*** 7/7(日)主日礼拝 説教概略 ***
急激な暑さで、体がとてもだるく、疲れやすく感じます。皆さんの中にもそのような方々がおられるのではないでしょうか。そのような暑さ、だるさ、疲労を抱えながらも、主である神様を求めてここに来られているおひとりひとりに、心から敬意を表します。
さて、本日の手紙では「愛」と「真理」という二つのとても大切なワードが出てきます。どちらも聖書全体を通して大切なことばであり、仲良しなワードペアです。
もっと言えば、神様のご性質を表す中心的な性質です。今日のみことばにおいても、真理を知る者は愛する者、愛に生きる者こそ真実な者であると分かります。そして、神様は私たちに、愛と真理に生きるように切に願っておられます。神様のみことばから、愛と真理に生きる道を教えられて参りましょう。その人は、偽りの教えに揺るがされることがなく、本当に主に喜ばれる幸いな証し人であります。
1.この手紙について
最初にこのヨハネの手紙第二の背景をお話しましょう。読んでみるとこの手紙は、「章」という区切りがない非常に短い手紙であるとわかりますね。週報に何章と書いてないので、ミスではないかと思った方があるかも知れません。そもそも1章しかないので、章立てがないわけです。
そして、手紙の著者は、第一の手紙と同様に12弟子のヨハネが書いたものだと理解するのが妥当でしょう。それは、少し後の時代の教父、祭司たちによってそのような証言があり、何よりも、ヨハネが書いた他の文書との共通点が多いのです。
問題は、いったいどのような人々に、何の目的で書かれたのかということです。
1節に目を留めましょう。1節 長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。
ヨハネは「長老」という「年寄り、先輩」をも意味することばを用いて、主から受けたものを読者に伝えようとしています。その読者は、「選ばれた婦人とその子どもたち」と書かれています。「選ばれた婦人」が誰を指すのかという点では、「教会」を指す比喩ではないかとする立場と、個人だと理解する立場とがあります。確かに、教会を指して「キリストの花嫁」という言い方をする場合がありますので、ないとは言えないでしょう。ただ、教会宛てにするならば、比喩を使わずに「教会へ」とか「兄弟姉妹たち」へと書く方がシンプルです。実際、他の手紙では「ローマにいる聖徒たちへ」とか、「コリントにある神の教会へ」と書かれています。
ですから、素直に受け止めるならば、ある教会の婦人と子どもたち、関係者たちが宛先と考えて良いように思います。ただし、この婦人が教会の中心的な人物で、一緒に礼拝する仲間たちにも読まれることを想定していた可能性は十分あります。そして、反キリストなどに惑わされず、真理と愛とに堅く立つように教えるために書かれた手紙であると言えます。私たちも、手紙の目的に沿って教えられ、愛と真理に生きる者となりましょう。
2.真実な愛で愛すること
さて、この婦人と信徒たちに対して、1節でこのような挨拶のことばを伝えています。
私はあなたがたを本当に愛しています。
私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。
まず、ヨハネは「愛」を明確に示しています。これが、なかなか私たちには難しいことではないでしょうか。年老いたヨハネは「私は本当に愛しています」と、まっすぐに書いているのです。ちょっと書けなくないですか?「神様は本当に愛しています」とは書けるのですが、「私は本当に愛しています」って、皆さん書けますか? これは、意外に書けないんではないかと思うのです。なぜ、書けないのでしょう。実際、恥ずかしいという思いがあることでしょう。でも、それだけではない。正直なところ「本当に愛していない」ので、書けないのではないでしょうか。聖書の愛を知らないうちなら、むしろ書けたかも知れません。でも、聖書の愛を知ったからこそ、書けない自分がいるのです。
ここにある「愛する」ということばは、「アガパオー」ということば。いわゆる「アガペー」の動詞形です。これはもちろん、男女の愛ではありません。神様が愛するひとり子を惜しまず与えてくださった、あの「無償の愛」「犠牲的な愛」を表すことばです。だから、私たちはなかなか言えないのです。でも、ヨハネはこのことばを使っています。しかも、ここでは、「私は」ということばを入れて強調しています。彼は逃げずに、自分をしっかり主語にして、本当に、真実にこの私はあなたがたを愛していますと表明したのです。本物なのです。
