東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【7月分】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/06/30

毎日の聖書【7月分】

1日 出エジプト記21章
12節 人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。 人の命を奪った場合、奪った本人もまた、「自分の命を奪われて然るべき」という考えだ。それは、人の命の重さを教えるためであった。他の人の命も、自分の命と同等に尊く、かけがえのないものなのだ。ただし、神はこれらの法の適用については、とても丁寧に教えている。例えば、殺意がなかった場合の教えが13節にある。 ただし、彼に殺意がなく神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに、彼が逃れることができる場所を指定する。 つまり、何らかの事情で誤って死なせてしまった場合には、「逃れの町」なるものを用意し、復讐から守られる道があったのだ。それは、目に見える「結果」だけで判断せず、その背景にあったことや詳細な事情、また、その人の動機や心を見る神のご配慮に満ちていた。 これらは現代の法律にも影響を与えている。私たちも隣人のいのちや人権を尊んでいきたい。そして、誰かが罪を犯したように見える場合にも、その背景や事情を抜きにして安易にさばかないことだ。丁寧に事情を把握し、その人の心を見ながら、ふさわしい判断していくのでも遅くないだ。

2日 出エジプト記21章
 18-19節では、暴力を伴うような争いが起こり、相手に大きなケガを負わせた場合の償いについて語られている。誰かに損害を与えてしまった場合、神に告白すればそれで解決したと思うのは相応しくない。確かに、罪の赦しがあるのだが、相手に対して償うこともまた、愛の教えである。神に告白するだけでなく、きちんと相手に「ごめんなさい」が言えるだろうか。19節にはこうある。彼が休んだ分を弁償し、彼が完全に治るようにしてやらなければならない。」自分がされて嫌なことはしない。また、自分がされて嬉しいことをするというのが、主の教えである。24-25節では、「目には目を、歯には歯を」との教えが続く。失われた目、失われた耳は、代わりがきかないその大切さを刑罰の中で教えている。それと同時に、それ以上の罰は禁じられ、過度な復讐を防止する意図もあった。聖書ほど、隣人との円滑な関係のために、丁寧に教えられている書はないだろう。主の愛と知恵を感じる。

3日 出エジプト記22章
 1節では、牛や羊を盗んで返せなくなった場合の償いの規定、4節ではその盗んだものがまだ手元にあって返せる場合等の規定である。盗んだ家畜そのものを返せる場合は、盗んだ物に加えてもう1頭返す。すでに家畜が手元にない場合は、1節にあるように4倍や5倍にして返す。それは、当時の人にとって家畜は大切な財産であったからであり、養い育ててきて愛着もある動物だからだ。その痛みに寄り添うため、4倍、5倍と主は決めておられるのだろう。神が人の痛みをよく理解される優しい方なのだとわかる。5節では、他の人の畑を自分の家畜が荒らしてしまった場合の規定である。5節 人が畑あるいはぶどう畑で家畜に牧草を食べさせるとき、 放った家畜が他人の畑を食い荒らした場合、 その人は自分の畑の最良の物と、 ぶどう畑の最良の物をもって償いをしなければならない。「最良のもの」とあるように、償いが相手の心の痛みをも覚えて、豊かな良いもので返すことであるとわかる。 私も償いが十分にできなかった経験がある・・・申し訳ないと思いながらも、後になっては出来ないこともある。できる時を大切にしよう!

4日 出エジプト記22章
 弱い立場の者への保護ということが、様々な角度から教えられる。21節では、「寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。」とある。その理由もあって、「あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである」と続く。現代も外国人たちは、どうしても虐げられる対象となりやすい。だが、教会は主の愛に生きる交わりであるから、やはりそのような弱い立場の人々に寄り添うことを主から示されている。私たちも外国に住むことになれば、様々な不自由を経験するのだ。また、22節では「やもめ、みなしごはみな、苦しめてはならない」ともある。神の民は、弱い者たちに親切にするということを通して、神の祝福を受けてきたし、これを失うときにイスラエルは祝福を失う時もあった。神を愛する人は、隣人を愛する人である・・・私たちもイエス様を愛するならば、隣人を愛する者として歩もう!

