*** 9/4(水)祈祷会 説教概略 ***
本日の賛美において「ありがとう」という賛美曲をささげました。
その歌詞の中には、「神の目に映らなくても仕方ない者なのに」、「汚れ切った私の姿」、「神に捨て去られても何も言えない者なのに」とありました。この賛美曲を作られた方のことは存じ上げませんが、きっと、ご自身の罪深さと汚れに心から涙した方なのだろうと想像します。だからこそ、主がこのような者に目を留め、愛してくださって、ひとり子の犠牲をもって救って下さった喜びとあふれる感謝が歌われているのでしょう。
しばしば、なぜ神様はこの人物を選ばれたのかということが議論されます。なぜ、エッサイの他の息子ではなく、末息子のダビデだったのか。なぜ、ラハブやルツのような異邦人がイエス様の系図に加えられたのか。なぜ、パウロのような反キリストの側にいた者を選ばれたのか。彼らが立派な人だったからでしょうか。そうではありません。
第一コリント1章に「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためだとあるように、主を誇る者となるよう、救われる資格なき者たちが、ただ主の愛とあわれみのうちに召し出されたのです。少し前の22節にて、イスラエルは「怒りの器」となっていたことが語られていました。しかし、神の愛とあわれみによって、23-24節にあるように「あわれみの器」とされたのでした。今日のみことばは、まさにこの点を、旧約のみことばを引用しながら語っています。愛される資格なき者を、神様が愛してくださったのだということです。
1.愛されない者を、愛された主
25-26節をご覧下さい。パウロはホセア書を引用してこう語っています。
25節 それは、ホセアの書でも神が言っておられるとおりです。
「わたしは、わたしの民でない者を わたしの民と呼び、 愛されない者を愛される者と呼ぶ。
26節 あなたがたはわたしの民ではない、 と言われたその場所で、
彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
ホセア書というのは、やや特殊な書です。北イスラエルの預言者ホセアに神様は驚きの命令を下されたからです。それは、姦淫の女ゴメルと結婚せよというものでした。本来ならばその罪ゆえに石打ちなどにされる罪深い者を、愛と赦しをもって引き受けなさいと、ホセアに命じたのです。あえて罪深い者と結婚せよと命じる神様はとても不思議です。
ただ、預言者はしばしば、その人生、生活において主のお心を経験的(体験的)に現わすよう導かれる場合があるのです。姦淫の女と呼ばれるぐらいですから、性において奔放であったのでしょう。ホセアにとって、苦難の日々であったかも知れません。それは、何度も主を裏切り偶像に浮気するイスラエルの民の姿です。主がこの民を見捨てなかったように、ホセアよ、あなたもそのようにせよと命じられたのです。主の痛みを知る機会となります。
立派な正しい人に注がれる愛は、しばしば、「立派だから愛される資格がある」とも思われがちです。けれども、愛される資格がないと思われる者に注がれた愛を見る時、その愛の大きさがより明確になるのではないでしょうか。先日は、神学生が「ブラックな面(腹黒さ)」が自分のうちにあることを紹介してくださいました。ただ、私の理解では、彼はただ正直なのであって、私たち全員が間違いなくブラックな黒い部分を心のうちに持っているのですよね。私たちはそんなに「いい人」ではない。
そのような者たちに注がれた愛であることを覚えたいのです。ここでは、「わたしの民ではない者(ホセアの息子ロ・アンミ)」を、「わたしの民」と呼んでくださる主の愛が語られています。罪深い者を「生ける神の子」とさえ呼んでくださる。「愛されない者(娘ロ・ルハマ)」を「愛される者」としてくださるのです。※ホセアの子たちがイスラエルの象徴となっている
つまり、愛される資格など一片もないような者を、主は愛してくださるということ。これらは、パウロの人生とも重なりますよね。迫害していた者ですから、愛される資格も、救われる資格もないはずの者。しかし、彼はあわれみを受け、救われ、用いられたのです。
人の行いによりません。人の良い行いは、少しも自分の救いのために貢献できないのです。神の愛が表されるため、主は取るに足りない者を選ばれたのです。ヨブ記で、主がヨブに対して、このように語られた場面があります。
ヨブ記 41章11節 だれが、まずわたしに与えたというのか。わたしがそれに報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。
神様が愛や救いをもって報いなければならないほどに、人が何かを神様に与えることなど、到底できない、ありえないことなのです。 いかに、神様のあわれみが大きいことかと思わされます。
2.イスラエルへの忍耐と、異邦人への広がり
27-28節は、イザヤ書10章22-23節からの引用です。
27節にこうあります。
イザヤはイスラエルについてこう叫んでいます。
「たとえ、イスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる。
これは、イスラエルの人数が海辺の砂ほど多くても、「残りの者」と表現されるように、ほんのわずかに残っている者たちだけであるということです。これは、イザヤの嘆き、叫びであるとパウロは言います。それほどに、イスラエルは、神の民でありながら大きな反逆をしてしまったわけです。ただ、その「残りの者」の枠さえ、主は決して小さくせず、多くの者に開いてくださっていると言えます。実際、29節にあるように、彼らの罪の多さ、重さ、深刻さからしたら、ソドムとゴモラのようになるのが、当然の結末であったわけです。それにも関わらず、神様は筋が通らないほどの愛とあわれみをもって、子孫を残して、イスラエル人を滅ぼしませんでした。この新約の時代にも多く残され、そこから救われる者を尚待ち続けておられるのです。それは、ホセアが通らされたような理不尽な忍耐が要求されるような「愛」、その愛で主が絶えず私たちを愛しておられるということです。
こうして、「救い」については、人間が貢献する余地は一切ありません。ゆえに、30節にあるように、義を追い求めて来なかった異邦人たちでさえも、ただ、今福音を聴いて、そして、ただ信じるだけで「義」とされるのです。主の愛のゆえです。
30節 それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。
これはただ、神様の側の大きな犠牲のゆえ、その愛の大きさゆえです。
「罪人ごっこ」をしている限り、私たちは主の十字架の恵みを本当の意味で理解できない「クリスチャンごっこ」のまま、信仰生活を送ることができてしまうでしょう。
私たち誰もが「ブラックな部分を多く持つ者」であることを率直に受けとめ、圧倒的なほどの主の愛とあわれみ、十字架の犠牲を心から感謝しましょう。私たちも心探られます。愛しやすい人ではなく、愛しにくい人を愛して初めて、主の愛に一歩近づけたと言えるのです。私たちもまた、この愛を実践し、世に対しても表していきましょう。
私は来週から、難病の検査で入院します。難病が難病と言われる理由は、原因や治療法が確立されていないことにあります。ですから、治療薬が開発されるならば、難病を患う人にとっては、本当に良き知らせ「福音」となります。それが、「効くかも知れない」という曖昧なものではなく、確かに安全に投与できて回復するものならば、真に福音となるでしょう。しかしながら、これらの難病よりもずっと深刻な病が、「罪」というたましいを滅びに至らせる病です。しかし、私たちは、この滅びへの安全で完全な治療薬を持っているのです!それが、イエス・キリストの十字架。救いの知らせ=神の福音です。
これを知らせるために、私たちは召されています。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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