この愛を受け取る側は、幸せですよね。見捨てない愛ですから。裏切らない愛ですから。無条件の愛ですから。これによって、神様の愛を知っていくのです。
私たちはこの愛を証ししたいのです。この世にある偽りの愛ではなく、すぐ消える愛らしきものではなく、この聖書の愛を人々に知って欲しいのです。だから、私たちがその愛に生きる必要があるのです。「神様はあなたを愛しています」とのことばは、私たちは何の苦労もなく言えます。その通りだからです。でも、「この神様から受けた愛で、私はあなたを愛します」が、言えないのです。ゆえに「真実な愛」として、私たちの家族や友人に思うように伝わりません。
あるクリスチャンの夫妻が、神様を愛すると言いながら、未信者である親を愛して来なかったのではないかと神様から問われたそうです。そして、決心して近くに引越しまでして、本気で愛そうと行動し始めました。その時から、その親御さんの心が柔らかくされ、変えられていったのです。愛は名詞で終わらせたり、他人事で終わらせてたりしていると証し出来ないのです。
ですから、長老ヨハネは、5-6節でこの愛を実践するようお願いし、勧め、主の命令であるとも伝えています。
5節 そこで婦人よ、今あなたにお願いします。それは、新しい命令としてあなたに書くのではなく、私たちが初めから持っていた命令です。私たちは互いに愛し合いましょう。6節 私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。
私たちのこの交わりの間に、夫婦の間に、親子の間に、兄弟姉妹の間に、この主の愛を現しなさいと命じられています。
私たちも、この一番大切な命令に向き合って、実行していきませんか。これがあれば、家庭が変わります。友人関係も変わります。主に従うならば、必ずその祝福を受けます。
2.真理のうちを歩むこと
主はここで、真理にとどまり、真理のうちに歩むように教えています。愛の教えに続いて、これこそが、偽りの教えや反キリストに明確に対抗できる道だからです。2-3節の挨拶文の中にこのようにあります。
2節 真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。3節 父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように。
真理と愛がしっかりと組み合わされ、実践されている時に、真理が私たちのうちにとどまります。どんな惑わしが来ようとも、曲がった教えの風が吹こうとも、真理と愛がガッチリ手を組んで、私たちの信仰の中にある時、それらが船の錨のようになって、私たちを流されないようにしてくれます。
4節を読むと、実際にそのように歩んでいるすばらしい信仰者がおり、ヨハネがその存在を聞いて、非常に喜んでいることがわかります。
4節 御父から私たちが受けた命令のとおりに、真理のうちを歩んでいる人たちが、あなたの子どもたちの中にいるのを知って、私は大いに喜んでいます。
あなたの子どもたちの中に、真理のうちに歩んでいる人たちがいることを非常に喜んでいるというのです。これは牧師目線で言うと、本当に嬉しいことだと思います。私も皆さんが真理のみことば従って歩む決心をしたと知った時、この上ない喜びを感じます。私の言うことには従わなくても全然いいです。
ただ、主のおことばに「従っていこう」と本気で決心して歩む姿。
それが私たちの願い、喜びです。それがこのヨハネの切なる願いだったのです。そのために祈っていますし、そのためにみことばを説き明かしているのですから。ですから、ヨハネは大いに喜んでいるのです。
では、この4節にあるように「真理のうちを歩んでいる人」とは、どういう人なのでしょうか。あるいは、神様から見て、「あなたは真実な人だ!真理のうちを歩んでいる!」と言われるような人とは一体どういう人なのだと思われますか?
みことばと生活が一致している人です。みことばに従っている人です。その人を見れば、主のみことばが透けて見えて来る人。イエス様の姿がそこに見えるような人でしょう。その人こそ、神様が、「あなたは真実な人だ」と喜ばれるクリスチャンです。
主は語っておられます。あなたの家族、同僚、兄姉をあなた自身が愛しなさいと。そして、それがみことばに従う真実な生き方、真理のうちに歩む道であると。その人は揺るがされることがなく、豊かで幸いな実を結ぶことができる人です。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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