東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【8月分】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/07/31

毎日の聖書【8月分】



1日 出エジプト記33章
 16節で、モーセは神に問いかけ、また自分なりの答えを神に申し上げている。「私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。」
 神のみこころにかなった「神の民」であることは、何によって明確にされるのだろうか?あなたはどう思うだろうか。自分の信仰だろうか。自身の正しさや忠実さだろうか。「いい人」になれていることだろうか。モーセは言う。「それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」と。特別扱いの方に意識がいくかも知れないが、より重要なことは「あなたが私たちと一緒に行き」の方だ。神がともにおられる者。キリストと一つにされている者。それが、神の民、クリスチャンなのだ。すべては、神とともにあるかどうかにかかっている。

2日 出エジプト記33章
 モーセは「あなたの栄光を私に見せてください」と神に懇願する(18)。なんと神は、これに応じてくださる。その時2つの点について主はおっしゃった。第一に、すべての主権は神ご自身にあり、モーセに決定権はないこと。その栄光を見せるも、見せないも、神がお決めになることであった。19節で、神は「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」と言われた通りである。第二に、その聖なる栄光についてもモーセに語る。神は圧倒的に聖なる存在であり、その栄光に満ちた御顔を見て、なお生きていられるほど完全な人間はいない(20)。汚れある人間が神の御顔を直接見れば、人は滅んでしまうのだ。これらのゆえに、21-23節にあるように、岩の裂け目にモーセを隠し、なお、主はその御手でモーセを覆うことによって、滅びないようになさった。そこまでして、神はモーセにご自身の栄光を示すことをよしとされたのだ。

3日 出エジプト記34章
1節 主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。
 イスラエルの民は不安になり、目に見える偶像を作ってしまった。モーセはその姿に驚き、怒り、そのあまりに十戒の板を砕いてしまっていた。それ自体はモーセの失態である。どんなにショッキングなことがあろうと、神がくださった十戒の板を、感情に任せて砕いて良いはずなどない。しかし、主はモーセに対して怒らず、なんと、もう一度新しい石の板を取れと言われたのだ。これは、モーセが神の側に立つようにして、神の悲しみ、怒りを自身のものとしたからかも知れない。モーセに悪意がなかったことを主は知っておられたからではないか。だが、それにしても、何事もなかったかのように、神はもう一度与えてくださるというのだ。神のあわれみ深さだ。一度の失敗で終わりではなく、やり直しをさせてくださる神である。

4日 出エジプト記34章
 金の子牛を神として拝んでしまった民であったが、モーセの必死の祈りを通して(8-9)、神は再びこの民と契約を結ぼうとしてくださった(10)。そして、神は、この民の中にあって、どの国においても「かつてなされたことがない」ような、奇跡的なみわざを見ることになると告げられた(10)。それは、カナンの地にいる神を信じない強大な民族を、追い払うという力あるみわざであった(11)。神はここで、改めて偶像礼拝の禁止を教えられた。
14節 あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。その名が「ねたみ」であるとご自分を紹介された神。それは人間にとっては、とても分かりやすい表現だ。文字通りに神がねたむというよりも、ねたむほどの熱心な愛によって、神は人を愛してくださるということだ。嫉妬されるほど深く情熱的に、しかもそれが、永遠に失われることなくずっと続く・・・そのような愛を神はご自分の民に対して持っておられる! あなたにもその愛は注がれていること、忘れないでほしい。

5日 出エジプト34章
 モーセがシナイ山から降りてきた時、モーセは主の栄光を見たゆえに、その顔は輝きを放っていた(29)。アロンとイスラエルの民はそれを見て、モーセに近づくことを恐れたほどであった(30)。それゆえ、モーセは自分の顔に覆いを掛けるのを常とするようになった(33、35)。ただし、主の前に出る時は、その覆いを取り、主のみことばを語る際にはそのままで語ったようだ(34)。私たちの心にはがあるため、ある意味では心に覆いがかかっている。しかし、主なる神は、ご自分の御顔を私たちに向けて祝福しようとなさっているのだ。そしてまた、詩篇27篇8節にあるように、「わたしの顔を慕い求めよ」と言われるお方だ。キリストによって覆いを取り除いていただき、主の御顔を慕い求め、主と顔と顔とを合わせて語り合い、ともに歩む者とならせていただこう!

