東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書4章7-12節「二人は一人にまさる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/09/19

伝道者の書4章7-12節「二人は一人にまさる」

 ***9/17(日)主日礼拝 説教概略 ***

伝道者の書4章7-12節「二人は一人にまさる」


 コロナウイルスというパンデミックのダメージは、まだ継続中であるように感じています。各教会での青年会やJYLCなども、縮小傾向となり、そこからの回復が簡単ではないように思います。しかし、そういう中でも、私たちの教会の青年たちが、キャンプや交わりで励まされています。そして、それぞれに新しい決心をし、責任ある立場を引き受け、多方面で活躍していることは本当に嬉しいことです。若い青年たちが決心し、勇気をもって主のために踏み出しているのに、より上の世代が弱腰でいる場合ではありません。私も、彼らの献身の姿に大いに励まされ、一つ「祈って欲しい」と頼まれている「新しい責任」を引き受けることを導かれています。

 そして、青年たちの交わりの炎は、他の教会の青年たちにも引火し励まし、別の教会でも青年会を盛り上げていこうという動きが出てきました。11月には合同の集いを持つ計画が生まれ、テーマは「コネクト」ということです。コロナで交わりが分断された現状に、ふさわしいものだと思わされます。主にあって「つながること」ですよね。まず主イエス様とコネクトし、イエス様の愛に結ばれ、仲間同士もコネクトするということです。

 キリスト者、神の民の強みは、やはり共同体です。二人は一人よりまさる。伝道者の書で語られているこの格言が、神様によって与えられた大いなる恵みであることを、ご一緒にみことばから教えられて参ります。
 

7節で「私は再び、日の下で 空しいことを見た」と語られていきます。その内容は何でしょうか。それは、ひとりぼっちで誰かのために生きることがない「孤独」という「空しさ」です。

8 ひとりぼっちで、仲間もなく、 子も兄弟もいない人がいる。 それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、 その目は富を求めて飽くことがない。そして「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた空しく、辛い営みだ。

 「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。と語られています。「言わない」とは、そうした疑問さえ持たずに生きているということです。世的な成功を求め、富を求めて夢中になってはいるが、「誰のためにしているのだろう」「何のために頑張っているのだろう」と考えることさえしない。
(※訳によって少し違いがありますが、結論的には、結局、誰のためにしているのか、何のためにしているのか、そこに答えを見つけることができないということです)。

 こうして「だれかのために」と思える相手もいない、ひとりぼっちの人の人生は、空しく辛い営みであると語られています。なぜ、そのような生き方は「空しく、辛い」ものなのでしょうか。なぜ、交わりの中で歩むことが大切なのでしょうか。その理由について、9節以降で具体例を挙げながら語られています。 

9節 二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。 「二人は一人にまさる」 

 これは、当時、おそらく広く知られていたであろうことわざです。二人の労苦には、一人の場合よりも良い報いがあると言います。二人で考え、補い合う働きはより豊かなものを生み出しますよね。

 イースターのチラシを配っていた時、私は必ず二名以上で配りましょう!と言うことで、一緒に楽しく配りました。チームで話をしながらですし、お互いの存在に励まされるのです。自然と笑顔も出ますよね。それをまた地域の方々もご覧になっているでしょう。

 でも、ひとりぼっちでアルバイトにて配布している方も見かけました。見るからにつまらなそうに、お仕事してされている様子でした。同じ配布するのでも違うのですよね。
 組み合わさることで得られる豊かさ。交わりがもたらす恩恵が語られていると言えます。10節でもこう続きます。

10 どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。 倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。

ここでは、旅路の危険を例に挙げているのかも知れません。一人旅は気ままです。しかし、一人旅ほど危険なものはありません。日本の現代の旅行とはまるで違います。ケガをしたり、穴に落ちたりした時、一人では死につながります。ですから、助け起こしてくれる仲間の存在が大きいですよね。

そして、もちろん「人生の旅路」として理解する必要があります。誤った道に陥っている時、正しい道に戻してくれる仲間がいることは、なんと感謝なことでしょうか。絶望し、八方ふさがりに思える時に、一緒に悩み考えてくれる友がいることでどれほど支えられるでしょうか。

特にここでは、「どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす」と語られています。「どちらか」と言っています。それは、どっちもあり得ると言うこと。一方的ではないのです。「友」は互いに与え合うものですよね。自分が困った時だけ助けてもらう関係を「仲間」とか「友」と言えるでしょうか。

交わりにおいても、片方だけがずっと話すのではない。時に自分の姿を振り返ってみませんか?自分ばかり話してはいないだろうか。相手のお話をじっくりと聞いているだろうか。自身に問いかけていただきたいのです。仲間のため、友のために、話をまず聴こうという姿勢です。「聞く」ではなく、「聴()く」姿勢を意識しませんか。「聴く」という漢字を分解すると、「耳」と「十」と「目」と「心」です。十の「目、耳、心」で聴くと考えたら良いかも知れません。相手への関心を持って意識的に聴くという意味です。

続く11節でも、相互に支え合える強みが語られています。 11 また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。 これも旅における助け合いでしょう。イスラエルの夜はよく冷えます。日中との寒暖差が大きい分、体の負担も大きいそうです。それゆえ旅人たちは身を寄せ合って寝る必要がありました。これも、どっちかだけが体温を提供しているのではなく、お互いに与え合うわけです。