5日 出エジプト記23章
1節 偽りのうわさを口にしてはならない。 と語られている。真偽がはっきりしないような噂話を平然と口にすることを神は喜ばれない。私たちは真実や恵みを語るためにこそ、この口を神から授けていただいているのではないだろうか。偽りで人を殺すこともできるのだから、私たちはよく祈り、主が望まれることを語るべきである。また、2節に続いていくが、悪い者に流されたり、多数の意見に安易に流されて、真実でないことを語ってはならないと教えられる。「同調圧力」というものがある。日本は特にそれが強い国。だが、それによって少数派の人々を押しのけてしまうようなあり方を、主は喜ばれないのだ。しかし、興味深いことに3節にこうある「弱い者を特に重んじてもいけない」と。神のバランスはすばらしい!大切なことは、神のみこころにかなっているかどうか。誠実、公正で、愛からの動機であるかどうか。私たちの目は曇っていないだろうか?

6日 出エジプト記23章
4節 あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。 5節 あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。 あなたを憎んでいる人の家畜が迷子であったり、危機に瀕しているなら救出せよという教えである。単なる知人の家畜ではない。敵対者の家畜をどう扱うかの話である。
 ここでは文脈上、神が求める「誠実さ」が問われている。だから、一つには、その所有者が自分にとって好ましくない相手であろうとも、主が造られ慈しんでいるその家畜を守ってあげるという誠実な慈愛の心を求めていると言えるだろう。確かに、家畜は主人たちの争いに巻き込まれているだけで、家畜自体が敵対しているわけではないのだ。人は感情に流されると、そうした冷静な判断も失ってしまう。神のみこころをいつでも求めていきた。同時に、主イエスが説き明かされた、「あなたの敵を愛しなさい」との教えも、私たちには与えられている。主がそれを望むなら、それが善であることも心に留めて歩みたい!

7日 出エジプト記23章
 8節にこうある。賄賂を受け取ってはならない。賄賂は聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめる。」 「聡明な人」の直訳は「目がよく見える人」。賄賂は目がよく見えるはずの人を見えなくしてしまうのだ。政治の世界では、真実を見つめる力のある人が、これによって、どれほど盲目にされてきたのであろうか!ただ、クリスチャンであっても、あり得ること。もちろん「これは賄賂です」という明確な形で受けることはないだろう。けれども、お世辞や見えない圧力をかけて、自分の都合に引き寄せる力はどこでも働くものだ。教会でも声の大きな人に怯えて、周囲が何も言えないこともあるし、関係の癒着が盲目にしてしまうことがある。そうしたものに影響され、見えない人になってはならない。そうではなく、主の前に誠実に生きて、真実をしっかりと見つめて歩むことをみことばは教えている。相手の歓心を買うためでなく、どんな時でも純粋に主のみこころに立って決断していこう。

8日 出エジプト記23章
 これから入って行くカナンの地において、生けるまことの神だけを礼拝できるよう、偶像に惑わされて、罪深い不幸な歩みや滅びに向かって行かないよう、神は様々な角度から教えておられる。寄留者を虐げないこと(9)、安息年、安息日を大切にすること(10-12)。祭儀を通して神の救いを覚えること(13-19)などである。そして、カナンの地の住民を「追い払う」という主のご計画を示された(23節以降)。それは、彼らが非常に罪深く、神をも恐れない歩みをし、さらには神の民を罪に誘う罠となるからだと語られている。33節にこうある。「彼らがあなたを、わたしの前に罪ある者としないようにするためである。あなたが彼らの神々に仕え、あなたにとって罠となるからである。 私たちも心の中に罠を持ったままでいないだろうか。私たちにとって追い払うべき罠とは何だろうか。あなたを神から引き離す何かがあるなら、それと決別することを祈る必要がある。

9日 出エジプト記24章
 主なる神は、モーセとアロン、そしてアロンの息子たちや長老たちに、主の山に上って来て、遠く離れて伏し拝むように命じられた(1)。モーセだけは近づくことを許されたが(2)、それ以外の者たちは「遠く離れて」と言われている。聖なる神の前にあって、罪深い者たちが不用意に近づいて滅びないようにするためであった。主のことばが告げられ、民は声を一つにして応答したことがわかる。「の言われたことはすべて行います」と(3)。そして、全焼のいけにえをささげ(5)、6節にあるように雄牛の血を祭壇にふりかけ、残りの血を民に振りかけた(8)。これは、神と民との契約行為である。当時の契約は、血をもって行われた。血判というものがあるが、契約というものの重さを示している。これはやがて、キリストが御自身の血を流して(いのちを注いだことに他ならないが)、「新しい契約」として、人の救いをくださったことにつながる。民は残念ながら律法の要求を満たせなかった。契約不履行であった。けれども、イエス・キリストはこの契約を完全に履行されたのだ。キリストのゆえに、私たちはこの救いの契約の履行を確かに受けたのだ!