6日 出エジプト記35章
 キリスト教は、しばしば教えを守る戒律主義的なものだと誤解されることがある。それはこの世の多くの宗教がそうであるためだろうか。あるいは、表面的な理解に立つパリサイ人のような存在が、そうさせているのかも知れない。しかし、5節に、「進んで献げる心のある人に、主への奉納物を持って来させなさい」とある。強制や義務ではなく、「進んで献げる心」と語られている。また、その後も「心を動かされ」とか「心から」、「霊に促しを受け」あるいは「進んで」ということばが続く。つまり、強制や義務ではなく「自分から進んで」なされたものであるとわかる。神が喜ばれるものは、このような私たちの心だ。献げた物ではなく、献げる際の私たちの姿勢や心を見てくださる。それを忘れないで、仕方なくとか無理やりということから解放され、祈りながら進んで献げる者となろう。

7日 出エジプト記35章
 30節「見よ。主は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、31節 彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。 主が召し出したベツァルエルに、「知恵と英知と知識」を神は与えられた。さらに、あらゆる仕事において「神の霊を満たされた」とも語られている。神はご自身が召した者のためには、ありとあらゆることをしてくださるのだとわかる!神ほど責任感の強いお方はいない!
 さらには、34節ではこうある。34節 また、彼の心に人を教える力をお与えになった。彼と、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブに、そのようにされた。「心に人を教える力をお与えになった」と語られている。ただ自分の力を発揮するだけでなく、さらには、その技術を人に教える思いや力をも神が授けられたということだ。だから、「召し(神の招き、召命)」というものが大切なのだ。私ではなく、主が呼ばれ、主がなさしめてくださる!

8日 出エジプト記36章
5節 モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」 神を礼拝する場である「幕屋」を作成するために、神の民は、自ら進んで奉仕をし、必要な様々な材料などを持って来て献げていた。なんと、それは、この5節にあるように「あり余るほど」であった。誰も強いられておらず、それぞれが進んで献げるものであったにも関わらず、あり余るほどであったのだ。これこそ、神ご自身もその民も喜びに満たされる瞬間ではないだろうか。それで、もう十分であるから、これ以上の仕事を行わないようにと、モーセが告げるほどであった。教会でぜひとも言ってみたいセリフである。「もう十分満たされているので、奉仕をしなくても大丈夫です!持って来なくても大丈夫です!」と。そのような教会は、なんだかいつでも楽しそうである。

9日 出エジプト記37章
 神によって選ばれ、知恵を与えられたベツァルエルによって、作業が進められている。神の命令に従って忠実にそれがなされていることがこの37章からわかる。それは、派手に大胆に新しいことをするよりも、神に忠実であることが問われる作業であった。私たちも自分勝手な奉仕ではなく、神のみころを絶えず求める奉仕を大切にしたい!
 前半部分では、神の契約の箱とその飾りが作られている。神の箱こそ、この幕屋の中心であり、神の臨在そのものを象徴するものであった。しかも、この箱の中には十戒の板が治められ、神のみことば(みおしえ)が中心であることを意識させられる。17節からは燭台を作り、25節以降は香の祭壇を作っている。ベツァルエルは、これらの幕屋の最も大切な神の箱、そして燭台や香の祭壇などの重要な器具作りの責任を担っていたのだ。これらを見ていくと、箱や宥めの蓋、あるいは燭台、祭壇・・・どれも純金で覆われていることがわかる。それらは神の栄光を表すものだと考えていいだろう。人のわざではなく、神の栄光がすべてを覆うような、そんな信仰生活が神のみこころにかなったものなのだ。

