*** 9/29(日)主日礼拝 説教概略 ***
「愚かさからの解放」というタイトルです。ただ、聖書が語る「愚かさ」が何であるかがわからないと、愚かさの中に居続けてしまうかも知れませんね。聖書の語る「愚かさ」とは、頭の働きが鈍いとか、勉強ができないといった事ではありません。むしろ、自分は賢い、悟っていると思い込み、神の知恵を求めない人のことです。これが聖書やこの書で言うところの愚かさです。
それならば、賢い歩みは自ずとはっきりしてきます。それは、自らの知恵の無さ、未熟さを認め、神を求める人なのです。自分の悟りに頼らず、主により頼む者が真の賢者です。
その具体的な例として、箴言3章5-7節をお開きください。
箴言3:5 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。3:6 あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。3:7 自分を知恵のある者と考えるな。主を恐れ、悪から遠ざかれ。
自分を知恵ある者だと考え、自分の悟りに頼ってはならないと語られます。そうではなく、心を尽くして主を恐れ、主に拠り頼みなさい!と。そうすれば、主があなたの道をまっすぐにしてくださるのです。これが聖書の語る、賢く幸せな道です。自分の悟りに頼っていませんか?それは愚かさへの道です。心を尽くして主を求めましょう!
1. 愚かさが引き起こす問題の深刻さ
1-3節は、神を求めない愚かさこそが、大きな問題点を引き寄せると語られています。
1節 死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。
わずか1匹のハエの死骸が、香り豊かな香油を台無しにしてしまう。これは、神を求めない愚かさが、良いものを台無しにしてしまうことへの警告です。特に、ここでは、神様の考えやお心を求めない罪深い高慢さが、良い働きを台無しにするということです。小さなことであっても、神様に拠り頼み、そのおことばを求めていく時、その道がまっすぐ、確かなものにされていきます。
2節では、「知恵のある者の心は右を向き、愚かな者の心は左を向く」とあります。右を向くとか左を向くとか「あっち向いてホイ」の話ではありません。聖書中、右は左よりも「優れたもの」を意味します。知恵ある者の心は、いつでもそうした「より優れた良い道」に向いています。ただ、それは決して楽な道ではありません。左を見れば、とっても楽そうな道があり、簡単にそれを選ぶこともできるのです。それを選ばずに、より良いものを目指して神様に必死に祈り求めて行くことは大変なことです。でも、それは賢い道です。神様が与える道がより良い道、最高の道だからです。
本日はある中学生が、早朝礼拝をAM7:00にささげて部活の試合に行きました。それをしないという楽な左側の道もあったでしょう。でも、大変だけれども、より優れた右の道を彼は選び取ったと言えます。心静かにみことばに聴き、生きる上で最も大切な主の知恵を教えられ、平安をいただいて試合に向かったのですから。
3節でもこうあります。
「愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす」。
安易に楽な方ばかりを選ぶ思慮に欠けた道は、結局は「自分は愚かです!」と周囲に宣伝しているようなものです。なお、「思慮」ということばは、「心」と訳すこともできることばです。心を欠いて成したわざは、中身がなく、練られておらず、人を感動させることはできません。
昨日、富弘美術館の館長さんとお話していた時に、こんなエピソードを伺いました。富弘さんが有名になり、非常に人気が出て来た時に、ある人が富弘さんに質問したのです。「人気になり、『もっとすごい大作を描いてやろう!』と浮ついた心になり、人気が出そうな作品を描いてやろうと思うことはあるのか」と。富弘さんは「あります」と答えたそうです。正直です。「では、そういう思いがある時、どうするのか?」と聞かれ、富弘さんはどう答えたのでしょうか。「描くのをやめる」、「そういう思いが消えるまでは描かない」と言ったそうです。
思慮深く、心を大切にしている方の選択ですよね。絵の技術があれば、ことばのセンスがあれば、良い作品が生み出せるわけではないのですよね。
私たちは、大切な「心」が失われている時に、手を止めて立ち止まり、神様の愛に心が満たされるまで「やらない」と決断できるでしょうか。すごく難しいことです。
説教準備も心の戦いの連続です。疲れていると楽をしたいのです。早く寝たいです。葛藤します。夏のキャンプの際、3日目が終わる頃に案の定、戦いが生まれました。私は4回すべての説教原稿を完成させ、印刷した状態で持って行きます。でも、日が進むに連れ、参加している学生のうちに変化が起きていくことに気づいてしまう。すると、キャンプ前に準備したあの説教でいいのか?という葛藤が生まれます。最初は赤ペンで修正していきますが、あまりにも直しが多く構成も変えたいとなる。最後は手書きでやり直すしかない。しかし、原稿を最初から書き直していくのは、相当なエネルギー。睡眠不足になると思うと葛藤します。それで神様との説教会議が祈りのうちに始まります。結論は決まっていたのに、結論が出るまでに2時間かかりました。ため息をつきながらゼロからやり直しました(笑)。それでも夜は12時には休み、朝5時前ぐらいから9時まで4時間ほど、朝食もスキップして集中しました。
書き直さないにしても、心をそこに注いで思慮深く、より優れたものを求めたいのです。一つの例ですから、皆さん同じことをしましょうという話ではありません。でも、焦って答えを出さず、あなたが取り組んでいる大切なことには、十分に「心」を注いで、神様とじっくり相談していきませんか。
2. 高い地位に愚かな者が立つことの深刻さ
