東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書8章9-17節「神を恐れる者の幸い」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/07/03

伝道者の書8章9-17節「神を恐れる者の幸い」

*** 6/30(日)主日礼拝 説教概略 ***

 だいぶ昔、私が生まれる前の曲で「ケセラセラ」という歌がありました(最近のグループの楽曲でも同じタイトルがあるようです)。先のことなどわからない・・・「なるようになるさ」というものです。また、ビートルズの有名な楽曲、「Let it be」という曲もありますが、意味はほとんど同じです。


 どちらの曲も、自分ではどうにもならず、苦しんでいる人たちへの励ましとなってヒットしたのではないだろうかと思います。誰もが将来に不安を抱えて生きています。自分にできるだろうか。大失態をしてしまうのではないかと不安です。

 この世界がとても良い世界で、誰もが幸せになれる「保証」があるなら、不安はないでしょう。恐くないでしょう。ところが、世界はまるで逆です。正しいことをしても不幸な目に遭うことがあります。真面目に生きても、早死にするかも知れません。しかも、自分ではどうにもできないことで、あふれています。

 ですから、「なるようになるさ」と受け止める姿勢は助けになるでしょう。
 
 ただし、私たちの場合には、「神がなさるようになるさ」と受け止めたいのです。

 先のことなどわからないけれど、「神がなさるようになるさ」と、神の主権を恐れていく人は幸せです。不条理の奥に、神の恵みに満ちたご計画を見つめているからです。

 神を恐れる者の幸いを、みことばから教えられて参りましょう。


10 すると私は、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見た。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられる。これもまた空しい。 

 この箇所は伝道者の書の中でも解釈が最も難しい個所の一つとされています。新改訳2017年版の訳も、ちょっと分かりにくいかなと思われます。そこでまず、ここでの結論を抑えましょう。最後の「これもまた空しい」の部分です。そして、「空しい」と訳されている「ヘベル」といことばは、「納得のいかない不条理なこと」という意味があることを紹介して参りました。つまり、著者は「これ」は納得のいかない不条理な事であると言いたいのです

 ではその「これ」とは何でしょうか。それは、悪い人が得をし、正しい人が損をするということです。新改訳2017年版では、10節の3行目までを「一つのかたまり」と理解すると良いでしょう。「聖なるところから離れている悪しき者なのに、丁寧に葬られて去って行く」のは不条理だと言うのです。

 それは、聖なる神様から離れている悪人なのに、お墓にきちんと名を刻まれ人々に覚えられているという事を言っているのです。なぜ、あんなひどい人が!ということ。その一方で、正しい方なのに墓もなく、名前も忘れられてしまうような人もいる。「理不尽だ」と言うわけです。104行目の「わざを行ったその町で忘れられる」の主語として「正しい者が」と入れて理解すると良いでしょう。なぜならば、原語には「正しい者」と訳せることば(ケーン)があるからです。それは第三版や新共同訳聖書で採用されていました。

 整理しますと、聖なる神様から離れた悪人が、立派な墓に名前を刻まれ、覚えられている。その一方で、神様とともに歩んだ正しい人が、墓もなく、町で皆から忘れられてしまうこと。これはとても不条理でむなしいことだと言うわけです。そう思いますよね。

 そして、この10節をそのように理解すると、14節も同じようなテーマなので、理解しやすいでしょう。14節では、不条理な例として、悪者の行いに対する報いを、正しい者が受けることがあると言います。誰かがした悪いことの責任を、他の善良な市民が代わりに負わされてしまうのです。職場でも、上司や同僚の失敗を押し付けられるということもあるでしょう。また、反対に、正しい人の頑張った成果を、悪い人が何の苦労もせずに受け取るということもありますよね。納得のいかない理不尽なことばかりです。

 しかも、悪いことをしている人が、痛い目に遭わない限りは、味をしめて繰り返してしまうということがあるものです。11節から12節にかけてこうあります。

11 悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は、悪を行う思いで満ちている。12 悪を百回行っても、罪人は長生きしている。 

 悪いことを100回行ったからと言って、寿命が100カ月減るわけではありません。悪い行いをしたからと言って、すぐにさばきを受け、滅びるわけではないのです。それゆえに甘えて、罪を重ねてしまう現実があるのでしょう。

 その意味では、自分のした悪に対して、本人にきちんと刈り取りをさせてあげることは、とても大切だとも気づかされますね。何を言っても厳しい報いを受けないなら、人を傷つける態度は改善しないのです。痛い思いをし、本当に困る体験をすることが助けになります。それをさせるのも愛ですよね。そしてまた、自分を愛してくれる人をどれだけ傷つけてきたのかを知ることも、とても大切なことです。

 特に私たちを造られ、御子までも与えてくださった神様を恐れず、侮ることは不幸への道でしかありません。神様はどうせ見ていないだろう?罰が今のところ何もないから大丈夫だろう・・・。どこかでそのように侮ってしまう「人の弱さ」です。ですから、12節の後半から13節にかけてのみことばがとても重要です。 