10日 出エジプト記38章
 24節にこうある。聖所の設営のすべてにおいて、その仕事のために用いられた金、すなわち奉献物の金の総計は、 聖所のシェケルで二十九タラント七百三十シェケルであった。
 これはおよそ1トンほどの金だ。純金という記録が多くあったことから、純金1トンとはすると、現代の計算にはなるが1kgで1,000万円ほど(時価による)。とすると、1トンなら100億円という計算になるだろうか。神のために民が喜んでこれらを献げ、神に栄光を帰したということである。続く25節では銀の総計、29節では青銅の総計の記録もある。これらは決して税として集められたのではなかった。それをすれば、信仰は堕落するだろう。義務や強制のもとでは「生きた信仰」は生まれない。長年のエジプトの奴隷状態から救い出した神への感謝であり、そもそもこれらの金銀も、神がエジプトの民からの贈り物としてイスラエルに渡されたものであった。与えられた物の一部を喜んで返したに過ぎない。すべては神から受けたものであることをいつも忘れず、物に支配されず、感謝の心で歩んでいきたい。

11日 出エジプト記39章
 ここでは、大祭司の式服を作る工程が詳しく語られている。特に、ところどころ繰り返し語られていることは、「がモーセに命じられたとおりである。」とのことばだ。つまり、細かな作業のすべてにおいて、主が命じられたとおりに忠実に作られた。
 その総括として42節でも「すべてがモーセに命じられたとおりに、そのとおりに、すべての奉仕を行った」と語られている。43節では、「そこでモーセは彼らを祝福した」と語られる。これは現代のクリスチャンにおいても、最も大切な姿勢だ。何かを成し遂げるより、何かで目立つより、ただ主イエスに従うこと、そのおことばのとおりに生きることが、主に喜ばれ、祝福される道である

12日 出エジプト記40章
 この出エジプト記は、神礼拝をする幕屋の完成が語られ、その幕屋に神の栄光が満ちる場面で終わ。振り返ると、この書は神が奴隷状態から民を救い出して自由にし、ご自身の栄光を現わされて終わるということだ。それは私たちの信仰生活の縮図のようである。罪の奴隷、暗闇の奴隷である者たちを自由にし、雲の柱・火の柱によって人生を導かれ、やがて神の栄光に導かれるのだ。34節 そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。35節 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである 幕屋は神との交わりの場。そこに栄光が満ちたということは、神がそこを住まいとしてくださったということ。私たちの救いとは、ただ罪が赦され、滅びないという話では終わらない。神の栄光に至るのだ。私たちも信仰の荒野を旅する一人である。しかし、何もない荒野でさえ神の導きと守りがある。さらにその先に、やがて永遠に失われない神との親密な交わりにあって、その栄光を受けることになる。

13日 レビ記1章
 1節で「はモーセを呼び・・・」と始まる。厳密には「そして」ということばを最初に訳し出した方がいいかも知れない。原語にはそれがあるし、出エジプト記から続いているからだ。出エジプト記40章35節では、最後に神の栄光が幕屋に満ちたが、モーセはその栄光のゆえに中に入れなかった。人は、自分の力では神の栄光に満ちたお姿を前に、近づくことはできない。だが、神が呼んでくださるならどうだろうか。神の権限において、人を近づけてくださるのに、滅ぼされるはずがない。レビ記は、圧倒的な聖さを持つ神が、ご自分の方から招き、私たちを近づけて下さり、その聖さに触れさせて下さる恵みが語られているのだ。
私たちの救いとは、神の招きから始まる。自分の力で発見し、選び出したのではない。主が呼んでくださったので、クリスチャンや教会、聖書と出会い、その救いに招かれて今があるのだ。そして、主があなたを呼んだ・・・ここから始まるのだ。

14日 レビ記1章
3節 そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。 そのささげ物が、家畜であるなら、傷のないものであるというのは重要だ。それは、野良牛(羊)では、ダメだということだ。家畜と野良ではどう違うのだろうか。
 家畜は、本当に手間をかけて大切に育てられているのだ。愛と犠牲がそこにある。そこらにいた野良動物の場合、確かに捕らえるのにはいくらか時間が必要であるが、やはり時間をかけて育てたわけではない。この全焼のささげものは「献身」を意図するものであるから、自分が手塩にかけて育ててきた家畜であるべきだった。それも、余り物ではなく、傷のない良いものを。これが礼拝の基本姿勢なのだと教えられる。これは礼拝の姿勢そのものを意味する。私たちはどうだろか。時間に余裕ができたから礼拝をするのだろうか?余った物を主に献げるのだろうか?

