*** 9/25(水)祈祷会 説教概略 ***
私たちに与えられる「救い」とは、恵みによるものです。
恵みによると言う場合、それを受け取る手段は、良い行いではありません。ただ信じるのみ、つまり信仰によって、神の義を与えられるのです。そして、この恵みを受け、義とされた者だからこそ、応答として御霊の助けのうちに神のみこころを実行していけるのです。しかし、律法主義に陥っていたユダヤ人たちはこれがなかなか理解できずにいました。そのために、キリストの十字架の意味がわからず、キリストご自身が「つまずきの石」となってしまうことさえありました。私たちは、行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって生きます。彼を「信頼(信仰)する」者は、失望させられることがないからです。信頼に値するキリスト。この方への信仰によって歩んで参りましょう。
30-31節をご覧ください。
30節 それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。31節 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。 異邦人とイスラエル人が対比されています。義を追い求めていなかった異邦人が信仰によって義とされ、義の律法を必死に追い求めたイスラエル人たちが、義を得られませんでした。それは、一見不条理なものに見えます。しかしながら、この対比のポイントは、実は異邦人であるか、イスラエル人であるかではないのです。どの国の人であるか、どの民族であるかは問題ではないのですよね。ポイントはどこにあるのでしょう。信仰によるのか、行いによるのかという対比なのです。イスラエル人たちは、行いによって義を獲得しようとしたので、かえって得られなかったのです。逆に、異邦人たちで救われた者たちは、自らの罪を認めて、行いではなくキリストを信じることによって、恵み受けて義とされたのです。行によって自分を正当化する歩みではなく、自らの罪深さを率直に認めて、ただ主を仰ぎ見る信仰ゆえに、神様が私たちを義としてくださるのです。 整理するために、以前にも紹介した図を改めて皆さんと確認したいと思います。聖書の福音の理解と律法主義との違いです。
一番右の図(無律法主義)は、神の良い教えをまったく尊ばない考え方。ただ受けるだけで、人間の応答を全く不要としてしまう極端なので、最初から問題外かも知れません。しかし、「律法主義」(左)と「福音に生きる歩み」(真ん中)とは一見似ていますね。クリスチャンもよく律法主義に陥りがちです。番号がなければ同じに見えるのですから。
しかしながら、大きな違いがあります。律法主義は、まず人間の行いありきになっています。人が行って頑張ったので義とされて、神様がご褒美を下さるという図式なのです。人が何かをして、神様から恵みを引き出すというこの世の様々なご利益宗教と似た図になってしまいます。それは聖書が教えているものではありません。
しかし、福音は、まず、すべてを神様がくださっていることを信じるのです。献げることができるように、主が先に与えてくださっていますよね!いのちも糧も救いも主が備え、与えてくださったもの。その主の恵みと愛に感謝し応答して、いくらかでもお返ししたいと願って生きていくのです。
さらに言うならば、私たちは神様の恵みに応えて多くをお返ししても、返し切れないどころか・・・、恵みに応答する者には、さらに主が恵みを増し加えてくださるのです!なので③の矢印が生まれます。
イエス様の十字架の恵みについても同様です。自分の行いや偽善などの見せかけは、イエス様の十字架を小さくします。「自分」が大きくなっているからです。そうではなく、神の聖さをますます教えられ、自らの罪深さにますます気づかされていくことで、主の十字架の恵みが私たちの中で大きくなるのです。
32節に進みましょう。
32節 なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
信仰によらず、恵みによらず、行いによって義を追い求めてしまったということが問題でした。少し後の10章3節に、実にこのように語られています。「彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです」と。「自らの義を立てようとして」とありますよね。つまり、自分の行いによって到達する「義」、人間が自らの力で到達しようとする「人間の義」を求めてしまったのです。
それは、神がくださる義とは似ても似つきません。こうして、人間的な義を求めた人々にとっては、恵みによる義をもたらすキリストが、「つまずきの石」になってしまったのです。行いによる義を立てようとする者たちにとっては、キリストは「つまずきの石」あるいは、「妨げの岩」となることを主は知っておられ、イザヤに示しておられたのです(イザヤ28:16、8:14)。
それで33節のように語られているのです。
33節「見よ、わたしはシオンに、 つまずきの石、妨げの岩を置く。 この方に信頼する者は 失望させられることがない」と書いてあるとおりです。
シオンとはイスラエルのことです。律法主義的に生きるイスラエル人には、恵みによる救いは、彼らの考えを妨げ、つまずきをもたらす知らせとなりました。しかし、一方で行いによらず、ただ信じる信仰によってキリストと歩むならば、むしろ「失望させられることがない」のです!!
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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