10日 出エジプト記24章
 衝撃的なことばがある。10節で「彼らはイスラエルの神を見た。」と。11節でも「彼らは神ご自身を見て、食べたり飲んだりした」と続く。聖なる神を人がその目で見ることがあれば、確実に滅びる。しかし、ここでは、モーセどころか70人の長老たちがそれを経験しており、驚かされる。そして、彼らは滅びなかった!ただ、それができた理由が語られている。11節で「神はイスラエルのおもだった者たちに、手を下されなかった」と・・・。本来ならば、彼らは罪のゆえに神の聖さの前に滅びる定めだ。だが、神はこの時、特別に、彼らに手をくださらないようにされたのだ。神の許しなしには、人は神に近づくことさえできないが、神が許されるならば、このように大胆に近づき、神を見るという恵みもあった。ただ、それゆえに、人間がどんなに自分で努力しても得られない道であるとわかる。人の努力では、神との親しい交わりを得ることはできない。だから、神が招かれて初めて、人は神を知り、神と向き合い、神と語らうことができるのだ。救いは神からのものであって、人から出たものではない。私たちは神から出る「救い」を、信じて受け入れるのみ!それが信仰である。

11日 出エジプト記25章
 25章から27章にかけては、神と交わりをするための「幕屋」の造り方を神が指示なさっている。8節で、「わたしのための聖所を造らせよ」と命じられている通りだ。ただし、「わたしのための」とあるが、実質的には人間が神と親しく歩むための幕屋であった。実際、8節後半では、「そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む」と語られている。そして、そのためには、人間の「我流」、「自己流」であってはならなかった。9節にあるが、「わたしが示す型と全く同じように」造る必要があったのだ。人は自分の知恵や努力で神の臨在の場にたどり着くことはできない。人の正しさや人の行いによらないのだ。神がその道を「示して」くださり、その道に忠実に歩むことが、神への道なのだ。神が私たちのただ中に住まわれる・・・それはキリストによって成就したわけだが、あるいは内住の御霊によって成就してもいるが、すべては神の側からの一方的な恩寵であり、私たちはただ素直に信じて従っているだけなのだ。救いは神によるもの神の方から人の間に住んでくださったのだ!

12日 出エジプト記25章
 10節から22節にかけては、「契約の箱」の造り方が教えられている。担ぐための棒を通すなど、運搬されることが前提の造りであることがわかる(14)。宥(なだ)めの蓋(ふた)の上には、天使ケルビムを向かい合わせに装着する。これは、日本の神輿(みこし)は、これにとても良く似ている(笑)。それはそうと、33-34節では燭台について語られている。それはアーモンドをモチーフにしている。アーモンドは、他の花よりも早く芽吹くという特徴がある。ゆえに、新しいいのちの象徴である。そこには火が灯され、暗闇を照らす。ここにはキリストが象徴されていると考える人々もいる。いのちの主、暗闇を照らす光である主である。旧約聖書では、このような目に見える事物を通して、神の救いのみわざやキリストについて示されることがある。旧約時代には、このようにして視覚教材を用いて神の救いを学べたことも、一つの神のご計画であったと言える。

13日 出エジプト記26章
 26章では、幕屋とその上を覆う天幕の造り方が記されている。そして、31節以降では、契約の箱が置かれている至聖所と聖所を仕切る「垂れ幕」について語られている。神の臨在を罪ある人間がダイクレトに見るならば、人はその汚れのゆえに瞬時に滅んでしまう。それゆえに、33節に「その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる」と語られている。至聖所には、神の契約の箱が置かれており、仕切りの垂れ幕によって、直接見ることがないようにされている。そして勝手な時に、勝手な方法で入ることが禁じられていたのだ。それほどに神が罪を憎まれる「聖なる方」であるということだ。「わたしが聖であるように、あなたがたも聖でありなさい」と、レビ記のカギとなる主のおことばがある。この幕屋の設計は、まさにそれを学ばせる構造となっている。しかし、キリストの十字架の死後、この「仕切りの垂れ幕」が上から下まで裂け、神の臨在の間への道が大胆に開かれたのだから、本当に主の十字架の恵みは大きい!心から感謝したい!