15日 レビ記1章
 全焼のささげ物について、様々な動物ごとに語られている。3節では「牛」を献げる場合であったが、10節以降では「羊」を献げる場合についての教え、そして14節からは「鳥」の場合についての教えとなっている。これらは単なる好みの問題ではない。牛が最も高価であり、鳥は最も安価なものであった。5章7節によれば、「もしその人に羊を買う余裕がなければ・・・」、山鳩もしくは家鳩のひな二匹をささげ物とできることが規定されている。興味深いことは、主イエスの両親、ヨセフとマリアにおいては「鳥」を献げていたことが、ルカの福音書2章からわかることだ。主イエスが決して裕福な家に生まれたのではなく、貧しさの中にお生まれになったことが明確だ。つまり、これらの様々な動物の規定は、それぞれの家庭事情への「主の配慮」であったと言える。それぞれの力に応じて献げれば良い。ただ、その時の私たちの心を主はご覧になる。その時できる良いものを献げよう!

16日 レビ記2章
 今度は、「人が主に穀物のささげ物を献げるとき」の教えである(1)。動物の中では「鳥」が一番安価であったが、それさえも難しい場合には「穀物」という道さえ用意されていた。それぞれの持っている物に応じて、献げることができたのだ。そして、いずれにせよ、主がくださっているものへの感謝を表す大切な機会であった。私たち人間は裸でこの世界に生まれてきた。土地の権利書を持って生まれた者はいないし、クレジットカードを持って生まれた者もいない。生まれたら、そこに恵みとして備えられていたのだ。与えられている物への感謝の気持ちを絶えず持つ者でありたい。それゆえ、与えられている物の一部を、主のものとして献げるのだ。特に、穀物のささげ物は、地の産物ということから、労働の感謝を表す面があったと考えられている。元気に働けること、また、働いて報酬をいただけることも、神からの豊かな恵みであることを覚えたい。仕事の不満ばかりを言っていないだろうか。感謝しよう!

17日 レビ記2章
 「あなたが主に献げる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。」とある(11)。また、「蜜」入れて献げてはならないと教えられている。なぜ、これらを入れて献げてはいけないのだろうか。パン種はほんのわずかでも入ると、パン全体を膨らませるほどの効力を持つ。「これぐらいならいいだろう」という悪や罪への甘えが人生全体をやがて破滅に導くものであると言える。神というお方は、ほんの少しも汚れも罪も持たない聖なるお方であるからだ。聖なる方に向かって、罪深い物を献げるべきではない。また、蜂蜜や果実の蜜はそれを生地に練りこむと全体が変質しやすくなる。これらを入れないということの中で、神への純粋な信仰をずっと保つ大切さを教えているのだ。私たちはいつでも、神に対してまっすぐな、不純物のないささげ物をしていきたい。

18日 レビ記2章
 穀物のささげ物について、「穀物のささげ物はみな、塩で味をつけなさい」と語られている(13)。また、「あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない」ともある(13)。塩は、溶けてその中に浸透する力を持ち、腐敗防止の役目を果たすことができる。また、塩には治療の力もある。そうしたことから、古来より、人が契約をする際には、ともに塩を食べてお互いの約束が「いつまでも変わらないこと」を覚えるために用いられることがあったと言う。神はこのようにして、人がささげ物をする際に、その工程においても大切な意味をそこに持たせ、神への人の姿勢について教えている。純粋だった信仰も慣れてくる中で、いい加減になり、変わってしまうことがある。純粋さを失うのも人間の弱さであると言える。
 私たちはいつでも塩気を失わず、神への「純粋な信仰」を変えることなく歩みたい!

