東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書2章17~24節「自分自身を教えること」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/09/14

ローマ書2章17~24節「自分自身を教えること」

*** 9/13(水)祈祷会 説教概略 ***

ローマ書21724節「自分自身を教えること」

 今日学ぶべき大切な真理は「自分自身を教えること」です。他人を教えることに夢中になっていて、自分自身に教えていないという問題が起こります。しかし、本来は、人に教える立場の者こそ、誰よりもみことばから「教えられやすい器」であることが求められています。神様に喜ばれる人は、自分にみことばを聞かせる人です。

 

17-20節にかけて 17  あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、18  みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、19-20  また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、

 ここでは、ユダヤ人がいかに、自分たちの立場を誇っていたのかが示されています。彼らは誰かに聞かれなくても、自分から「ユダヤ人です!」と自慢するように名乗り出たのでしょう。そして、ユダヤ人のプライドの根拠は「神の民」として選ばれたということ。「選民意識」ですね。実際に、神に選ばれ、神の律法を学んできているということは、良いことであり、尊いことでありました。

 しかし、彼らはそれを「自分を誇るために利用していた」面が確かにあるのではないでしょうか。しかも、その教えを本当の意味で大切にできていませんでした。知識として持っており、それを自分たちを正当化するため、立場を高くするために使っていました。

 それは主の教えの目的とは異なるものです。みことばは、神の恵みと真実を人が知るために与えられ、神の前にどう生きることが大切なのかを学ぶためのものです。自らの罪に気づかされ、恵みによって変えられていくものです。

 ですから、本当にそのことが分かっているのならば、19-20節のところに語られていることを実行できたはずです。「目の見えない人の案内人」、「闇の中にいる者の光」、「愚かな者の導き手」、「幼子の教師」となるべきでした。神様もそれを期待したのです。

しかし、彼らはそれを自負し、自称しているだけで、その中身はかけ離れていたのではないでしょうか。目の見えない人の案内人となるべきだったのに、自分たちが迷子になっているのです。

闇の中にいる者の光として照らす役目があったのに、自分たち自身が闇の住人になってしまっているのです。自分たちこそ愚かで無知な者、まるで成長していない幼子のままでした。

それは、なぜでしょうか? 

神のみ教えを人間の教え・自分たちの教えにすり替えてしまい、結局自分自身に対してまっすぐに、みことばを教えなかったからです。人間的な律法にしてしまい、自分たちが他の人を支配しやすいように造り変え、自分の都合ばかりを追求したのです。屁理屈を用いて正当化しました。そのようにして、神様のみことばをまっすぐに、そこにある真理をくみ取り求めることをしなかったのです。

それゆえに、パウロから厳しく指摘されているのです。

21-22節  どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。 

他人を教えながら自分を教えないという問題。それは深刻です。巧妙に言い訳ができるように教えを改変し、自分たちに都合のいいようにしていたと言えます。

22節では、盗み、姦淫、偶像礼拝を、ユダヤ人が罪悪感も覚えずに行っていたことを指摘しています。これらの罪を犯しても、罪悪感を覚えて悔い改める人の方がずっと良いでしょう。でも、彼らは理由を作り、正当化していたことが一番の問題です。律法違反ではないように見えるようにして、堂々と罪を犯していたことになります。

それゆえに、イエス様はこう言われていました。

マルコ76節 イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。』 

 正当化が深刻な問題であるのは、悔い改めができなくなるからです。信じた者であっても、悔い改め、変えられていく姿勢を失うと「聖化」がそこで止まってしまいます。

さて、盗み、姦淫、偶像礼拝・・・これらが実際に何を指しているのか。具体的に断定は難しいかも知れません。

しかし、例えば、イエス様の「宮きよめ」という出来事があります。祈りの家である神の神殿が商売の場所となっており、イエス様から「神の祈りの家を強盗の巣にしている」と指摘されました。「傷の無い動物をささげる」ことになっていましたが、祭司のその審査は意図的に厳しくされ、その場で動物を買わされることが多くありました。