14日 出エジプト記27章
20節 あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。 純粋なオリーブ油は、神の御霊の注ぎを想起させる。私たちキリスト者が、絶えず主の御霊の力をいただいて、尽きることない神の御力で生かされていくかのようだ。「絶えずともしておく」とあるように、いつでも主にあって、その燃料となる油が尽きないようにし、信仰の炎を燃やし続けていきたいものである。21節によれば、アロンとその子ら、つまり大祭司たちは、夕方から朝に至るまで、主の前にこのともしびを整えると語られている。祭司たちは、信仰の灯が消えないように、神にとりなして祈り、信者のひとりひとりの霊性に心を配ることが求められる。

15日 出エジプト記28章
 神の命令によって「大祭司」が任命され、アロンと息子たちがその召しにあずかることになる(1)。そのために、栄光と美を表す「聖なる装束」を作るように主は命じられた(2)。栄光だけでなく、「」を表す装束を求められた。神が美を意識しておられるお方であることは、世界を見渡せばわかるが、大祭司の装束にそれを求めておられることは興味深い。神は美しさを好んでおられるので、人も美しいものに感動するのだろう。そして、この装束の作り手だが、単に技術があれば良いということではなかった。3節で、「あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵ある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなさい。」と主は言っておられる。技術力だけでなく、神が知恵の霊を満たされた信仰深い者、神の知恵に満たされた者がこれに当たったのだ。私たちも、何をするにも、神の知恵の霊で満たされてなしていく者でありたい

16日 出エジプト28章
 4節以降、大祭司の衣装がどのようなものであったかが語られている。9-12節によれば、縞(しま)めのう(ラピスラズリ)に、12部族の名を刻み、これらを衣装の両肩に装着するということであった。右に6部族、左に6部族というかたちで名が刻まれ、それを両肩に載せて祭事をするということであった。それは12節によれば、「イスラエルの息子たちが覚えられるための石」であったとわかる。大祭司アロンは、主の前で彼らの名が覚えられるように両肩に載せて、その奉仕をし続けたのだ。ある意味で、とても重みがある。いつでもその両肩に、民全体を負っているのだから・・・。ただ、祭司は民の代表であり、彼らと一つとなって、神にささげ物をし、とりなしをする。牧師にはこうした祭司的な役割もあることを忘れてはならない。いや、牧師だけでなくすべての信者が、互いのためにとりなし、全員の名が神に覚えられるようにしたい。

17日 出エジプト記28章
 両肩の縞めのうに続いて、さばきの胸当てにおいても、イスラエル12部族をそこに埋め込んでいた。この胸当てには12の宝石が埋め込まれ、21節にあるようにイスラエルの息子たちの名にちなむ宝石であった。それは29節にあるように、祭司はその胸に12部族全体を「担う」のであり、絶えず主の前におけるさばきを担うためであった。昨日の肩と異なるのは、こちらは「さばきを胸に担う」という意味があったという点である。大祭司は、民のためにとりなしをするだけでなく、彼らの様々な問題についてさばくという責任を持っていたと言える。かぶり物につける純金の札には、『主の聖なるもの』と彫られた。これはイスラエルの民のための聖別を意味している。主の前に、民が受け入れられるように、ささげ物において、聖さが守られるようにであった。こうした大祭司の型は、やがてキリストという大司祭によって完成する。旧約時代は不完全な姿であったが、御子キリストこそ完全な大祭司として、私たちのために献身してくださったのである。

18日 出エジプト記29章
 大祭司が聖なる働きに任職される時、聖別されるために「罪のきよめのささげ物」をする(1)。10節にあるように、大祭司は雄牛の頭に手を置く。それは、罪に対するさばきを、この雄牛が代わって負うという義式である。これは、大祭司が自分が犯してきた様々な罪、自分のうちにある罪と真剣に向き合う時間となったはずだ。この雄牛が自分の代わりに犠牲となるのであるからだ。この雄牛は主の前でほふられ、その血が取られて、祭壇に塗られる(11-12)。血はいのちの象徴であり、きよめのための注ぎである。これを通ることなしには、大祭司は神の前で仕えることができない。自らも間違いなく罪人なのであるから。そして、この雄牛は祭壇の上で焼かれ、煙とされる(13)。こうして14節にあるように、「罪のきよめのためのささげ物」となる。これは任職式のごく一部であり、他にも雄羊の犠牲が必要であり、七日間に渡って行われるのであるから、本当に厳粛なものであった。主キリストご自身の犠牲の尊さやその大きさを改めて思わされる。