19日 レビ記3章
2節 まず、ささげ物の頭に手を置き、それを会見の天幕の入り口で屠(ほふ)り、祭司であるアロンの子らがその血を祭壇の側面に振りかける。 ささげ物の動物の頭の上に手を置いて、罪の告白をするものであった。それは、自分の罪のさばきがその動物に移され、自分の代わりにこの動物が犠牲となるものである。そしてほふったこの動物の血が、祭壇に振りかけられた。これは、新約時代のイエス・キリストの犠牲、その血潮を表す。キリストは十字架の上で罪ある私たちの「身代わり」として血を流されたのだ。キリストの血による新しい契約によって、信じる者の一切の罪が赦され、神との親密な交わりを回復できる。私たちの罪は、このような犠牲なしには、赦されない得ないほどに多く、重いものである。キリストはただの一度の死をもって、この赦しを成し遂げられた。主に感謝しよう!

20日 レビ記3章
次に交わりのいけにえから、主への食物のささげ物として、内臓をおおう脂肪と、内臓に付いている脂肪すべて、また、二つの腎臓と、それに付いている腰のあたりの脂肪、さらに腎臓とともに取り除いた、肝臓の上の小葉を献げる。(3-4節)  脂身の部分は人が食べずに焼いて煙にするようにと主は語られた。これらの内臓付近の脂肪は最上のものであり、高価な良いものと考えられていた。ここには、神に「最上の部分をささげる」という意味がある。いつでも良い物で神を礼拝するという姿勢の現れと言える。神はこうして、ささげ物の所作を通して、神礼拝の本質を教えている。私たちは良きものをささげる姿勢があるだろうか。賛美も、奉仕も、最高のものを神にささげていきたい。

21日 レビ記4章
 4章では、「気づかずに罪に陥り」、「後になって責めを覚える場合」に、罪のきよめのためにどのように動物を献げるのか、ということが語られている。ここにあるように、私たちは気づかずに罪を犯すことも少なくない。だが、私たちの心には「良心」が与えられている。それもまた、神からのプレゼントであり、神がおられるという一つの証拠であろう。その良心は、私たちの心に語りかける。「あれは、悪とがい心でしたのではないか?」と。その時には恐れや怒りや、様々な感情が相まって良い判断ができないことがある。しかし、落ち着いて冷静になると、まさに「後になって責めを覚える」ことがあるものだ。大切なことは、もうそれは過去のことだから終わり・・・ではなく、この教えにあるように、神に告白し、悔い改めることだ。遅すぎることはない!

22日 レビ記5章
 2-6節のところでは、「そのことが彼には隠れていて、後になって責めを覚える場合」というケースにおいて、いくつかの罪がの問題について語られている。その場合に、まず5節にあるように、「自分が陥っていた罪を告白」をする。いかなる場合でも、神はすべてを知っておられるのだから、神の前に正直に告白する姿勢が必要だ。世界中の人間をごまかすことはできても、神だけはごまかすことはできない。ただ、神は人を束縛したいのではなく、また、打ちのめしたいのでもない。罪が自分を傷つけ苦しめるゆえに、人を救いたいのだ。そして、6節にあるように償いのささげ物を通して、罪のきよめをしていただける。祭司は罪の赦しを宣言し、その者たちを罪悪感から解放したのだろう(6)。これらの完成形であるキリストというささげ物は完全である!罪を神に告白する者は、赦しときよめをいただけるのだ。

