東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ8章26-30節「召された者への力強い励まし」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/07/05

ローマ8章26-30節「召された者への力強い励まし」

*** 7/3(水)祈祷会 説教概略 ***

 日本というクリスチャンの少ない世界で証しをするとき、必ずしも肯定的に受け止めてもらえるとは限りません。時には否定的なことを言われたり、迫害のようなものを受けたりすることもあるかも知れません。しかし、神様が私たちの味方なのです。そして、私たちが思っている以上の力強い助けと励ましを主は下さっているのです。召された者への力強い励ましをみことばからいただきましょう!



 これまでのところで、神様に造られた被造物世界全体が、神の子の出現を切望していると語られていました。真のクリスチャンが世界に満ちることが、この世界全体の贖いの始まりであるからでした。ですから、キリスト者がイエス様と一緒に苦しみを忍耐するならば、その先に全世界の贖いという「栄光」が待っていますその力強い希望が私たちの心を助けてくれるわけです。それと同じように、御霊も弱い私たちを助けてくださるのです。 

26節 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。 

 私たちのうちに住み、導いてくださるキリストの御霊が、弱い私たちを助けてくださいます。ここでの「助ける」ということばは特徴的です。実に3つ単語が組み合わさった長いことばです。そこにはまず「一緒に(スン)」という意味があり、遠いところから援助するようなものとは違うということです。私たちの弱さのただ中にあって、私たちと一緒になって苦しみ助けてくださるのです。さらに、この単語の中には「代わりに(アンティ)」と訳せることばも含まれています。私たちがどのように祈っていいか分からない時にも、御霊が代わりに執りなしてくださるのです。

 この「とりなす」ということばは、法廷における「弁護」を指すことばです。どのように語っていいか分からない私たちのため、父なる神に対して最高の代弁者なる御霊がとりなしてくださる。

 しかも、ここでは「ことばにならないうめき」によることが分かります。私たちの感情、思いのすべてはきれいに言葉にできるものばかりではありませんよね。そうした呻きや叫びの代弁者としての御霊が注がれているのです27節にこうある通りです。 

27節 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。 

「人間の心を探る方」とは、父なる神様です。父なる神様は、人のうちに住んでくださる御霊の思いをすべてご存じです。三位一体の交わりのうちに共有しておられる。そして、この御霊が神のお心を私たちに教え、また、私たちの思いを御父にとりなし、伝えてくださるのです。

 キリストが私たちを愛し、私たちと一つとされている。御霊も私たちのうちに住み、父なる神に深い呻きまで伝えてくださる。そして、世界の造られた被造物全体もまた、私たち神の子どもたちを切望し、応援し、期待してくれているのです。なんという励ましでしょうか。また、ヘブル書121節にこうあります。

ヘブル12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。 

 既に天に召された旧約時代の聖徒たちも、私たちを取り囲むようにして応援してくださっています。私たちが信仰の生涯を完走できるように!

 もちろん、同時代を歩むキリスト者たちも私たちの兄弟姉妹です。神の家族として、互いのために祈り合う仲間です。こう考えると、私たちには味方がたくさんいるのではないでしょうか。孤独ではありません。31節にあるように、「神が味方である」ということは、これほどに心強いということなのです。28節をご覧ください。 

28節 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。 

 ここにあるように、神様は「すべてのこと」を、私たち召された者のために働かせてくださいます。それらが美しい神のみわざとして働いて、「益」となるようにされるのです。神を信じる者にとっては、試練や失敗さえも「益」としていただけるのです。

 とある大きな教会のクリスマスでご奉仕をさせていただいた折、緊張の中で礼拝に臨んでいました。しかし、朗読者の奉仕者が大事なところを読み間違えられて「あらら」と思ったのですが、おかげ様で緊張がほぐれ、リラックスして講壇に立てたことを思い出します。ご本人も気づかないところで、説教者を助けていたことになります。主のわざは不思議です。

私たちの罪や失敗のあったところにさえ、神の恵みが増し加わり、それらさえも神の良き計らいとしていただけるのです(創世記50:20参照)。

その時に、私たち自身がしっかりと、神様に選んでいただいた者なのだという意識を持たないと、偶然とかラッキーということばで片づけてしまうでしょう。「教会」ということばのギリシャ語「エクレーシア」には、選ばれて集められた者たちという意味があります。無作為に偶然集められた寄せ集めではありません。神様がこの時代、この世界に「あなたが必要だ!」と私たちを選び、召し出してくださったのです。

ですから、父なる神様がイエス様と御霊と協力して、私たちを全力で支えてくださらないはずがないのです!三位一体の神様だけでなく、神の御使いも、すべての聖徒たちも、世界の被造物らも、みな神の子を応援し、支え、一緒になってこの世界が神によって新しくされることを望んでいるのです

いや、反対している未信者たちでさえ、本当は魂の平安を得たくて仕方がないのです。幸せになりたくない人などいないのではないでしょうか。

そして、味方がこれほどたくさんいるのですから、私たちはこの世界にあって、もっと自信を持って歩んで良いのではないでしょうか。励ましはなおも続きます。29-30節 

29節 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。30節 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。 

この2節で特徴的なのは「あらかじめ」ということばです。それは神が未来も含めてすべてをご存知であるということであり、人は偶然に神の子とされたのではなく、神のご計画の中で選ばれていたということです。

これによって、御子イエス様を長男として、私たちはその弟、妹として加えていただきました。「神の子ども」として召していただきました。罪ある者なのに「義」とされたのです。罪がある者なのに、御子の犠牲のゆえに、神の前に「無罪である」とされました。そして、義とされた者は、御霊によって日々変えられていき、やがてキリストともに栄光を受けることが約束されているのです。

 

 ご一緒に教えられて参りました。私たちは神様に選んでいただき、召し出されて今歩んでいます。神様は選んだ者たちのためには、すべてを働かせて益としてくださるのです。そして、キリストのとりなしと御霊のとりなしがあり、いつでも私たちのために祈り、弁護してくださるのです。さらには、兄弟姉妹の励ましがあり、すでに天に召された兄姉たちもまた、雲のように私たちを見守り、声援を送ってくれています。これらの主の守りと恵みによって強められ、この信仰の生涯を全うしていきましょう!多くの支えと仲間たちがいるのです。





引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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