実話かどうかわからないのですが、雪山で遭難した3人の人の話を読んだことがあります。吹雪の中で3人はふもとに戻ろうと必死でした。ところが、そのうちの1人が大けがを負い、1人では歩けなくなったのです。3人のうち1人は、「ケガした人を助けていたら自分の命も危ない」と考え、1人で下山する決断をしました。しかし、もう1人の人は、見捨てることができず、リスクを意識しながらも、ケガをした仲間を背負って少しずつ下山しました。

背負いながらどうにかふもとまで降りてきた時、なんと!先に降りたはずの仲間が雪の上で冷たくなって力尽きているのを発見しました。結果論かも知れませんが、仲間を背負って降りた人は、お互いの体温によって体が守られて助かったという話です。もちろん、これは雪山でのベストな対応だと紹介しているのではありません。ただ、こうした話を通して、自分が仲間を守っているようでいて、実は自分もその人に守られているということに気づいて欲しいのです。

自分は支えられてばかりだと思う人もいれば、「あの人は、いつも私の足を引っ張る」と思い、自分だけが支えていると思う人もいます。しかし、本当はお互い様なのです。「誰かのために」と思って何かができる。そういう相手がいる。それはとても幸せなことなのです。自分のためにはできなくても、子どものためならできる。友のためならできる。困っている人のためなら頑張れる。それが人間です。

私も弱り果て自暴自棄になりそうになった時にも、やはり家族がいる、教会の皆さんがいる。そう思うとまた立ち上がって頑張ろうと思えます。それは自分が誰かを支えているようでいて、その人たちの存在によって支えられてもいるということです。

 神様はそのような交わりをくださるのです。最後12節です。

12 一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。 

 旅路においては盗賊や追いはぎに遭うこともあるでしょう。その際に、一人より二人の方が確実に対応できます。そして、二人よりさらに多いことの恩恵が確かにあることでしょう。12節の最後はあえて「三つよりの糸」を持ち出していますよね。日本では戦国大名の毛利元就が3人の息子が一致団結するようにと、「三本の矢は折れにくい」という話をしたことが有名です。

 けれども、それよりもはるか昔から似たような格言があったということです。これが意味することは、一人より二人がまさっているが、実はさらに加わると、さらに強固になっていくという意図です。二人が最善だと言っているのではなく、一人より二人、二人より三人。あるいはもっと多くの者でともに歩む恵みを語っているのです。

 ただ、私たちはいつでも、まず主である神様とともに生きることがすべての土台です。そういう意味では、「三つ撚りの糸」というものを、神様と中心として私たちの交わりが結び合わされるイメージで理解すると良いかも知れません。なぜなら、人と人とを最も深い絆で結び合わせることができるものは「神の愛」だからです。主イエス様は決してあなたを見捨てないのです。まさに切れることのない結び目です。その結び目に、人々が加えられるならば、その交わりは強く、深く、豊かです。

 旧約聖書でも最も美しい友情のモデルと言えば、ダビデとヨナタンでしょう。その例は興味深いのです。彼らの真ん中に主がおられたからこその友情だと分かります。このような個所があります。 第一サムエル20:23 私とあなたが交わしたことばについては、主が私とあなたの間の永遠の証人です。 ヨナタンがダビデに語ったことばです。ヨナタンが、自分の立場を顧みずに、ダビデを救い出そうとした時に語ったことばでした。神様が自分たちの間の永遠の証人であると。ダビデはヨナタン亡き後も、ヨナタンの子孫に良くしてあげました。

 神様が真ん中におられる時、互いに真実を尽くし合う交わりとされていきます。結婚においてよく、神様を頂点とする三角形のように、夫婦の間に主がおられると覚えて歩むことを大事にするように言われます。それを忠実に守っておられる夫婦は何十年経っても、きっと良き夫婦でしょう。しかしこれは、夫婦だけでなく、兄弟姉妹、仲間、友との交わりにおいても大事なのです。ダビデとヨナタンのように、間に主がおられると覚えて歩むのです。すると、間に主がおられるのですから。その罪のために十字架で苦しまれたイエス様を前に、平然と相手を罵るようなことが言えるでしょうか。仲間を騙したり、ウソをついてごまかしたり、ひどいことばで罵ったり、そういうことから守られるのではないでしょうか。

どんなに親しい人でも万能ではないし、私たちの求めに応じられないこともあります。悲しいことですが、時には裏切られ、見捨てられることもあります。助けたいと思っていても、何もできないこともあります。それゆえに、私たちは主を、私たちの交わりのただ中にお招きするのです。実に、キリストの十字架こそ、隔ての壁を打ち壊し、敵意を廃棄し、二つの別々の立場の者たちを結び合わせる「和解の十字架」です。

 私たちは時に、一人で生きた方が気ままで気楽です。わがままに歩めますし、他の人に気遣いをして疲れることもないでしょう。しかし、交わりには、その気楽さをはるかに超える神様からの「いのちの祝福」があるのです。一人では証ができない時でも、仲間がいる時、勇気をもらって証ができることでしょう。イエス様の御名で励まし合える仲間、大事にしていきましょう。




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