*** 9/22(日)礼拝説教 概略 ***
「健康であることは、自分のためじゃなく、家族や友のためである」
そのように考えることが大切だと改めて気づかされています。入院前、ある先輩の先生が私の検査入院のことを聞きつけて、お電話くださいました。私のことをご心配下さっていることをとても嬉しく思いました。また、以前、大きな病を経験なさった姉妹とお話した際には、自分は案外平気で受け止めていても、家族や友人が自分以上に落ち込むことがあるとおっしゃっていました。「なるほど、そうかも知れないな」と教会の皆さんや友人の反応を見ながら思いました。
このように、私たちが元気で生きているということは、自分のためではないのではないでしょうか。大事に思ってくださる家族や友人、兄弟姉妹のために元気であろう!と努め、また祈り求めていくものなのだと教えられています。私も自分のためだけならば、正直、そこまで頑張ろうと思えないのですよね。検査も楽なものだけではありませんでした。痛いものや副作用のようなものが残るものもありました。現在もその頭痛があります。
しかし、皆さんの励ましになるのならば耐えよう。病を解明して元気で!と思わされます。コロナ等の体調不良でお休みされていた方もいらっしゃいますが、今朝、こうして直接お会いして、お交わりできること、ともに礼拝できることは本当に幸いです。主に感謝しています。
本日、開いているみことばも、主にある友が顔と顔とを合わせて交われる喜びが教えられています。この手紙を書いた老ヨハネは、手紙の受取人なるガイオをはじめ、自分の息子や娘、孫たちのような世代の者たちを愛しており、会って話したいと願っていました。
1.手紙ではなく直接会って、語り合う
13節 あなたに書き送るべきことがたくさんありますが、墨と筆で書きたくありません。
ここにありますように、書きたいこと、伝えたいことは山ほどあったことでしょう。
ですが、「墨と筆で書きたくありません」と彼は言うのです。もちろん、疲れて、書くのが面倒になったというわけではないでしょう。
その理由の一つは、このような手紙という方法は、悪用される可能性があったということです(多くの注解者が指摘しています)。それは、9節で出て来た「ディオテレペス」という意地悪な野心家が、敵対心むき出しで妨害する可能性があったからです。以前、意地悪ディオということで覚えていただきましたが、この人の目にこうした手紙が触れてしまうと、廃棄されたり、悪用されたりする危険もあったことでしょう。
例えば、手紙の一部分だけを切り抜いて、悪い解釈をして、「こんなおかしなことを教えているのだ!」と広めることもできるでしょう。本人不在の場では、そういうことさえ出来てしまうことがあるものです。その意味でも、最後は直接、顔と顔とを合わせて語り合わないと、いらぬ誤解を生んだり、思い込みで傷つけ合ってしまったりする事があり得るのです。ですから、私たちもまた、語り合うことをする前から、ちょっとした仕草や反応、あるいはメールやLINEの文字だけで判断しないことです。きちんと語り合うことで、本当の意図を知ることができますよね。
もう一つの理由があったと考えられます。ここにはより積極的な理由もあったと考えられます。それは、シンプルに「会いたかった」ということです。実に、このシンプルに「会いたい」というメッセージ、とても尊いと思いませんか。14節にこうありますよね。
14節 近いうちにあなたに会いたいと思います。そうしたら、直接話し合いましょう。
ヨハネはだいぶ年老いていましたが、それでも会いに行きたいと考えていたようです。今のように交通機関が発達していない時代。彼は80~90歳ぐらいの可能性がありました。それでも、近いうちに「あなたに会いたい」と明言しています。手紙のセキュリティの問題だけでなく、何よりも会って語り合いたいというのが本音だったのではないでしょうか。
ヨハネは、第二の手紙でも、似たようなことを言っていました。ひとつ前のページになります。12節です。「あなたがたにはたくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。」ここまでほぼ一緒ですよね。その続きにこうあります。「私たちの喜びが満ちあふれるために、あなたがたのところに行って、直接話したいと思います。」ここでは、「私たちの喜びが満ちあふれるために」と理由が語られています。ヨハネは、ガイオに対してはこのようには書かなかったものの、きっと同じ思いを持っていたことでしょう。それは単に任務遂行のためだけではなかったと考えられます。
