*** 7/14(日)主日礼拝 説教概略 ***
「コインロッカー・ベイビー」というものをご存じでしょうか。生んでも育てられない親が、コインロッカーに赤ちゃんを捨ててしまったという事件です。何件もそういう事例が実際にありました。小説やドラマでも取り扱われました。あるドラマの登場人物が、実はコインロッカー・ベイビーでした。彼は自分が望まれて生まれた存在ではないと思っており、自分の存在の意味がわからず、苦しんでいました。もちろん、現実においても、自分が何者なのか、何のために生きているのか・・・それがわからず、苦しんでいる人々が大勢います。
「偶然」、「たまたま」ここに生きているという感覚では無理もないことです。それでも、順風満帆で、誰かが必要としてくれていると感じられている時は、いいかも知れませんね。けれども、案外簡単に、そうした人間関係が破綻し、失われるということがあるものです。その時、どうなるのでしょうか。「偶然」や「たまたま」では、私たちの存在の拠り所とはならないのです。しかし、神様があなたを造られ、今、あなたを主が生かしておられると知るならば、どうでしょうか。そこには造り主の「意図」や「目的」があると言えます。今、生かされている。これだけでも、神様のご計画があなたにあるのです。今日、生きてここにいる。それは、神様があなたを必要としている証拠なのです。ご一緒に神のみことばから、私たちの存在の価値を確認させていただきましょう。
1.すべては神の御手の中にある。
1節 まことに、私はこの一切を心に留め、このことすべてを調べた。正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある。彼らの前にあるすべてのものが、それが愛なのか、憎しみなのか、人には分からない。
この1節の背景にあるのは、8章17節です。そこでは、「すべては神のみわざで、人間にすべては見極めきれない」ということが語られていました。人には理解できないことや、どうにもならないことが多くあるが、すべては神の御手の中にあるということです。それで、1節の続きでも、「正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある。」と語られています。さらに、「彼らの前にあるすべてのものが、それが愛なのか、憎しみなのか、人には分からない。」ともありますよね。
人間の目に見えている情報は、非常に少ないんだなと改めて思わされるのです。誰かが何かをしてくださる事があったとしても、それが愛からなのか、別の動機からなのか、私たちには厳密には分からないですよね。逆に私たちが、良かれと思って、本当に愛をもって犠牲を払っても、それが少しも伝わらないこともあります。ですから、神なき世界としてしまうと、本当にむなしい世界に思えてきます。
しかし、いずれの場合も、神様だけはその本当のことを知っておられるのです。「神の御手の中にある」とは、そういうことです。そこに希望がありますよね。思うような結果が出ない時でも、神様はそのプロセスも全部知っていてくださって、私たちの頑張りやその思いも、すべて分かっていてくださるのです。そして、足りない私たちを助け、補い、その御手の中で美しく変えてくださるのです。
3章11節に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とありましたね。ここに望みがあるのです。この望みでどれほど心が守られることでしょうか!
2.最悪な結末
さて、2節に「結末」ということばが出てきます。ここでは、人にはよくわからない最たるものが、死という結末だと言います。死の原理は、本当にわからないですよね。こうしたら死ぬとか、こうしなかったら死なないとか、誰も言い切れません。死を恐れて一歩も外に出なければ安全でしょうか?いいえ、病気になるかも知れないし、地震や災害に見舞われるかも知れません。安全なんて、人の思い込みであって、本当に安全な場所はこの日の下にはないのです。2節にあるように、死はすべての人に起こる結末なのですから!誰も避けることができません。しかも、善人であろうと悪人であろうと関係なく訪れます。納得しにくいのですよね。「なんで、あの人が早く死ななければならなかったのか!いい人だったのに!」と思うことがあるのです。
ですから、著者は3節でこう言います。「日の下で行われることのすべてのうちで最も悪いことは、同じ結末がすべての人に臨むということ。」だと。この3節では、罪によって不条理に満ちているこの世界では、すべての人に死が訪れ、それが最悪なことだと語られているのです。そして、3節後半では、こうもあります。 そのうえ、人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり、その後で死人のところに行くということだ。 人間は散々罪という毒をまき散らしながら生きて、死んでいくというのです。これだけ読むと救いようもないですね。それほどに、罪がもたらした不幸や滅びは深刻なのです。
3.生きているのは神のみわざ
しかしながら、私たちはこの伝道者の書のふさわしい理解を既に学んできました。神なき価値観なら最悪であるが、そこに神を招くときに、大いなる希望と救いがあると知るのです! 日の下では、罪が世界に入り、不条理に思える世界となっていますが、その上には主がおられるのです。すべては神のみわざであると学んできました。「死」も「いのち」も、神の御手の中にあるのです。そうであるならば、生きていることもまた、神のみわざであると言えますよね。4-5節でこうあります。4節 しかし、人には拠り所がある。生ける者すべてのうちに数えられている者には。生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ。5 生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる。
私たちは、「生きている」という現実を手に入れてしまっているので、その価値を見失いやすいのです。コロナウイルスが拡大した時、こうして集まれることが、決して当たり前ではないことを学びました。尊い神様からの特別な恵みなのだと改めて学びました。同じように、死を現実的に意識する時、「生ける者のうちに数えられている」だけで幸せなことなのだと自覚するものです。生かされているだけでも、死んだ者にまさる力や輝きや価値を持っているのだということを知るべきなのです。
ここにあるように、犬は普通、「百獣の王」と言われるライオンには到底勝てないでしょう。けれども、生きている犬は、死んだライオンには明確にまさっているのです。死んだライオンは、もう獲物を刈ることもできず、吠えることもできず、それどころかもはやライオンとも呼べません。そこにあるのはただの亡骸(なきがら)ですよね。ですので、小さな子犬であろうとも、死んだライオンよりも力があり、様々なことができますから、まさっているのです。これが生きているということです。私たち人間も同じです。今、こうして生きていること、生かされていることは、あまりにも素晴らしい神様の恵みなのです。生きていればこそ、神様のお働きを担うことができるのですから!
4.だから、生かされている時にすべきことをしよう!
だから、生かされている時に、本当になすべき大切なことをしませんか?
6節にあるように、死は、日の下でなしたすべてを消してしまうのですから。少なくともこの地上で死を迎えた人は、この地上に備えられたものを受ける資格を失うのです。「もはや永遠に受ける分はない」とは、地上で与えられる神の恩恵については、死後にそれを取り戻すことができないという意味です。ここにいる私たちは、今、生きているじゃないですか。生かされているのです。そのこと自体に、実に神様のみこころがあり、尊い価値があるのです。
今、私は生きているのだ。生かされているのだ・・・その時点で神のご計画がここにあって、神の選びがここにあって、神が私に何かを期待しておられるのです。もう年を取ってあれこれできない。あるいは病気で、不自由で、何の役目もない・・・との嘆きに、主は「そうではない」と言われているのではないでしょうか?
救いの決心も、悔い改めも、死んでからでは遅いのです。家族を大切にすることも、誠実に歩もうとすることも。生かされている今しかできないのです。生き方を変えるのも、考えを変えるのも、心を入れ替えるのも、生かされてある今だから、できることです。だから、生かされている今が神の時です。「今あるものを大切にせよ!」との、主からの愛の警告ですよね。神様は「時」を、人には戻せないものとして創造なさいました。常に進み戻ることはないのです。時を戻せないという事実こそ、生かされている今を大切にせよとの主のメッセージです。
生かされている、そこに神のみこころがあり、そこに尊い価値があります。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会