23日 レビ記5章
5章14節からは、神様や人の所有物に対して損害を与えた場合には、通常の罪とは区別して「償いや補償をなす」ことが教えられていく。15節で、「人が信頼を裏切ることをしたとき、すなわち、主の聖なるものに関して気づかずに罪に陥ってしまった場合・・・」と語られている。それは、悪意や故意ではなかったが、神の物を盗むということ、神の聖なる何かを汚してしまったなどの行為であろう。クリスチャンはしばしば、神がすべて赦してくれるからと甘えて、ただ「ごめんなさい」をしておけばいいと安易に考えてしまうことがある。もちろん、主は、真に罪を認め悔い改めるならば、どんな罪でも赦してくださる。だが、何かを奪った、失わせたということへの償いを学ぶことは、人にとって必要不可欠なことだろう。心からの謝罪は、損害への真摯な償いを伴うものであるからだ。

24日 レビ記6章
5節 あるいは、それについて偽って誓った物をすべて返さなければならない。元の物を償い、また、それに五分の一を加えなければならない。彼は自分が責めを覚えるときに、その元の所有者にそれを返さなければならない。 隣人の持ち物に害を与えてしまったとき、同じものを返すだけでなく、20%を上乗せして償うことが教えられている。不当に奪った物を持ち主に返すというのは当然だ。しかし、聖書はそれ以上のことを教えているのだ。それは、元の物を償うだけでなく、それに五分の一相当を加えるということだ。この教えは、相手への「謝罪」の意味でもあり、「思いやり」でもあると言える!物さえ返ってくればいいのではなく、それを失った喪失感や様々なダメージが考えられる。神は隣人への愛の現し方を、このようにして非常に具体的に教えておられる

25日 レビ記6章
9節 全焼のささげ物そのものは、一晩中、朝まで祭壇の上の炉床にあるようにし、祭壇の火をそこで燃え続けさせる。 12節でも、それを消してはならないと語られており、また13節でも繰り返し語られる。特に13節では「火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。」とより丁寧に語られている。それが祭司の務めであった。これは何を意味するのだろうか。神への礼拝を止めてはならないということだ。コロナ下では、礼拝をオンラインで対応するということも苦肉の策としてなされることもあった。だが、それでも礼拝を止めてはならない。色々な戦いがあるし、妨げも起こる。だが、それでも神への礼拝の火を消してはならないのだ。祭壇の火を消してはならない!!

26日 レビ記6章
14節からは、「穀物のささげ物」について、祭司たちへの教えがある。祭壇の前でこれを主に献げる。それは小麦粉だけでなく、ひとつかみの油と乳香と一緒にして、祭壇の上で焼いて煙にするのだ(15)。この油は、主に覚えていただくためであり、乳香は芳ばしい香りの煙をのぼらせる。「への芳ばしい香りとして祭壇の上で焼いて煙にする」とある通りだ(15)。乳香の芳ばしい煙が、天へと昇っていく様は、神への祈りや賛美を表すとも言われる。私たちの自己満足のためにするものではない。私たちの祈りや賛美を神は喜ばれる。それが神へのまったき信頼をもってなされる時、神のおこころを求めてなされる時、それらは「芳ばしい香り」となっていることだろう。私たちは、自分の欲望の成就を願うばかりの祈りとなっていないだろうか。あるいは、その賛美は自己満足の歌、自己満足の演奏となってはいないだろうか。主が喜ばれるものであることを大切にしたい

27日 レビ記6章
 祭司たちは土地を持たない。彼らの仕事は農業ではなく、民の代表として神に仕え、民のために祈り、礼拝に携わる様々な働きをするからだ。現代の牧師もまた、基本的には主の働き(教会の働き)に集中することが望ましい。普段の仕事に追われる民に代わって、集中的にこの奉仕に当たるからである(多様性を認めつつ、原則も大事に!)。ここでは、祭司たちは民が献げた物の中から、自分たちで食べることが規定されている。18節で、それを食べることができると語られている。これは、「への食物のささげ物のうちから、あなたがたが代々受け取る永遠の割り当てである」と語られている。パウロが、働く者が糧を得るのは当然の権利であると言うのは、こうした背景を覚えてのことだ。献身者たちが、主への霊的な働きをしているのだから、報酬をしっかり受けることが当然の権利なのだと彼は言う。10組の家族があれば、そのうち1組が献身して神に仕え、残りの9家族が支えるならば、世界のどこでも教会は生まれ得る。そのような助け合いの共同体を神は教えておられる。