12節後半 しかし私は、神を恐れる者が神の御前で恐れ、幸せであることを知っている。13 悪しき者には幸せがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らが神の御前で恐れないからだ。 

 滅びて行かないために、不幸のドン底に陥ることのないように、「神を恐れよ」と教えられているのです。神を恐れることなく、何をしても平気だと生きるその先に、「幸せ」は決してないのだと聖書は言っているのです。神様の目は節穴ではありません神様は、気づいていないために、罪への報いを与えないのではありません。悪いことをしてもすぐに滅びないのは、神様の愛の猶予期間なのです。人の罪深い姿を見て、誰よりも悲しみ、誰よりも胸を痛めています。立ち返るのを忍耐深く待っておられるのです。私たちはそのことを知る必要があります。

若い頃、このような賛美を歌ったことがありました。

主よ、あなたの気持ち知らず 過ごした日々でさえも 傷つき耐えられた。主よ、あなたはそばにおられ 私の明け渡しを 待ち続けられた」というものでした。

 それまで、神様が私のために傷つき耐えておられるという感覚をあまり持っていませんでした。神様だから痛くもかゆくもないと。でも、この賛美をはじめ、放蕩息子の例え話や、イエス様の姿を学ぶ中で、主がご自分の胸を痛めて涙し、悲しみながらずっと待っていてくださる姿が想像できました。誰よりも悪を嫌う方、誰よりも聖なる方だからこそ愛と忍耐が必要です。身の毛もよだつほどの人の悪意、不信仰。私たちの心の奥まですべてご存知の方なのです。それらをすべて見ながら、なお滅ぼさないのは、ただ主の愛とあわれみによるのです。

神を恐れるとは、生きておられる神様の臨在をごく身近なものとして覚えて歩むことです。すべてをご存知でありながら、なお、忍耐して私たちを見守っておられる主を意識して、そのぬくもりを感じるようにして生きることでもあるでしょう。

 

そして、神を恐れて生きるとは、すべてが神のみわざであることを信じて生きることです。

15 だから私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。これは、神が日の下で人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。

 「快楽を賛美する」という大胆なことばが語られます。「大きな声で賞賛する」ということばです。神とともに生きる人生は、決して禁欲主義的な堅苦しいものではありません。神様が造られたこの世界を誰よりも楽しめるのが神の子・クリスチャンです、それを誇りに思うべきだと私は考えます。 

 罪のゆえに、私たちの日々の労苦には苦しみが加わりました。病も死もあり、悲惨なことがあふれています。「マンデー・ブルー」ということばがあります。月曜からの戦いの日々に目を向けると、日曜夕方頃に気持ちが沈むのです。それだけ日々、様々なものと戦っていると言えるでしょう。

 だからこそ、この労苦の中で、主は毎日私たちが受けられる恩恵として、食べ物や飲み物の楽しみを下さっています。それらは生きるために仕方なく食べる、仕方なく飲むのではなく、「恵みを食べる、恵みを飲む」ということです。着る服も様々なレジャーにしても、交わりにしても、感謝のうちに味わい楽しむことは、主のみこころなのです。それは神様を覚える時となるからです。主が、日の下での私たちの労苦に、それを優しく添えてくださっているのです。  

 これらのことは一見小さなことのようです。けれども、日々の小さなことの中に、主の恵みを十分に見出せるようになるならば、どのような時にも主の恵みを楽しめるのではないでしょうか

 玉川聖学院の学院長をされている安藤先生。お交わりした際には、本当に苦労が絶えないのだということを感じました。しかし、その先生がおっしゃった中に、「毎日神様の奇跡が起きている」ということばがありました。それは、苛酷な日々の中で、毎日起こっている主の恵みにしっかりと目を留めて行こうという姿勢の表れではないでしょうか。

 皆さんの家でも、学校でも、職場でも、日々、神の奇跡は起こっているのではないでしょうか。見逃してしまってはいないでしょうか。日々、主が下さる様々な糧を見逃さないで、丁寧に味わっていきたいのです。 16-17節にこう続きます。

16 私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、17 すべては神のみわざであることが分かった。  

 実に、すべてが神のみわざなのです。例外はありません。ですから、神を恐れて生きる者は、自分が望むような毎日とは程遠くても、その主にある喜びが奪われることはありません。地上での人生が決して長くないとしても、自分の望むように歩めなかったとしても、そこにも主のみわざがあります。

 花は咲く場所を自分で選ぶことができません。しかし、神様が植えられた場所で、神様がくださる太陽や雨や栄養をいただき、そこで自分の花を咲かせるのです。日照りが続いても、雨の日が続いても、ただ主が下さるものを受けて、精一杯そこで生かされています

 私たちも、不条理に思えるこの世界にあって、すべての上におられる主を信頼して歩むのです。日照りが続いても、雨が続いても、それを下さる方は良いお方であると信じて、感謝してそれらを受けて生きるのです。神を恐れる者の幸いはここにあります。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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