4-7節は、高い地位における愚かさについて語られています。
4節 支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。
「立腹」と訳されている「ルアハ」とのヘブル語は、しばしば人の「感情」を表す場合があります。おそらくこの怒りが正当なものではなく、感情的で理不尽な怒りだったということでしょう。そして、感情的で理不尽な怒りに対しては、同じような感情の怒りで立ち向かってはならないのです。「冷静でいれば、大きな罪は(自ずと)離れて行く」のだとあります。
箴言15:1にも「柔らかな答えは憤りを鎮め」とあるように、理不尽な怒りに対しても、間違ったことをしていないのならば、冷静に丁寧に説明することが大切です。特に社会人の方々は、覚えておくと良いでしょう。また、愚かな支配者は、お世辞を言って近づいて来る者不誠実な者を高い地位につけてしまいます。
その結果、6-7節にあるように、誠実な相応しい人材を退け、悪い愚かな者に高い地位を与えるので、仕える者たち、支配される者たちには最悪なことになります。それで5節で、それは重大な悪であり、権力者から出る過失のようなものだ!と指摘されています。
3.日常生活にある愚かさ
神様を求めない愚かさは、日常生活の中にも潜んでいます。
8節 穴を掘る者は自らそこに落ち、石垣を崩す者は蛇にかまれる。 穴を掘るという行為には、誰かを穴に落とそうとする悪意があります。ところが、笑い話としては、掘った穴に自分が落ちてしまうことがあるわけです。「墓穴を掘る」との諺がありますね。9節は、8節よりさらに安全度が高そうな働きの話です。しかし、家を建てる時の「石を切り出す」作業や、日常で使うために「木を割る」という作業であってさえも、危険は常に潜んでいるのです。油断して大けがをすることはいくらでもありえますよね。思い上がって、神を侮って生きることは、このような危険に対処できません。
私たちも家事や日々の仕事、通勤通学、家の中でさえ大きな怪我をすることがありますよね。私は車の運転にどんなに慣れても、必ず運転前に祈ることにしています。事故に遭いませんよう、神様がお守りくださいと必ず祈ります。慣れの中でおごり高ぶる時こそ、危ないのではないでしょうか?
そうやって、怪我や体調不良になれば、大切な礼拝さえも集うことが難しくなるのです。何か大きな試練の時だけ神様に頼むのは賢くありません。日常の平和な日々の中でも、突然の大きな事故、病、トラブルはいくらでも起こるのです。だからこそ、日々、神様に祈りながら、小さなことから、みことばに従って生きることが、とても大切なのです。
11節を見ていただくと、蛇を飼い慣らしている蛇使いですら、蛇に咬まれることがあると語られています。「猿も木から落ちる」とのことわざがありますように、自分はできる!賢い!と思っている時こそ、思わぬ落とし穴に落ち、致命的なダメージを負ってしまうことがあります。焦るあまり、十分な祈りの準備を積まず、主の前に静まることも後回しにして、ただ、騒がしく動いているならば、思わぬ火傷をすることになるのです。いつでもその手を止めて、主の前に静まることを大事にしたいですよね。
4.ことばにおける愚かさ
12-15節は、ことばにおける愚かさです。これは言うまでもないことかも知れませんね。
14 愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。
これから後に起こることを、だれが彼に告げることができるだろうか。
本当にその通りですね。青年キャンプのテーマが、詩篇46篇から「やめよ、静まれ、そしてわたしが神であることを知りなさい」というものでした。わかりもしないのに、ことば数だけが多くなる。知らないことを知っているつもりになって雄弁に語り、自らの無知をさらけ出してしまうことがあります。それは、自らを高めたい、評価されたいとの思いがどこかにあるからかも知れません。プライドが邪魔をして「わからない」と言えないことがありませんか。しかも、よく分かっていないことを知ったかぶりで、誤魔化して話そうとする時ほど、内心怯えており、ことば数が増えてしまうものです。
このように、神様を求めない愚かさは、大切なことに十分に心を注がず、焦って浅はかな対応をしてしまいます。結果、墓穴を掘ってしまい、自分の愚かさを宣伝してしまうのです。
それで、15節にあるように、「愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせる」のです。
もったいないですよね。せっかく労苦するのですから。自分をただ疲れさせて終わる労苦ではなく、いつまでも残る、有益な労苦となるようにしたいですね。
そのために、私たちは絶えず主を求める必要があります。この世に生きる限り、労苦は必要です。苦しみも試練もなくなりません。しかし、同じように労苦するならば、同じように苦しむのならば、自分を疲れさせて終わるだけの労苦をやめ、主の良い働きのため、なくならない有意義なもののために労苦しませんか。その道がキリストの道です。キリストは、自分の思いから自由にされ、父なる神のみこころに歩みました。自分のことばに固執せず、父なる神からのことばを語りました。自分の行いではなく、父なる神がせよと言われたわざとただ行いました。
それは愚かさとは正反対の神の知恵によって生きる道。キリストは弟子たちに言いました。「わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」と。これが愚かさから解放され、自由にされる道です。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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