東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書4章13-16節「良き王を求めて」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/11/06

伝道者の書4章13-16節「良き王を求めて」

*** 11/5(日)主日礼拝 説教概略 *** 

伝道者の書4章13-16節「良き王を求めて」


 サバティカル研修休暇をいただき、皆さんのご協力とお祈りに心から感謝いたします。この期間にいくつか初めての教会で、会衆側の席で礼拝する機会がありました。それはとても有意義なものでした。やはり説教奉仕で礼拝に伺うのとは全然違います。一人の聴衆として礼拝に出席する場合、右も左もわからないまま臨むわけです。ゆえに戸惑い、場合によっては礼拝の流れについていけないという経験もしました。置いて行かれたような感覚です。ただ、この感覚、この視点、とても大切だなと感じました。



 皆さんもまた牧師がいないからこそ、いつもとは異なる気づきがあったのではないでしょうか。私たちは誰もが、意識しないと自分の視点でしか物事を見られません。だからこそ、意識的に隣人の立場に身を置いて考え、その声に耳を傾けることも大切になります。何よりも、神様はどう見ておられるのか。その声に聴くということが「裸の王様」にならない道です。特に、様々な集団の長がどういう人物であるのかによって、そこに属する人々は人生を大きく左右されます。一家の長が謙遜で神を恐れる人であるなら、家族も神を知る機会を得ていきます。ですから、私たちは様々な場面で良き王、良きリーダーを求めているのです。この世界のあらゆる場所に良きリーダーが必要だからです。

本日のみことばを通して教えられます。第一に、私たち自身が良きリーダーとなること。第二に、良き王を求める姿勢(愚かな民とならないように)について教えられます。

Ⅰ.私たち自身が良きリーダーとなること。

13節 貧しくても知恵のある若者は、忠告を受け入れなくなった年老いた愚かな王にまさる。14節 そのような若者は、牢獄から出て王になる。たとえ、その王国で貧しく生まれた者であっても。 
 一見すると文脈的に少し唐突な内容にも思われます。しかし、少し前には「ひとりぼっち」ということばがありました。8節と10節です。そこでは孤独というものの弱さと不幸が語られていました。ゆえに二人以上での歩みは、一人よりもまさるという結論でした。それは、今日の箇所にも関係していると考えられます。

 神も信じず、神が与えてくださる仲間もいない王は、まさに孤独な「裸の王様」です。しかし、「ひとりぼっち」の意味は、周囲に人がいないことではないのです13節を見ていただくと「忠告を受け入れなくなった」と語られていますよね。忠告はあるのです。なのに受け入れないということ。

 もう少し直訳的に訳すならば、「もはや、忠告されることを求めなくなった」という感じです。もはや人から指導され、教えられることを受け入れず、学ぼうとしなくなっている状態のことです。

 皆さんにも心当たりがあるでしょうか?そう思えているのなら、いい方ですね。人の上に立てば立つほど陥りやすい状態です。しかし、実に、人を教え導く者ほど「忠告や指導を求めなくなってはいけない」のですよね。ちょっと知識や経験を積んで、わかったつもりになる。上から目線でさばき始める。これほど怖いことはありません。

 まとめますと・・・ 周囲に忠告してくれる人々がいるのに、それをもはや知ろうともしなくなった王は、たとえ経験豊かで力があったとしても愚かな王であると言うのです。彼の周囲にも、本当はいたはずです。彼を心配し、愛と勇気をもって進言してくれる人々が。ただ、それらに全く耳を貸さなければ、人々は離れます。文字通り「ひとりぼっち」、「裸の王様」になるのです。

この愚かな王と対照的な存在は、13節にある「貧しくても知恵のある若者」でした。この若者ということばは、「少年」と訳されることが多いことばです。子どもでれば、財力も権力も無いに等しいでしょう。ただ、若者と訳されていますように、子ども時代を過ぎた人にも用いることができることばです。創世記では17歳当時のヨセフに対しても使われています。

経験も力もない若造ですが、ただ一つ「知恵のある若者」と語られています。この知恵とは、文脈で考えると、他人の忠告から学べるゆえに身に着く知恵ですよね。「自分の考えありき」ではなく、謙虚に指導に聴く姿勢を持つことです。もっと言うならば「神を知る知恵」です。神と人と良き交わりをもって、そこから知恵を得られる人は、たとえ貧しい生まれであっても、14節にあるように牢獄に置かれてしまった者であっても、指導者や王となり得るのです。

その具体例として、多くの人は、先ほど触れた創世記のヨセフを思い浮かべるかも知れません。彼は、濡れ衣を着せられ牢獄に入れられました。しかし、そこからエジプトの総理大臣、宰相という立場へ出世していきます。権力も財力もありませんでした。エジプトでは奴隷、囚人でした。

しかし、彼には神の知恵がありました。ヨセフを牢から出し、エジプトの最高権力者にしたのは神様だったのです。神の知恵がいつもヨセフとともにあったからです。皆さんも一家の長やグループの長、様々な委員・役員などの指導者的な立場に置かれることがあるでしょう。しかし、自分はそのようなリーダーに向いていないと思うことはありませんか。自信がないのです。