19日 出エジプト記29章
 35節に、「七日間、任職式を行わなければならない」とある。そして、毎日、宥めのために、罪のきよめのささげ物として雄牛一頭を献げること(36)、また七日間、祭壇のためにも宥めを行い、聖別される必要があると教えられている(37)。祭壇の上に毎日献げるべきものとして、「雄の子羊二匹」を朝、夕に一匹ずつとある(38-39)。このように多くの犠牲をもって、ようやく大祭司がその任に与えることができる。そして、この儀式自体が人を聖とするのではなく、聖なるものとしてくださるのは神ご自身であることも忘れてはならない。43節で、天幕の入り口が、「わたしの栄光によって聖なるものとされる」とある。また、44節では、「わたしは・・・聖別する」と、主なる神がそれをなさることが明言されているのだ。人は神に信頼して従い、その通りにするだけだ。聖なる主ご自身が人を聖とし、ご自身の働きをさせてくださるのだ。私たちも主によって聖められながら、主の働きをさせていただこう!

20日 出エジプト記29章
 45節「わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、彼らの神となる」と、主は言われた。このことばは常に覚えておく必要があるものだ。これこそ、主が私たちを救い出してくださる目的となっている。46節で、「彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出したことを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。」と語られている。主である方が、その民のただ中に住むために、エジプトから導き出したのだと言われている。エジプトから救い出したのは、単にエジプトでの奴隷状態からの解放ではないのだ。解放されて野放しではなく、神の民となって、そのただ中に主である神が住んでくださり、ともに歩むためであった。これは、キリストによる贖いの型である。キリストによって罪とそののろいから解放された私たちは、神との交わりを回復し、この方の民となり、主が私たちの神となってくださるためなのだから!!

21日 出エジプト記30章
 ここでは香をたくための祭壇の作り方が教えらえれている(1)。全体的に金が多く使われており、移動できるよう担ぎ棒とそれを通す輪が備えられていた(4)。7節にあるように、大祭司アロンは、その上で香の高い香をたき、朝ごとにともしびを整えて、主への煙を立ち上らせるのだ。また、毎夕これをする。「常供の香のささげ物」と言われる(8)。こうして主が作り方を示し、たくべき香も示し、用い方を示し、それに沿ってこの祭壇で香がたかれていく。この香り豊かな煙が立ち上っていくさまは、神へのかぐわしい祈りを象徴している。人間は自分勝手なやり方で、神に仕えようとするが、こうした記録を学ぶ時に、むしろ神ご自身が細かな指示を出し、一つ一つに意味をもって人に教えていることがわかる。神へのかぐわしい祈りとは、何だろうか。自分たちのお願い事を祈り続けることがかぐわしい祈りではあるとは到底思えない。私たちの祈りに、神への賛美、神への感謝、神への従順がどれだけあるだろうか・・・。

22日 出エジプト記30章
 37節で「その割合で作る香を自分のために作ってはならない。」と語られている。調合割合まで主は指示され、その通りにすることを命じておられる。なぜならば、37節後半にあるように「あなたにとって、に対して聖なるものである」からだ。大祭司に求められたことは、主に対して聖なるものとして行うことであった。38節では、これと「似たもの」を作って嗅ぐ者は、民の間から断ち切られるという厳しい教えがある。似ているけれども、異なるものほど、神が嫌われるものはない。似ているものは、ごまかしであり、他の人への惑わしを生むからである。この点は神に仕える祭司だからこそ、より厳しく問われたが、すべての信者においても考えさせられることである。悪魔は全部をウソで固めない。多くの真実の中に少しだけ偽りを混ぜて、それで私たちを神から引き離していく。混ぜ物をせず、主のみことばにまっすぐに歩もう。

