、涙とともに種をまき、伝える人々の存在が必要不可欠なのです。
神様は「あなたたち弟子は何もやることがなく不要だ!」とはおっしゃらない。むしろ、キリストの苦しみを一緒に担うあなたがたの存在によってこそ、世界はキリストの愛を知るのだとおっしゃっているのです。この「欠けたところ」ということばには「ニーズ、必要」という意味もあります。主が私たちの労苦を必要としてくださっているのです。そう思うと嬉しいのです。パウロの福音の理解の豊かさに改めて感動を覚えます。
2. 委ねられた務め
それは27節にあるように「栄光に富んだもの」であって、異邦人たちに対して豊かに輝くものです。私たちは、真の宝を知った者として、世界にこれを現す特権を与えていただいたのです。その宝こそイエス・キリスト、栄光の望みです。
パウロはかつて、キリストとその弟子たちに強く反対し、激しい迫害をしてきた人でした。そこにも色々な苦しみがあったでしょう。満たされないむなしい心に悩んだことでしょう。罪悪感にも苦しんだでしょう。彼には何かしらの体の弱さもあったことを聖書は暗示しています。
しかし、彼はそれらの苦しみとは異なる苦しみに入ることが許されたのです。同じ苦しむにしても、別次元の苦しみを知る者となったのです。自分のための「むなしい苦しみ」ではなく、「栄光の望み・キリストのために苦しみ労する道」です。
私たちもしばしば、このために悩み苦しみ、葛藤します。ああでもない、こうでもないと話し合い、準備し、調整し合い、時に衝突し、時に傷つきながらです。けれど、それは真剣だからこそ本気だからこそ起こることです。どうでもいいのならば、適当に流せばいいでしょう。
小説家・三浦綾子さんが救われるために、その隣で本当に苦しみながら導いた前川正さんという方がいました。深刻な病に自暴自棄になっていた綾子さんに、前川さんは繰り返し愛をもってイエス様を伝えました。肺の病でありながら、尚、自分の前で平然と煙草を吸う綾子さんを見て、前川さんは悲しくて仕方がなかったのです。ある時彼は、彼女の前でふがいない自分を責め、石で自分の足を打ち付けた程でした。「なぜ?そんなことを?」と尋ねられた彼は、正直な気持ちを答えました。綾子さんのために、それはもう激しく熱心に祈ったこと。綾子さんが生きるためなら、自分のいのちもいらないと思うほどであること。それでも信仰の薄い自分には、綾子さんを救う力もないこと。そして、そんな不甲斐ない自分を罰するために、自分を石で打っているということです。本気で綾子さんを助けたいと願ったのです。実に、頑なだった綾子さんもその姿を見ながら、「いつの間にか私は泣いていた」そうです。自分のために苦しんでくれる愛に心を打たれたのです。
このような真剣な姿勢で、一人の人の救いのために労苦することが私たちにはあるだろうかと考えさせられます。十字架の苦しみは、私たちが福音宣教のために労苦することをもって、真の意味で完成に向かうのです。別に苦しみたいわけではありません。しかし、人の人生やいのちが関わっているのですから、苦しみがあることはある意味当然ではないでしょうか? そして、その苦しみが強いからこそ、新しく生まれた人をより大きく喜ぶことができるのも事実でしょう。
先日、あるインタビューを受けました。「牧師として働いていて、一番嬉しいことは何ですか」という問いです。「人々が神様と出会って変えられていくこと」だとお答えしました。絶望していた人が希望を抱き、孤独な人が愛を知り、生きる意味を見出せなかった人が、人のために生きる喜びを見出していく。キリストを知って新しい人生を歩んでいく。そのお手伝いができることは、何よりも喜びです。しかし、それは、簡単なことではないこともよく知っています。人が神と出会い、変えられていくプロセスにおいては、導き関わる者も忍耐と多くの痛みを経験します。真剣に伝えればこそ、伝わらなくて、どうにかして伝えたくて苦しみます。祈っても祈っても、思うようにいきません。どんなに涙を流そうと、涙した分だけ人が救われるわけでもありません。
ただ、今日のみことばに慰められます。改めて励まされるのです。
これらの痛み、苦しみは無駄でないどころか、尊い必要なものとして主がご計画の中に持っておられるからです。キリストの十字架があれば、私たちは不要だという救いではない。キリストの友、キリストの弟子とされた私たちが、一緒に十字架の苦しみを担うことで、世界に救いが広がることが、主のご計画なのです。ですから、私たちの労苦がむなしく地に落ちることはありません。イエス・キリストと一つとされ、その部分とされ、キリストの苦しみの欠けたところを満たす働きができるのです。
すべては「栄光の望みなるキリストのゆえ」に。私たちはこの望みがあるからこそ、労苦が無駄にはならないことを知っているのです。
3. キリストとともに苦しみ、キリストとともに喜べる
私たちは何のために働くのでしょう?
何のために苦しみ悩むのでしょう?
それが、すぐに消え去るもののためであれば、なんとむなしいことでしょう。
どうせ苦しむのなら、むなしいことのために苦しむのではなく、良きことのため、人の笑顔のため、いつまでも残る豊かなもののために苦しみませんか? 苦しみのお誘いのようですが、実にこの苦しみの中にも、そしてその先にも大いなる喜びがあるのです。
28-29節でもこう語られていますね。
「労苦しながら奮闘しています」とあります。
その苦闘は決して孤独なものではありません。
ここに「自分のうちに力強く働くキリストの力によって」とあるからです。ともにおられる主キリストの力によるのです。