神殿税も当時流通していたローマ硬貨ではダメでした。そこで神殿両替商が法外な手数料を取り、多額の利益を得ていたわけです。これは盗みでしょうし、22節最後の「神殿の物をかすめ取る」という行為でもあるかも知れません。拝金主義と考えれば、偶像礼拝にもなるでしょう。

姦淫については、離婚と再婚を繰り返す問題が確かにありました。彼らは自分たちに都合の良い教えをにし、「妻に様々な問題があるから」と離婚し、気に入った別の女性と再婚をしていました。姦淫であると同時に、自分の欲を神とする偶像礼拝とも言えます。

もちろん、ユダヤ人全員がという話ではありません。しかし、権力を握っていたユダヤ人たちの中にみことばにまっすぐに向き合っていない者たちが多くあったのでしょう。

こうして、23で、律法を誇りとするはずなのに、それを実行しないことによって「神を侮っている」と指摘されています。

さらに言うならば、24も厳しい指摘です。「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と。これはイザヤ書525を背景にしています(七十人訳から)。イザヤ書の文脈では、アッシリアやバビロンなどの諸外国、異邦人たちの圧力によって、神の御名が汚されているということでした。しかし、パウロはローマ書では、おそらく皮肉を込めて引用しているのでしょう。異邦人たちの前で、ユダヤ人たち自身がみことばに生きないことによって、神の名が汚されてしまっていると。

本来は栄光を現すべき立場の神の民が、かえって異邦人たちの前で、神の名を汚す姿をさらしてしまっている。証しにならない状況ですよね。

 ですから、先週も学んだように、聖書知識を持っているということが神の喜ばれることではないのです。聖書のみことばに生きることこそ、神様が喜ばれること。それをしないならば、私たちクリスチャンの姿が、かえってノンクリスチャンたちに対して否定的なものに見えてしまうこともあるでしょう。クリスチャンが礼拝を大事にしない、一緒になって悪口を言ってしまう。そういった姿勢が、未信者の前で神様の御名を汚すことにもなると言えるでしょう。

では、どうしたらいいのでしょう。明確ですね。

 21節にあるように「自分自身を教えること」です。他の人にみことばを適用するのではなく、私たち自身が向き合うのです。私たちの多くもこの問題はいつも持っています。牧師はいつもこの問題を戦わなければいけません。最も教える機会が多いのですから、他の人よりも多く、自分を教えないといけないのです。

 お子さんをお持ちの方は、お子さんに教える前に自分に教えないといけません。いや、すべての人が、他の人ではなく、まず自分自身が主の前にまっすぐに立って、みことばを語られ、その声に聞き従う必要があるのです。

 先日の青年キャンプでは、早天祈祷会に出席した青年の皆さんに、種蒔きのたとえのところから、「恵まれ力(りょく)」を養おうと伝えました。4つの土地に種がまかれ、3つは悪い土地で、種がまかれても実りができず、最後の良い土地は多くの実りを生むということでした。蒔かれた種は同じなのです。同じ「みことば」を聞きながら、聞く者の姿勢によって、こんなにも違いが出るというたとえ話です。蒔かれた種の強さに違いがあるのなら言い訳もできます。しかし、同じ種であっても、蒔かれた土地によって変わる。私たちも同じ主のみことばを聞いている。聞く者の姿勢、自分自身にしっかりとみことばを教える姿勢があるかどうかで、30倍、60倍、あるいは100倍の差が出るのです。

 説教者に完全依存するのではなく、説教を聞く側の姿勢、みことばを学ぶ側の姿勢も大いに問われているのです。聞くだけでなく、実行することです。そうしてみことばは血となり肉となる時、豊かな実を結んでいきます。

 人に教える前に、人をさばく前に、まず自分自身が「みことばから教えられる器」となりましょう。 その時、本当の意味で良き教えを提供できる者となっていくのです。良き証人となっていくでしょう。





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