28日 レビ記6章
 24節以降では、「罪のきよめ」のささげ物について、祭司たちはそれを取り扱う中で、それらの肉を食べることが規定されている。しかし、これらは単なる糧以上の意味がある。主の前でほふられるこのささげ物は、「最も聖なるもの」であると教えられているのだ(25)。罪のきよめのための犠牲は、最も聖なるものでなければならなかった。これは、キリストの十字架を示す予型として、非常に重要なささげ物である。なぜなら、キリストは一つも罪を犯すことのなかった、最も聖なる者であったからだ。だからこそ、我々の身代わりとなることができたし、だからこそ「罪のきよめ」を成すことが可能であったのだ。「その肉に触れるものはみな、聖なる者となる」(27)とあるように、キリストを心に受け入れた者は、罪がきよめられ、聖なる者とされるのだ。

29日 レビ記7章
 1節から「代償のささげ物」についての教えが語られている。「代償」とは、本人に代わって償うことである。それとともに、ここではささげ物の一部が、その祭儀を執り行う祭司のものとなると教えられている(7)。8節では、全焼のささげ物の皮がその祭司のものとなるとあり、9節によれば、穀物のささげ物はすべて、祭司のものとなることが語られている。こうして、祭司の働きが軽んじられることなく、祭司はその労働への対価を、民のささげ物によって得ることが神の定めたことであった。しかし、「俺たちが祭司を養っている」と考えることはふさわしくない。祭司への敬意は失われ、神のみこころから大きく外れることになる。基本的なことだが、すべての糧は神のものだ。そして、「すべては神から与えられた物」という信仰があれば、「私が養っている」という考えからも自由にされるだろう。なお、7章36節では、「イスラエルの子らから取って彼ら(祭司ら)に与えるようにと、彼らが油注がれた日に主が命じられたもの」であると補足されている。

30日 レビ記7章
26節 また、あなたがたは、どこに住んでいても、鳥でも動物でもその血をいっさい食べてはならない。 ここを根拠として「輸血禁止」という教えを持つ宗教もしばしばある。おそらく、輸血という行為が他人の血を自分の中に食してしまうとの解釈をしているのではないか。だが、かなり極端な拡大解釈であると言わざるを得ない。また、文脈を考えれば、そのような解釈が当てはまらない事は明白である。レビ記では、血はいのちの象徴であることが語られている(17:11)。本来、罪人が血を流して罰を受けるべきでしたが、旧約時代は動物の血が、新約時代は神の子キリストの血が、罪人の身代わりのいのちとして、注がれたのです。血が神にささげられ、いのちの犠牲をもって人の罪が赦されたのである。それで、いのちの象徴なる血を食べないようにと教えられている。だが、衛生的な面でもこの教えは意味があった。十分な知識と加熱処理ができない時代にあっては大きな危険が伴ったからだ。ユダヤ人が疫病などから守られていた理由はここにある。

31日 レビ記8章
 いよいよ祭司の任職が語られている。こうした任職式を行うことには、重要である。3節によれば、全会衆を会見の天幕の入り口に集めるよう、主が命じられ、実際に全会衆が集まった(4)。まず、6節にあるように祭司となるアロンは、水で洗われた。そして、祭司の衣装を着させ(7)、一つ一つ主が命じられた装備を装着させた。そして10節にあるように、モーセは油を取り、幕屋その中にあるすべてのものに注ぎかけた。それだけではなく、12節では、祭司自身の頭に油を注いだ。このようにして祭司は、聖別され、神の聖なることに仕える者として整えられる。こうした厳かな任職式を経ることによって、祭司たちは厳粛な思いにさせられたことだろう。祭司職の重さ、大切さを改めて自覚させられたはずだ。そして、全会衆がそこに集められることによって、その厳粛さはさらに増し、会衆もまた祭司のために祈り、支える者であることを肝に銘じる機会となったのである。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 


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