23日 出エジプト記31章
 主なる神は、名指しで職人を選び、細工に意匠をこらし、彫刻などの細かやな仕事をさせた(2-4)。しかも3節にあるように、その彼らの務めにおいて知恵や知識を与えるとともに、彼らの上に「神の霊を満たした」のだ。7節以降では、天幕に関連する様々な備品、器具、用具、服など、あらゆるものの制作を、神が選んだ職人に細工させ、整えさせているすべての備品や器具の制作でさえ、神の霊に満たされた者が、神からの知恵と力でこれらの作業に当たっているのだ。みことばを取り次ぐ者だけでなく、祭儀を執り行う者だけでなく、宣教する者だけでなく、神の働きのあらゆる分野において、神の力によってなす必要があることを教えられる。それゆえ、教会の様々な機器作業、日曜大工的なもの、事務的なこと・・・これもあれも、神に祈りながら、御霊の注ぎをいただきつつなしていこう。

24日 出エジプト記32章
 モーセはなかなか戻って来なかった。それで民はアロンに偶像の神を求め始めた(1)。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。」と。「神を造る」という発想が問題だ。神とは人間が造らないと存在できないのだろうか神を造れる人間は、神より偉いことにならないかとの疑問が起こる。彼らの心の根底には何があったのだろうか。1節後半にこうある。「われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから」と。さらなる疑問が生じる・・・。エジプトから救い出したのは誰だったのかという疑問だ。彼らはエジプトから導き上った、あのモーセが、いない!と嘆いているのだ。それが不安なのだ。まるでモーセを神のように思ってはいないだろうか。私たちもまた、見えるものに依存しすぎではないだろうか。見えるものがすべてではない。見えなくとも、いや、見えないからこそ、永遠不変である神に心の目を留めて参りたい。

25日 出エジプト記32章
 2-4節で、アロンは皆の金を集めて、金の子牛を製造している。完成後、彼は言った。5節 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は主への祭りである。」 なんとアロンは、金の子牛を造っておきながら「明日はへの祭りである」と言っているのだ。つまり、彼らは全く別の神に寝返ったつもりではないということだ。異教のバアルとかアシュタロテなどの神に寝返ったつもりではない。あくまでも「つもりではない」だけなのだが・・・。では、何が問題だったのだろうか。ちることのない永遠の神の姿を、朽ちていく有限な造り物に変えてしまったということだ。それはまことの神を捨てて、偶像礼拝に走ったことと同じである。無限で永遠の神、全知全能の神を、有限な被造物の「金の子牛」に変えてしまったことだ。それは既に、神ではない。有限で滅び行く造り物に過ぎないのだ。これは、結局は、人々をまことの霊なる生ける神から遠ざけてしまう道である。

26日 出エジプト記32章
 モーセが留守の間に金の子牛の像を造った民であった。「あなたの民は、堕落してしまった」と語られている(7)。また、早くも命じた道から外れてしまったとも語られている(8)。あまりにも早すぎると言える。短時間さえ、罪を犯さないで過ごせないのであろうかと。だが、私たちも、一つも罪を犯さない日がどれぐらいあるのだろうか。1週間、罪ゼロを実現できるのだろうか。悔い改めてから、「早くも」罪を犯すこともあるだろう。
 そして、何より問題は9節にあるように、「うなじを固くする民」であることだ。それは、首を縦に振らないということ。つまり「はい、そうします」と素直に神に従わない強情さを現す表現だ。過ちを犯した時にも「ごめんなさい」と頭を下げない強情さだ!では、誰の声になら素直に従うのだろうか・・・。そうだ、自分の声には素直過ぎるぐらいに従うのだ。これこそ、自分を神の上に置く偶像礼拝の問題だ。私たちの心の王座をまことの神に明け渡そう!

27日 出エジプト記32章
 22-24節にアロンの言い訳がある。24節では、皆が身に着けていた金を集めて、火に投げ込んだら、「金の子牛」が出て来たと言うのだ。そんなはずはない。4節では、はっきりと子牛の型を制作し、意図的に造っていることがわかる。そして、35節ではこう語られている。35節 こうして主は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。 「それはアロンが造ったのであった」と語られている。神の目にはどんな「ごまかし」も意味をなさない。全知全能の神にはすべてが見えているのだ。私たちも様々な「うまい言い訳」を考えることがあるかも知れない。だが、神の前にはすべて裸であり、全部見えているのだ。過ちを犯すことはある。私たちは罪人なのだから。だが、大切なことは、強情にならず素直に認め悔い改めることだ。 この出来事のゆえに数千人が死ぬことになった。それでも、全体が滅ぼされることがなかったのは、モーセの必死のとりなしと神のあわれみ深さのゆえだ。強情さではなく、素直さと謙虚さを大切にしよう!




引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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