東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第一ヨハネ3章11~18節「愛しましょう」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2023/09/25

第一ヨハネ3章11~18節「愛しましょう」

*** 9/24(日)主日礼拝 説教概略 ***

第一ヨハネ31118節「愛しましょう」

 私たち夫婦は、明日からサバティカルを迎えます。約40日、牧会のお働きから離れます。こんなに長い期間、教会を離れることは、20年の牧会生活で初めてのことです。楽しみでもあり、さみしくもあり・・。といった心境です。その際に10月の5回の礼拝で、お忙しい中、ご奉仕くださる先生方にも本当に感謝です。心からの敬意と祈りをもってお迎えしていただければと思います。


 そして、皆さんがみことばから十分に教えられるように祈っています。しばしば申し上げていますが、説教は語る者だけでなく、それを聴く者の姿勢もとても大切です。皆さんご自身が「教えられやすい器」となって、説教者がどなたであろうとも、みことばを聴く力を主からいただき、恵まれるよう祈っています。

 この期間は、私たち夫婦にとっての研修休暇であり、同時に皆さんにとっても良い成長の機会であると信じています。牧師が長期不在なんて滅多にないことです。皆さんも羽を伸ばして・・・ではなく、むしろ普段以上に学べる機会と考えていただきたいのです。そう考えてくださると、私も安心してリフレッシュできます(笑)。

 事実、信徒同士が助け合う絶好のチャンスだと思います。私のようないい加減な牧師であっても、「牧師がいないだけで不安だ」という声も聞きます。だからこそ、神様により頼むこと、そしてお互いに愛でカバーしていくことを大事にできる機会です。ぜひ、心から愛し合いましょう!!

 

1.正しい者に苛立ち、妬む問題 ⇔ 愛

 11節では、主イエス様の大切な教えが確認されています。

11  互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。

 これはイエス様がおっしゃって以来、繰り返し大事にされてきたメッセージでした。このことをより深く教えるために、ヨハネは、愛を失うことの危険を、創世記の実例を挙げて警告しています。12節で「カインのようになってはいけません。」とありますね。続いてこうあります。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。 

 カインは弟のアベルを殺してしまったのです。しかも、その理由は、自分が悪かったので、正しく行ったアベルに苛立ち嫉妬したからでした。「愛」よりも「プライド」でしょうか。意外にも人は、まっすぐな人、正しい人を見ると、尊敬よりも苛立ちや嫉妬心を持ちやすいのではないでしょうか。

 私も若い頃に、自分と同じように悪さをしない真面目な友人に苛立ったことがありました。それで「あいつは偽善者だ!いい人ぶっている!」と批判してしまいました。

 イエス様を処刑した人たちも、イエス様が悪人だったから死刑にしたのではありません。自分たちが悪く、イエス様が正しかったからです。特に、律法学者、祭司長たちは、自分よりも圧倒的に正しく、しかも人望があるイエス様に嫉妬し、苛立ったのです。

 ですから、キリスト者はイエス様に従順に従うほどに、罪の世から憎まれることがあるものなのです。だからこそ、世があなたがたを憎んでも驚いてはなりませんと13節でありますよね。正しく生きるならば、正しく生きない者からは疎ましく思われるのです。これは伝道者の書でも学んでいますよね。不条理な罪の世なので、正しい者が不当な苦しみにあうことがあるのです。

 

2.いのちに留まる者は、愛する者である

それはもう少し見方を変えると、私たちキリスト者は、傷つける側ではないことを喜び、そして、傷を引き受ける側に召されているのだとは言えないでしょうか

聖書学者のマシュー・ヘンリーは、強盗に遭った時にこのように日記に記しています。「自分は強盗に遭ったのであって、自分が強盗をしたのではないことに感謝する」と。ひとつ間違えれば、自分がその罪を犯す側にもなり得るのです。私たちもキリストと出会っていなければ、人を傷つけても何とも思わないような者だったかも知れません。しかし、悪者の道に立たず、主の前の正しさと愛を教えられているのです。

第一ペテロ220-21節にかけて、こうあります。

2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。2:21 このためにこそ、あなたがたは召されました。 

私たちは今、何者でしょうか。キリストの足跡にならうようにと召された者です。

第Ⅰヨハネ314節。14  私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。 

当時、教会を惑わす偽預言者、偽教師たちがありました。イエス様が教えていない教えをもたらし「自分たちこそ、いのちに属する者だ」と言ったことでしょう。しかし、彼らにはその「しるし」がありませんでした。どんなしるしでしょうか?兄弟を愛するというしるしです。

それどころか彼らは、自分たちに尊敬を払わない者を憎みさえしたのでしょう。憎むということは、死の側、殺人者の側です。15節にこうありますよね。

15  兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。 

人を憎み嫌悪することは、心の中で犯す殺人でしょう。実際の殺人は、あまりにも失う物も多すぎるためにせずに済むことが多いでしょう。しかし、心や頭の中でなら容易です。「あの人がいなければいいのに」と存在の消去を願う。それは神様の前に内なる殺人とも言えるのではないでしょうか。それはカインの側に立つことです。私たちは心においても、ことばにおいても、行動においても、主の愛に生きるのです。私たちが真のキリスト者であるしるしは、信条を丸暗記していることではありません。