けれど、大切なことは、自信ではありません。まことの王である主キリストに従うこと、神のみことばと人の助言から、謙虚に教えられる器であることです。それで十分。良きリーダーとなれるはずです。この世界の造り主を知り、この方の救い主を信頼して従っている。それで大丈夫。十分なのです。

 昔から言われていることですが、「真の賢者」とは、多くの知識を持っている人ではないということ。自分は知っている、分かっていると思った時点で愚かになっているのです。むしろ、自分はいつでも教えていただく必要のある者だ。そう受け止めている人こそ真の賢者なのです。


Ⅱ.良き王を求める姿勢 「愚かな民」とならないために

15-16節に参りましょう。愚かな王だけでなく、愚かな民についても語られています。

15 私は見た。日の下を歩む生きている者がみな、王に代わって立つ、後継の若者の側につくのを。16 その民すべてには終わりがない。彼を先にして続く人々には。後に来るその者たちも、後継の者を喜ばない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。 

 忠告に耳を傾ける賢い若者が人々に支持され王になります。しかし、16節を読むと、ただこれを繰り返すのだと言うのです。つまり、忠告に耳を傾ける若者も最初は支持されるが、やがて人々は彼を喜ばなくなり、次の王をまた求めていくのです。せっかく良い王が立った。しかし、時が経つと彼の欠点も見えて来る。気に入らない所も見える。そこでまた別のより良い王を求めるのです。しかし、新約聖書の時代には、言い訳できないほどの完全な良い王が来られました。イエス・キリストです。

では、その時人々はどう反応したのでしょうか。イエス様が病をいやし、悪霊を追い出し、食べ物を増やして与える。その姿に感動し大人気になりました。ところが、イエス様が権力者になびかず、真実を語り続け、彼らから妬まれ嫌われていくとどうでしょうか。自分たちが望むような武力や権力で国を復興する王ではないと知りました。その姿を見て、自分たちがイエス様の側についていると都合が悪いと気づいていくのです。すると、今度は手のひらを返して世の権力者たちの側について、イエス様を「十字架につけろ」と叫ぶのです。罪もなく平和の君と呼ばれ、愛とまことに満ちているイエス様。これ以上の王はいないはずなのに、人々は十字架につけたではありませんか。 

 史上最高の王でも、退けられるのはなぜでしょうか?

もはや「迎える側の人間が悪いから」という理由しか残っていません。人々に罪があるからです。イエス様が悪いのではなく、ひとりひとりが自分勝手に自分の望む王を求めているからです。それは偶像と言っても良いでしょう。自分の欲を具現化した王です。結果サタンを拝むことになるのを知らずに。こうして、罪に満ちた日の下の世界では、どんなに良い王が立っても満たされることを知らず、次の王を求めます。今あるものに満足も感謝もできないのです。いつでも「恵み欠乏症」です。これが「愚かな民」です。

私たちはそうであってはなりませんよね。皆さんの置かれている家庭、職場、学校、地域。そこで様々な上に立てられた人がいるでしょう。その人に対して、時に不平や不満があることでしょう。ですが、あなたには問題はないでしょうか。不平不満を堂々と言えるだけの愛と忍耐を貫いたのでしょうか。まずは忠実に従ってみる姿勢を持ってみたのでしょうか。時に、主が良き王、良きリーダー、良きものをくださっているのに、私たち自身がその恵みを見ず、ないところを見て嘆いてばかりいるのではないでしょうか。

もし仮に、イエス様が国王となり、あるいは私たちの職場や学校の長となったならどうでしょう。それは素晴らしいことだと想像するでしょう。しかし、それなら一切不満を持たないでしょうか。いや、私たちはやがて不満を持つのではないでしょうか。どんなに良い王であっても、その良さを正しく理解する知恵を持たなければ、その民には悪く見えるのです。良いものを永遠に見つけられず、「これも違う、あれも違う」と永遠に探し、満たされないままです。

これはまさに、風を追うようなものです。それは神様の問題ではなく、私たちの罪の問題ですよね。自己中心で、恵みを恵みとして受け取る姿勢がないのです。忍耐もなく、すぐに飽きるのです。私たちのほとんどは、どちらの側にも立ちます。リーダーの側にもなれば、リーダーを支える側にもなるでしょう。しかし、いずれにおいても、私たちは謙虚に知恵ある方の声に聴く姿勢を持たければ、一生満たされません。その声とは、まことの王イエス・キリストのみ声です。世界の造り主なる神のみ声です。自分の声に聴いている限りは、常に別の「良いと思われる王」を求め続け、いつも満たされることがないでしょう。

 

 主は語っておられます。あなたの主である方のことばに聴き従いなさい。まことの王はイエス・キリストです。また、あなたを心配してくれる知恵ある者の忠告に耳を傾けなさい。それがあなたを良きリーダーに育てます。その忠告や指導があなたを守り、あなたを幸せにし、あなたを満たすからです。


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