その証拠に、第三の手紙では、ヨハネは「愛するガイオ」、「愛する者よ」等と、4度も繰り返し「愛の呼びかけ」をしています。ですから、問題解決の必要も確かにあったけれども、まず、愛する兄弟であるガイオに会いたかったというメッセージであると考えられますよね。
しばしば私たちは、用件がないと連絡をしないということがありますよね。特に男性はそういう傾向が女性よりも強いでしょう。出張中、奥さんに「何で連絡をくれないの?」と言われて、「いや、特に用事がなかったから」と答えるご主人、案外少なくないのではないでしょうか。しかし、何も要件がなくても「元気にしているのか」「早く再会したい」と伝える交わり、本当に大切ですよね。
それは、神様との交わりにおいても重要なことです。神様に助けを求める時だけ祈るということはないでしょうか。義務のように食事の時、そして助けて欲しい時、お願いしたい時だけお祈りをする・・・そういうことはないでしょうか。それはまるで友人に向かって、「あなたのお金や助けは欲しいのだけど、あなた自身の存在は別に求めていない」と言うようなものです。
「亭主元気で留守がいい」なんてことばもありますが、神様との交わりがそのようでは、クリスチャンの喜びは失われますよね。何もない順風満帆な時でも、「神様、いい天気ですね」「このご飯美味しいです、感謝です」と、神様の存在を喜ぶ信仰生活を送りたいものです。小さな会話を神様と楽しむ交わりです。
2.ともに過ごす交わり
そして、やはり手紙やメールも有用ですが、会ってともに過ごすことこそ、主にある友としての、信仰の共同体としてのすばらしさ、恵みですよね。14節の最後に「そうしたら、直接話し合いましょう。」とありますね。脚注にて、直訳で「口と口で」とあります。これは第二の手紙の時に少し話しました。英語では「face to face」であり、日本語でも「顔と顔とを合わせて語り合う」という表現が、直訳に近いものになるでしょう。
ヨハネの願いは、やはり実際に会って、顔と顔とを合わせて語り合いたいということです。手紙も当時の社会ではとても画期的な方法であり、有効なものでした。手紙は残るので、それを回覧して一緒に教えを学ぶということがよくありました。ですから、手紙の良さ、有効性はもちろん理解した上でのことです。
それでも、やはり実際に会うことはそれにまさります。一緒に集まることをやめるべきではないのです。現在はオンラインも有効に用いています。会議や学びのため、あるいは交わりの補助としても用いられています。ただ、だからと言って、やはり会ってともに過ごすことをやめてはならないと思わされます。病の方々、体の不自由な方々のために、この礼拝のオンライン配信も続けていますし、説教を少し復習するために視聴する方もいらっしゃるようですが、それでも可能な方々はここに来て顔と顔とを合わせたいのです。
特に、私は先週、病室からオンラインで礼拝を視聴させていただきました。ある意味画期的ですよね。ただ、説教の最後のところで、看護師さんが血圧を測りに来られて、「今いいところなのに!」と心の中で思ってしまいました(看護師さんは何も悪くありません!)。
また、最後、牧会祈祷の最中にも「お昼ご飯でーす」と爽やかに入って来られました。11:30にはご飯が運ばれて来るのです。そうした妨げがあることも、オンラインの弱点だなと思いました。やはり場所・空間が聖別されていない(聖めて別けられていない)ゆえの課題です。
しかし、それ以上に改めて感じたのは、「皆さんとともにささげている」という一体感、交わりがない「さみしさ」でした。私たちが考える以上に、同じ空間でお互いを感じながら主を礼拝し、またお交わりすることは大きな恵みなのですよね。
最後の15節で、ヨハネはこのように語って手紙を終えています。
15節 平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たち一人ひとりによろしく伝えてください。
非常に丁寧なあいさつです。友人たちがガイオによろしく。そして、ガイオの周囲にいる仲間、友人たち、ひとりひとりに対してよろしく伝えて欲しいと言います。特に、原文では「名前で」という単語が入っています。「友だち一人ひとりの名前を呼んで、挨拶申し上げます」というニュアンスが込められているのです。もちろん、全員の名前をすべて書いていくことは、相応しくなかったのでしょう。しかし、ヨハネとしては知っている名前を思い浮かべながら、祈り心をもってよろしくと書いて筆を置いたのです。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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