*** 7/10(水)祈祷会 説教概略 ***
私たちは常に様々な恐れと戦っています。人に対する恐れ、病に対する恐れ、様々な不幸に対する恐れ、死に対する恐れ。しかし、このどれをとっても、神様より強いものはありません。神が味方であるなら、もはや私たちに敗北はありません。「神が味方である」ということについて、みことばから教えられて参ります。
31節 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
とても力強い問いかけです。まず、「これらのことについて」と、その前の話に触れています。それは、御霊のとりなしがあり、神が召された者のためにすべてを働かせ、益としてくださり、さらには信じる者を義とし、栄光をお与えになるということでした。
「これらのこと」から言えることは、何でしょうか。それは、神様が私たちのためにあらゆることをしてくださるということ、そして、神様が私たちの味方であるということです!もし、そうであるなら、誰も敵対できないとも語られています。当然ですよね。全地全能なるお方なのですから。
この表現の背景には、おそらく詩篇118篇6節のみことばがあることでしょう。
詩篇118:6 主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。
ここでは、「私は恐れない」という告白も伴っていますよね。主が私の味方である。ならば、たかだか人間に一体何ができようか!と詩篇記者は力強く告白しています。パウロはこの詩篇118篇を知っており、ここに引用しているのでしょう。ここにあるように、私は恐れないでいいのです!神様が味方であるなら、私たちは誰も何も恐れなくていいのです。
20年ほど前でしょうか。キャラバン伝道チ-ムをお迎えしたことがありました。その時にお一人の神学生は、パーキンソン病を患っておられて、体が不自由でいらっしゃいました。でも、その兄弟が、「神様は全知全能で何でもおできになる!力あるすごい神様なのだ!この方が私たちの味方でおられる!」と力強く証しされていたことを覚えています。体の弱さを持っているのに、本当に確信に満ちて力強く、神様の偉大さを証ししておられたのです。主が味方であるとは、本当に弱さを強くしていただける恵みがあるのだと思わされます!
そして、主はあらゆる恵みを下さることを、とても力強い根拠をもって語ります。
32節 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
主が恵んでくださる根拠は、すでに、ご自分の御子を惜しまず与えてくださったという事実でした。一番大切で、代わりのきかない御子を与えたのならば、もはや何を惜しむ必要があるでしょうか。 この背景にも、旧約聖書が意識されています。
創世記のアブラハムが息子イサクをささげた場面です。
イサクをささげようとしたアブラハムに、神様は「自分のひとり子を惜しまなかったので」、あなたを大いに祝福すると主は言われたのです。代わりのきかないひとり子を惜しまずささげる姿勢は、神に対するこれ以上ない忠誠でした。しかし、最終的に神様はそれをアブラハムにはさせませんでした。実際にその子イサクを犠牲にすることを神様はストップされましたよね。代わりの犠牲を用意しておられたのです。
そして、神様こそが、ご自分のひとり子を惜しまずお与えになり、私たちに対する圧倒的な愛を示してくださったのです。人に対する愛と真実を、これ以上ない方法で示されたのです。ですから、必要であるならば、神様は私たちのためには何でもしてくださると確信できるのです。
ですから、敵はいないのです。恐れる必要はないのです。それについては33-34節の最初にかけてこうあります。 33節 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。34節 だれが、私たちを罪ありとするのですか。
「だれが〇〇するのですか」という繰り返しの表現を用いて、主の守りを強調しています。誰もキリスト者を「滅ぶべき罪人だ!」と訴えることのできる者はいないのです。それは、世界の王である神様が義と認めてくださったからです。
以前、悪魔を指すことば「ディアボロス」には、告発する者、訴える者という意味があるとお話ししました。その訴える者「悪魔」が、どんなに訴えて来ようとも、主が無罪判決をされ、「わたしの子だ!無罪だ!」と言われるのなら、誰もそれに反対する力はないのです。悪魔の批判、訴えなど痛くも痒くもないのです。
そして、先週は「聖霊のとりなし」について教えられましたが、ここでは偉大な大祭司「キリストのとりなし」もあることが強調されています。まさに「二重のとりなし」によって、私たちは守られているのです。34節の後半です。
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
天に昇られた後、キリストは天の父のすぐ右の座についています。そこで、私たちのためにとりなしていてくださるのです。この偉大な大祭司キリストについては、へブル4章14-16節で語られています。
へブル4:14-16
4:14 さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
4:16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
旧約聖書の時代、聖なる神の前に、罪人たちは自由に出ていくことなどできませんでした。選ばれ立てられた大祭司だけが、丁寧な手順と手続きを踏んで、定められた時にだけ、至聖所と呼ばれる神の臨在の間に出ていくことができました。しかし、キリストという最高の大祭司が、不完全な動物の血ではなく、ご自分の血(=神の子の血)によるきよめによって、聖なる神の御座への道を大胆に開いてくださったのです。御子イエス様の犠牲と、とりなしのゆえに、新約時代の私たちは、父なる神様との「無制限の交わり」に入れられたのです。この恵みの御座に自由に出入りできる私たちです。聖霊とキリストという神ご自身である方が、お二方とも私たちのためにとりなしの祈りをささげ続けてくださっている。それゆえに、父なる神様との深い交わりを絶えず与えられています。
主はいつも、あなたの味方でいてくださるのです。
31節 神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
主はご自分が召した神の子どもたちに、今日語っておられます。
「わたしがあなたの味方である。あなたは誰を恐れるのか。あなたは何を恐れるのか。恐れることはない。わたしがあなたの神なのだから。」と。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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