東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨハネ4章27-35節「霊的な関心を持つ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/09/22

ヨハネ4章27-35節「霊的な関心を持つ」

*** 9/20(水)祈祷会 説教概略 ***

ヨハネ427-35節「霊的な関心を持つ」

 悪魔の誘惑に遭ったイエス様はおっしゃいました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。』と書いてある。」と。人は肉の糧だけではなく、霊的な糧として「神のみことばを味わい、みことばに生きていくこと」が必要であるということです。 

今日の箇所の34節でもイエス様はこうおっしゃっていますね。

34 イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。 

 ところが、この箇所では弟子たちが肉の糧にばかり関心を向けており、霊的なことに関心を持てないでいる姿が語られています。

 これは、私たち自身の課題でもあるのではないでしょうか。教会の様々な働きにしても、プログラムの立案や事務的な事に、時間とエネルギーの多くを費やし、そこに集うひとりひとりの心や信仰の状態に関心を向けることが少ないということはないでしょうか。

 滞りなくイベントを行うことも大切なことではありますが、それ以上に、そこに集う人々のためにじっくりと祈り、ひとりひとりに関心を向けることは大切です。「その人々の救いや信仰の成長のために何をすべきだろうか」と関心をもって臨むことです。ついつい事務的なニーズへの準備ばかりになりがちな私たちです。

 主のみことばから教えられましょう。色づく畑にしっかりと霊的な関心を向けましょう。

 

 27節をご覧ください。

27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。 

 食料を買いに出ていた弟子たちが戻って来ました。すると、サマリア人の女性と語り合っているイエス様の姿を見たのです。それで弟子たちは「驚いた」とあります。しかし、誰も「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と尋ねませんでした。つまり、イエス様がどんな思いで彼女と話しているのか、そのことに少しも関心を持って尋ねる者がいなかったのです。

 ここで「女の人」と訳されたことばには冠詞が付いていません。その意図は、弟子たちが「その女性」個人への興味を持っていなかったということです。冠詞がない場合、その人を特定しておらず、女性一般を現わすことになります

 つまり、少し強調して訳すと、イエス様が「女性」と話していることに驚いたという意味なのです。弟子たちは「その女性」を見ておらず、イエス様が公の場で女性と話していることに驚いたのです。

 当時のユダヤ社会では、ユダヤ人教師が外で公然と女性と話すことは滅多にないことだったからです。女性としたらさみしいことです。自分という一人の人間には、弟子たちが少しも関心向けていないのです。

 しかし、これではイエス様の弟子として、失格ではないでしょうか。このサマリア人の女性自身を、その人格を見ていないのです。この人に、どんな悩みがあるのだろうか。どんな苦しいところを通ってきたのだろうか、それを見ていない。

 さらには、イエス様はその女性の中に何を見いだし、今こうして語り掛けておられるのだろうか、その意図は何だろうかということに、弟子たちは少しも関心を向けることができなかったのです。これを「霊的無関心」と言わずしてなんと言うのでしょうか。

イエス様は、この女性の中に強い霊的な求めを感じ取っていました。そして、この女性が、これから人々を救いに導く器となることを期待したのでしょう。実際、28節によれば、この女性は大事な水がめを置いたまま町へ行きました。何をしに行ったのでしょう?イエス様と出会った喜びと感動を知らせに行ったのです!

これまで彼女は人付き合いを避けていました。それなのに彼女は変えられ、自分から話しに行っているのです。イエス様は、将来の変えられた彼女の姿をも見つめていたのでしょう。私たちもそうありたいのです。

一方で弟子たちの霊的無関心が際立って表現されています。32節で、主イエス様が「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」と言われました。ところが、弟子たちは物理的な食べ物を思い浮かべるばかりです。33節にあるように、こっそり誰かが食べ物を差し入れたのかと思ったのでしょう。「誰かが食べる物を持ってきたのだろうか」と互いに言い合っています。弟子たちは、イエス様を喜ばせるために、どんなご馳走を用意すればいいかと、そんな考えにとらわれていたのです。イエス様はそうした弟子の姿を見て、よく忍耐されたなあと思います。ため息が出そうな場面です。

しかしながら、イエス様は忍耐深く、弟子たちに寄り添い説き明かされています。34節以下です。霊的な意味で理解できない弟子たちのためにさらに詳しく語られたのです。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げること」だと!!イエス様が喜ばれる食べ物は、お肉でも魚でもない。もちろんパンでもないし、ぶどうでもない。

イエス様の求めていた糧とは、主のお心を理解し、それを実行する姿です。人の救いに関心を持ち、人の霊的成長のために一緒に祈り労すること。買い物ではなく、美味しいご飯を備えることではなく、楽しい企画をすることでもない。それらのことも、人の救いや霊的成長のためにと考えることのできる姿勢こそ、主が求めておられるものなのです。それこそが、イエス様にとってのご馳走でした。ですから、弟子たちが少しも関心を向けなかった先ほどの女性の行動こそ、イエス様に喜ばれたのです。

何度聞いてもこれを悟らない弟子たちに、イエス様はさらに促しを与えてます。35節です。

35あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。 イエス様の食事の世話、事務的なこと、それらばかりを見ている弟子たちです。目の前に求めている人がいるのに、霊的指導を得れば目が開かれていく人がいるのに、何もしない弟子たち。「まだしばらくある」と先延ばしにしている姿。

彼らにイエス様は言われるのです。しっかりと目を上げて色づいている「神の畑」を見なさいと言われました。刈り入れるばかりになっているじゃないか!なぜ、人に関心を向けないのかと。なぜ、「まだ収穫は来ない」と言っているのかと問われたのです。

 

私たちも今日、主から語られています。一体何を見て、何に関心を向けて歩んでいるのでしょうか。どんな時でも、人の救いとその霊性成長という霊的な働きへの関心を失ってはいけないのです。人々の救いと成長のために話し合う時間が圧倒的に少ないのではないでしょうか。

私自身も今、非常にそのことを示され、悔い改めに導かれています。教会には様々な会議の場があります。しかし、それらがもっともっと霊的な課題を語り合う場となるようにしていかなければなりません。運営的なことばかりで終わってはならないのです。もちろん、事務的なことも、企画・運営も大切なことです。しかし、それらの一つ一つも、霊的な関心を抜きにするならこの世と何ら変わらないものとなってしまいます。

 イエス様が求めているのは、ただその事であって、どんな美味しいものを食べるかではないのです。「無くなる食物」のために奔走する弟子は、イエス様が関わろうとしている女性に対する見方もこの世的です。女性を一人の尊い人格として見ておらず、女性というひと固まりで見ていました。自分たちの常識という枠が大事で、その枠からはみ出た行為をするイエス様に驚きました。

 でも、その女性が何者で、これからどんな恵みのみわざが起きるのか、そこに期待して見つめるのならば、この出来事に彼らは大いなる感動を覚えたでしょう。このサマリヤの女性は、これまでの自分のこの世的な生き方を後にしました。新しい霊的な歩みを始めています。水を汲みに来たのに、その水がめを置いて行ったのがその証拠です。それよりもずっと大切なことに目が開かれたからです。

 私たちも、御霊によって新しく生まれたものです。心の目を開いていただき、主の望んでおられることに、一番の関心を向け、そのために労する者とならせていただきましょう。





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