むしろ、どんな時にも愛し合うことに心を注いでいる姿です。それが、いのちに移された者たちの証しです。私たちはもう人を憎み傷つける側ではなく、人々の悪意を受けてさえも、彼らのために祈る者とされました。かつては隣人を憎むことさえ、当然の権利のように思っていたでしょう。しかし、キリストを知ってから変えられたのです。愛する者となったのです。それが、キリストの弟子として「いのち」の側に入れられた証しなのです

 

3.いのちを捨てて愛してくださったキリストの弟子として生きる

 そして、このいのちの側の中心には主イエス・キリストがおられます。それで、イエス様に目を向けるようにと語られます。

16  キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 

 ここでヨハネは「愛が分かる方法」を教えています。愛が分かっていない人に、私たちはどうやって愛を教えるのでしょうか。イエス様の愛を教える方法はどれか? 

三択クイズです 

①厳しく怒って指導した 

②愛の本を渡し、宿題として10回読むよう指導した 

③いのちを捨てて愛してくれた  

 正解は③ですよね。イエス様はご自分のいのちを捨てること、「それによって、私たちに愛が分かったのです」とある通りです。キリストが罪人のためにいのちを捨ててくださることによって、人々は愛を知ったのです。愛がわかったのです。

こうしてキリストからじかに愛することを学んだのが、あなたがたキリストの弟子、キリスト者であると言うのです。それで、ヨハネが勧めているのは、あなたがたも兄弟のために「いのちを捨てる」べきだということです。それはイエス様がおっしゃったように、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様について行くことでしょう。イエス様が愛したように愛の道を最後まで大事にしていくのです。17節に具体的なことがありますね。

17  この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。 

先ほどの16節では「兄弟のために」ということばは、実は複数形でした。厳密には「兄弟たちのために」でした。しかし、この17節では、「自分の兄弟」と単数形で語られています。それは、具体的な誰かをイメージしやすいようにするためでしょう。あなたのすぐ隣にいる、あの人が困っている。あなたの助けを求めている。そのために何ができるか?何をささげようか?と。

ここでは、持っている財を惜しまず、犠牲を厭わずその人を助けるよう促されています。それは「いのちをささげる」ことにつながるでしょう。お金がなければ生きてはいけないのですから。そのように自分の生活の一部、自分のいのちの一部を分かち合う愛のわざです。皆さんには思い浮かぶ「あの人」がいるでしょうか。

財と同じように時間をささげるということもあるでしょう。聖路加病院名誉医院長で、105歳で天に召された日野原重明さんがおっしゃっていたことばがあります。「いのちとは、あなたの使える時間のことです。 時間を使うこと、それはいのちを使うことなのです。あなたは大切な時間を何に使いますか?」と。

ちなみに、この方は100歳を超える頃でも、23年先までスケジュールが一杯だったそうです。移動中も原稿執筆に時間をささげ、多くの人々に聖書的な価値観、いのちの尊さを伝え続けました。困っている兄姉がいるなら、あわれみの心を閉ざしてはいけないのです。

「あわれみの心」と訳されていることばには「はらわた」と言う意味があります。私たちはすごく苦しいこと、悲しいことがあると、胸が締め付けられ、はらわたがよじれるような痛みを覚えます。「あわれみの心」とは、薄っぺらな、口先だけのことではなく、自身の胸を痛めながら思いやることなのだと気づかされます。

それを閉ざしてしまうのは、楽でしょう。犠牲を払わずに、愛したという結果と満足感だけを得られたら、どんなに楽でしょうか。しかし、犠牲のない愛はないのです。十字架の死を抜きにして、復活の栄光だけを得ることはあり得ないのです。愛はいのちを注いでいるのです。C.S.ルイスは言いました。「愛するということは、傷つきやすくなることである」と。

イエス様こそ、愛するゆえに傷つくことを拒まず、自ら引き受けられたお方です。鎧を脱ぎ、自分を守ることをしませんでした。ゆえに、弱い人々、傷ついた人々がイエス様のもとに来ることができました。罪人たちが、虐げられている者たちが、子どもたちまでも。イエス様はご自分の心を閉ざすどころか、人々に分け与えました。ご自身のいのちをささげました。

それゆえに、私たちは愛が分かったのです!! 

 私たちはもう、傷つける側、憎む側には立ちません。どんな時にも兄弟姉妹を愛する側に立ちます。そして、18節にありますように口先ではなく、心を込めて行いと真実をもって愛しましょう。サバティカルの間も、ぜひ、一部の信徒にだけに負担が集中しないように、できる限り、自発的に「これは私がやります」と申し出て、他の兄姉を支えて欲しいのです。今日のみことばを実行する良い機会です。妬みを捨て、心配している「そぶり」ではなく、実際に重荷を負い合いましょう。心を込め、時間をささげて愛する決心をしていただけたらと願います。11月に、皆さんがどのように愛に歩み恵みをいただいたのか、その証を聞けることを楽しみにしています。


教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *