祭司の任職式について語られている。祭司の任職は時間をかけて、丁寧に行われている。その厳粛な式は、彼らに自覚を促し、聖別され、神に仕えることの尊さを覚えさせるのに十分であったと思われる。22節で、雄羊の頭に手を置いて罪の告白をしたのであろう。いつでも、献身者は神の前に自身の罪を告白し、身代わりの犠牲を前にして悔い改める必要があった。さらに、23節では、その血が「右の耳たぶ」、「右手の親指」、「右足の親指」に塗られた。右は、聖書ではより重要であることを示す。神の前にそれらを聖められる必要があった。耳は、神の御声を聴くために聖別するということであろう。指は祭司のなす、すべての奉仕について聖別されることであろう。また、足の指は、その「歩み」が聖別されることであろう。私たちはキリストの血潮によって、御声を聴く耳を、奉仕するその手を、そのすべての歩みを、贖われ、聖別された者として歩んでいきたいのだ!
2日 レビ記8章
33節 また、あなたがたの任職の期間が終了する日までの七日間は、会見の天幕の入り口から出てはならない。あなたがたを祭司職に任命するには七日を要するからである。
祭司の任職式が七日間に渡ってなされ、しかもその間中、一度も天幕の外に出て行ってはいけなかった。それは、祭司がいかなる世俗的なものからも完全に離れ、ひたすら主の前に整えられるためであった。そして、毎日同じように、教えられたとおりのことを繰り返す必要があったのだ。それはなぜだろうか。35節では、「死ぬことがないように」するためであると語られている。そこに、祭司の務めの厳粛さを思わされる。神のすぐ目の前で奉仕する祭司が、「神を侮る」ということは、民全体をそのような道に誘う危険があったのである。祭司に求められることは、大胆さや自分の主張ではない。また、貫禄や経験値でもない。主のおことば通りに繰り返し行う忠実さであった。私には何もないと思うならば、忠実さを大事にしたらいい。それは、多才であることよりも、主に喜ばれることである。
3日 レビ記9章
八日目、祭司の任職式が終わると、モーセはアロンたち祭司に、罪のきよめのささげ物をするように命じた(1-2)。また、全焼のささげ物(2)や交わりのいけにえ(4)を献げるよう語った。それは自分勝手な方法ではなく、主の命じたとおりにすることが求められた。人間は勝手な方法で神をあがめようとする。供え物をしたり、自分たちが納得しやすい方法でなされる。だが、ふさわしい方法もまた、神がご存じで、定めておられることだ。
4節では「今日、主があなたがたに現れるからである」と語られている。5節によれば、全会衆は近づいて来て、「主の前に立った」とある。大切なことは、主が現れてくださること、また、人々が主の前に立つことができることである。それは、やがて新約におけるキリストの十字架の犠牲が、神の御座への道を開き、神の前に大胆に立つことへとつながる。主の前に立ち、主の臨在の中に生かされることほど幸いなことはない!4日 レビ記9章
キリスト者にとっての一番の喜びは、神の臨在そのものである。神がいつも我らとともにあること。それが私たちの幸いである。アロンはささげ物を主のおことばどおりにした後、民に向かって両手を上げ、彼らを祝福した(22)。23節によると、主の栄光が民全体に現れた。そして、火が主の前から出て、祭壇のささげ物を焼き尽くした(24)。それは、主である神が彼らのささげ物を受け入れられた証拠であった!それゆえに、24節最後にあるように、民はこれを見て喜び叫び、また、ひれ伏した(24)。どんなに良い教会堂を持とうと、どれだけ多くの人が集まろうと、神がその群れの中におられないなら、なんとむなしいことだろうか・・・。神を喜ぶことこそ、私たちの力の源であある。そして、彼らが「ひれ伏した」とあるように、この神の前にへりくだり、ひれ伏し、心から礼拝する者でありたい。
5日 レビ記10章
ここでは祭司として任職したアロンの子、ナダブとアビフは、大きな過ちを犯して絶命してしまう。1節にあるように、「主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に献げた」とあるが、これが大きな要因だ。2節にあるように、火が主の前から出て来て、彼らを焼き尽くしてしまったのだ。3節でモーセが主からのことばを告げている。「わたしは近くにある者によって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けてわたしは自分の栄光を現す。」と。これまで、主が「命じたとおりに」なされることが重要であることが繰り返し語られてきた。主への忠実さが求められていた。これを聞いたアロンは「黙っていた」とある。自分の子を失った悲しみは想像を絶するものだろう。だが、反論をしないのは彼が祭司であるからだ。主のなさることを祭司自らが否定してはならなかった。受けとめがたい試練もある。病やその他で早くに召されることもある。だが、主の最善を信じて歩むことを、いつでも大切にしていきたい。そして、主はあわれみ深い方であることも後にわかってくる。
6日 レビ記10章
アロンの二人の子ナダブとアビフは異なった火をささげて絶命した。そのすぐ後、6節で、モーセはアロンの残りの子エルアザルとイタマルに言った。「あなたがたは髪の毛を乱してはならない。また衣を引き裂いてはならない。」と。これらは、当時の悲しみや嘆きを表現する方法だ。つまり、モーセは自分の兄弟を失った彼らに、「悲しみ嘆いてはならない」と命じたのだ。それは、とても厳しい命令にも見える。だが、6節続きで「あなたがたが死ぬことのないように、また御怒りが全会衆に下らないようにするため」であったことが語られている。さらに、その続きによれば、彼ら祭司以外の者たち、全家族たちは、絶命した彼らのために「泣き悲しまなければならない」とモーセは言った。祭司たちは神のわざに逆らって、嘆いてはならないが、その代わりに他の親族や仲間は泣き悲しんだ。祭司の働きの重さと尊さを教えられる。牧師や宣教師には共通する部分もあるはずだ。牧会者はどんな時でも主の側に立つ必要がある・・・。彼らのためにぜひ祈って欲しいと改めて思わされる。
7日 レビ記10章
10節 こうしてあなたがたは、聖なるものと俗なるもの、また汚れたものときよいものとを分け・・・すべての掟を、彼らに教えるのである。 「聖」と「俗」とを分けることが、祭司たちの一つの務めとされていた。それはことばだけで教えることではなく、彼らの働き全体を通して、まさに人生を献げての奉仕を通してであった。その中には、会見の天幕に入る際に、ぶどう酒や強い酒を飲んではならないことも教えられていた(9)。酒に満たされることが「俗」なることに位置するということであろう。しばしば、酒びたりの聖職者などを指して「生臭坊主」と言われるが、民の目にそのように見えてしまうことも確かだろう。少なくとも、酔っ払っている聖職者を見て、尊敬の念が生まれることはないし、そこから神の聖さを想像することは極めて難しいだろう。様々な自由があるとしても、人のつまずきになったり、神への敬意が失われるような態度は、牧師でも信者でも、考える必要があるだろう。私たちの生活は、神の聖を現しているだろうか?
8日 レビ記10章
アロンの二人の息子が死に、深い悲しみの中にあったが、祭司は悲しみを表してはならなかった。むしろ、主が命じられたとおりに忠実に行うことが求められた。ところが、モーセがきよめのささげ物を捜したが見つからなかった(16)。それは、聖なる所でアロンたちが食べなければならなかったもの(17)。だから、モーセは怒った!!再び、主の教えに背いて、主に怒りを引き起こしては大変だと思ったからだ。だが、アロンは19節で、こう答えた「今日、私が罪のきよめのささげ物を食べていたら、そのことは主の目に良しとされただろうか。」と。二人の息子が神のさばきによって滅ぼされた今日、心が伴わない中で、かたちばかり命じられたとおりにすることが、果たして主の目に「良し」とされるのかとの問いだ。特に、食べ物が喉を通らないほどの悲しみがあった。偽りの姿で、形式的に従ったところで、主は心をご覧になる。アロンは主の前に正直でいたのだ。20節で、モーセはこれを聞いて、「それでよい」としている。杓子定規に形式的に従うことがすべてではない。神の前に誠実に、正直な心でいることは、もっと大切なことなのではないだろうか?
9日 レビ記11章
この章は、食べて良い生き物と食べてはならない生き物のリストだ。ただし、当時のイスラエル人のための教えであって、現代の私たちにそのまま適用するものではない。陸の動物では、ひづめが分かれ反芻するものは、例外を除いて食べて良かった(3-8)。水中生物も、ひれと鱗があるもの、つまりおおむね魚類は食べて良かった(9-12)。13-19節は鳥類、20-23節は昆虫類の区別であった。これらの教えは、ともすると「面倒な戒律」に見えるだろうか。だが、戒律ではなく、民の生命を守るため、イスラエルの存続のために重要な役割を果たしている!これを通して神の民はきよさと汚れを教えられ、また衛生的に健康が保たれた。冷蔵庫もなく、菌やウィルスの知識も十分ではない時代だ。この教えがあることで、様々な感染症、伝染病などから守られたのだ。コロナウイルスは「こうもり」や「らくだ」の中にいたとされる。どちらも、このリストによれば、食べてはならない動物なのだ!イスラエルの民はどの民より長寿であった。それは、神の教えのおかげである。表面的に見て「面倒だ」で終わらず、そこにある神の愛を発見していく者でありたい。
10日 レビ記11章
人間の好奇心は尽きることがない。神の教えよりも、好奇心がまさり、何でも触れてみたり、様々な実験を行うこともある。だが、特に死骸に触れることは、様々な危険をはらむ。腐敗していれば尚更である。ゆえに、24節にあるように、死骸に触れる者は夕方まで汚れると語られている。また、死骸を運ぶ場合は、25、28節にあるように衣服も洗うことが教えられいていた。衣服に付着したものに互いに触れることで、様々な危険が広がることを防ぐ意味が確かにあったことだろう。また、土の器の中に落ちた場合は、その器を砕かなければならないとも教えられていた(33)。現在のような洗剤もなく、コーティング技術もなければ、土の中に染み込んだ毒物を洗浄する技術もなかったのであろう。神は聖さを教えつつも、物質的な汚れが人に及ぼす危険を示し、神に従うゆえに守られるいのちであることを、示しておられたのだ。
11日 レビ記12章
2節 女が身重になり、男の子を産んだとき、その女は七日の間汚れ、月のさわりの不浄の期間と同じように汚れる。 ここで語られている「汚れ」というのは、罪深いことを指してはいない。むしろ衛生的に聖潔にすべきということであっただろう。4節では、「彼女は血のきよめのために、さらに三十三日間こもる」とあり、また、「聖なるものにも触れてはならない」とも教えられている。これらは、少なくとも産後女性の健康やプライバシーを守る意義があったと考えられる。真面目な人ほど、早く復帰しなければならないと考える。周囲も元気になったのだから、すぐ働けと要求するかも知れない。だが、産後に無理をするならば、後々までダメージがあることは、現代では広く知られている。聖書は旧約の時代から、産後の女性が守られるよう、こうした教えが既にあったと考えると意義深い。神からの命令ならば、誰もが従うべきであるからだ。優しい神に今日も感謝したい!
12日 レビ記13章
ここでは、皮膚に現れた腫れ物やかさぶた、斑点など、特に感染する可能性のあるものかどうかを見分ける働きを、主が、祭司アロンやその子らに命じられていたことがわかる。祭司の仕事の広範さがうかがえる。また、その見分け方まで教えられている。なお、現在の新改訳聖書は、2節にあるように「ツァラアト」というヘブル語の音そのもので表記している。それは、この病が、現在のどの病と同じであると言い切れないからであろう。47節には衣服にもツァラアトが広がると分かる。しかも、続く読んで行くと羊毛でも、亜麻布でも、皮製品でも・・・と。かつては「らい病」と訳され、ハンセン病と同じだと考える人々もいたが、やはり異なるものとの理解が妥当だ。これらは感染が広がる病ゆえに、隔離され、きよめの処置がなされ、慎重に対処された。ただ、治療が難しいものであったが、主イエスが癒し、きよめられたことは驚きだ。神には癒せない病はないのだ。人は必ず死ぬ者であり、この肉体は不完全だが、主のみわざに期待する心はいつも持ち続けていよう!
13日 レビ記13章
46節 その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。 ここで語られる「汚れている」とは、罪と関連付けてのことではない。別にこの人個人の罪のせいではないのだ。あくまでも病に感染し、他の人に感染させる状態を指して「汚れている」と表現し、またそれゆえに隔離が必要であった。こうした病の深刻さは何よりも「孤独」である。ここにあるように「ひとりで住む」のであり、「宿営の外」が彼の住まいとなってしまうからだ。仕方がないことであり、適切なことなのだが、その孤独は時に病以上に私たちを弱らせる。それゆえ、私たちは可能な方法を用いて、あるいは回復後は恐れずに交わり、励ますことが大切である。孤独が人の心を殺し、そのまま肉体の死にまでつながらないようにするために!愛が必要である!
14日 レビ記14章
ここでは、ツァラアトにおかされた者が「きよめられるときのおしえ」(1)について語られている。彼らは祭司のところに連れて来られ、祭司が治っているかどうかを判断し(3)、きよめの儀式を行っていく。 7節 それを、ツァラアトからきよめられる者の上に七度かけ、彼をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放つ。 この祭司による「きよい」という宣言と、様々な式いおいて、公に人々にきよめが表されることが必要であった。これは考えてみれば当然のことで、社会復帰をする際に、本人がただ治ったと言っても説得力がなく、また、それが周知されなければいつまでも復帰が難しいのだ。それゆえに、権威をある者が宣言し、式を執り行うことは重要だ。昨今のネット社会では、断罪して叩く時は無責任にそうしているが、事実無根であった場合に叩いた全員が謝罪することはあり得ないし、無罪の宣言が十分になされていない。しくじりがあっても悔い改め、この人は悔い改めたのだ!としっかりと社会に復帰できる世界であってほしい。
15日 レビ記14章
33節以降は、カナンの地に在住した時に、住む家にツァラアトが発生した場合について語られている。これは放置してはならなかった。家の壁にも発生することから、ハンセン病とは異なるものであろう。それはカビや菌の一種でではないかと考えられる。それらは7日間、様子を見た後(38-39)、該当箇所は取り除かれ(40)、家の内側のすべての面をそり落とさせる(41)。そして、これらを新しい物と交換していくのだ。これらはもちろん、イスラエルの民がカビや菌などによって健康を害することから守られることであった。だが、それだけでなく、神が清潔なきよい場所に住むよう人に教えておられる証拠でもある。私たちは心においても、住まいにおいてもきよく保つ時、心地よく平安に歩めるものである。あなたの心の住まい、実際の住まいはどうだろうか?家も清潔でなければ、様々な病の原因となる。ぜひ、心も環境も主の助けをいただいて、きれいに保っていこう!
16日 レビ記15章
2節「だれでも、隠しどころから漏出があったなら、その漏出物は汚れている。」とある。おそらく性病の一種であろう。ただ、6-7節、9-10節などを見ると、その者が座ったところ、触れたところも汚れるとある。これらは伝染するものであったようで、その伝染を避ける意図がここにはあったのであろう。それにしても聖書は、こうしたことを赤裸々に語る。人が隠したがる部分であるが、坦々と語り、隠すことによるデメリットを最小限にしていると言えるかも知れない。特に他の人にうつるものである場合、これはとても重要なことであろう。こうして聖書はいつでも「きれいごと」の羅列でないことがわかる。人類最初の殺人は兄弟殺しであったし、アブラハムの奥さんを守らないウソにガッカリし、アロンと金の子牛事件やダビデの罪、そしてここにあるような赤裸々な問題まで。「聖書」と書くから誤解を受けがちだが、聖なる方は神ただおひとりである!すべての人間が汚れ切った罪人である現実を、私たちは謙虚に受け止めよう。
17日 レビ記16章
この16章では、1年に1度の「贖(あがな)いの日(大贖罪の日)」について語られているが、2節にこうある。「垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。」 旧約時代の祭儀においては、祭司たちは神の命じたとおりにすることが何よりも求められた。礼拝の大切さ、厳粛さを教える意味でも、神は人の身勝手な礼拝を喜ばれないことを明確にするためである。ゆえに「時をわきまえずに」入ることは許されなかった。10章では、祭司アロンの二人の息子が、神が命じなかった火をささげて絶命してしまった。ゆえに、神は「死ぬことがないように」とこうして明示されている。特に、この贖いの日は、一年の民の罪すべてのための贖いであるため、より重要な厳粛なものであった。これらの厳粛なわざのすべてが、キリストただおひとりに集約されているのであるから、キリストの犠牲はなんと厳粛で尊いことだろうか!改めてキリストの十字架の大きさに感謝したい。
18日 レビ記16章
7節 雄やぎ二匹を取り、それを主の前、会見の天幕の入り口に立たせ、8節 雄やぎ二匹のためにアロンがくじを引く。一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。
雄やぎ二匹を用意し、そのうち一匹は、「罪のきよめのささげ物」として主にささげ、もう一匹は荒野に放つというものである。荒野に放つ方は、「アザゼルのやぎ」と呼ばれるもので、「スケープゴート」の起源ではないかと推測する。10節で、「荒野のアザゼルもとへ追いやるためである」とある。アザゼルとは荒野に住む悪魔を指しているとの解釈があり、新改訳2017年版は、そちらの理解に立った訳に思われる。私たちの罪をこのやぎに代わりに負わせ、悪魔の住処なる荒野へと追い出すのである。私たちは普段、罪がまとわりつくように、身近に生活してしまっている。だが、アザゼルのやぎのように、キリストの十字架と御霊のきよめによって、はるか遠くに追放して歩みたい。
19日 レビ記16章
罪は見逃されるのではなく犠牲をもって赦しを得る必要があった。神は正しいお方なので、罪を見逃すのではなく、代理の犠牲によって正しくさばかれる。アザゼルのやぎには、その意味があったと言える。そのため、21節で、「アロンは生きている雄やぎの頭に両手を置き、それの上で、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわちすべての罪を告白する。」と語られている。雄やぎが民のすべての罪の身代わりとされたのだ。「すべての咎」「すべての背き」という2つのことばを繰り返した上で、「すなわちすべての罪」と語られる。こうして、一つの罪も漏れることなく全部!と強調しているのだ。そして、新約において、全人類の「スケープゴート」とされたのがイエス・キリストだ。人々の罪のすべてを引き受けられ、主キリストが身代わりに十字架でさばかれたのだ。キリストのあまりにも尊く、大きな犠牲に心から感謝して歩みたい。
20日 レビ記17章
神との交わりのために、人々は家畜を主にささげるということがあった。しかし、まことの神以外の存在に、「牛や羊をほふってささげる」という行為が実際には行われることがあったようだ。それは、7節にあるが、「彼らが慕って淫行をしていた雄やぎの偶像に、もういけにえを献げなくするためである」と、語られているとおりである。彼らは自分の快楽のために、その快楽を正当化するような教えや偶像礼拝をしていたことがわかる。
主は私たちを守ろうとし、ご自身以外に「ささげる」ということに注意喚起をなさっているのだ。4節ではこうある。「主の幕屋の前で主へのささげ物として献げようと、会見の天幕の入り口に持って来ることがなかったなら、血の責任はその人に帰せられる。」と。それは、動物のささげ物と一言で言っても、彼らは全く別の偶像の神に持って行くということが大いにあったからである。私たちもまた、神以外の人、物、価値観に、自分の心をささげてしまっていないだろうか。弱い私たちは、すぐに何かに心をささげ、またその虜となってしまうことがある・・・。主だけを礼拝しよう。
21日 レビ記17章
10節では、寄留者であろうとイスラエルに属する者たちは血を食べてはならないと教えられている。それは、「肉のいのちは血の中にある」(11)からであり、「いのちとして宥(なだ)めを行うのは血ある」(11)からだ。さらに14節でも繰り返され、「すべての肉のいのちは、その血がいのちそのものである」と語られている。一人の人の血管の長さは、毛細血管まで含めれば10万km(地球2周半)という驚異的な長さ。そして、人間の肉体を考えると、血液が失われれば生命の危険につながり、血液の健康状態こそは人の健康そのものであると言ってもよい。それほどに、血液は重要であり、血が体中に流れていることは、人が生きている証しでもあろう。同時に動物をなまのまま、血があるままで食べることは、胃腸がやられるだけでなく、様々な感染性の病をもたらす。神は血を尊ぶことを教え、様々な病から守り、同時に、キリストの血潮によるいのちの贖いへの備えとしてくださったのだ。
22日 レビ記18章
3節 あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない。彼らの掟に従って歩んではならない。 イスラエル人がかつて滞在したエジプトの罪深い風習をまねてはならないと語られている。また、導き入れようとしているカナンの地の罪深い風習もまねてはならないと未来についても警告されている。では、神がこれらの罪深い風習をまねないように命じるのは、何のためだろうか。そこには一見魅力的に見える何かがあるかも知れない。しかし、その先に滅びがあるからだ。5節によれば、わたしの掟とわたしの定めを守るならば、それらによって「生きる」と教えられている。つまり、神は人に生きて欲しいのだ。人が人らしく、幸せに途中で命を失わず、喜びのうちに生きて欲しいのだ!そこにある神の愛をしっかり受け取ることが、戒律主義、律法主義に陥らない道である。
23日 レビ記18章
6節以降で語られていることは、「近親相姦」の禁止である。現代ではそれは当たり前であるけれども、古代エジプトでは近親婚が容認されていたり、あるいは勧められたりすることもあった。だが、遺伝的な問題がそこにはあり、近親者であるほどに障害が出る確率や致死率が高くなる。当時の社会ではそんな研究成果すらないため神の教えは非常に重要であった。イスラエルは神の教えに守られて、その人口を増加させることができ、非常に豊かに繁栄したのである。それだけでなく、力の上下関係の中で起こる性的暴力から守られるためにも、神は、こうした性を大切にする教えを明確にしておられた。こうした神の定めと掟があることで、安全な出産も多く、疫病などからも守られ、防犯効果もあって平安な歩みを与えられたと言える。これらは、現代の道徳の基になっており、神からの良き教えが人の幸いにつながっているのだ!神の教えに生きることを、今日も大切にしていこう!
24日 レビ記18章
21節では「モレクという異教の神に人間をいけにえにする」という恐ろしい習慣をまねてはならないとある。21節 また、自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない。あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。 これは、イスラエル人が入っていくカナンの地土着の風習として実際に存在したものであった。本当に恐ろしく、忌まわしい習慣だ。火の中に小さな子どもを生きたままくぐらせ、いけにえにするものであった。人はしばしば、呪い、たたり、まじない等と関連させて、恐ろしい習慣、不道徳な習慣さえ正当化する。しかも、「みんながしているから」、「昔からしているから」という理由が、なぜか説得力を持ってしまう・・・。私たちもつい、そういう理由で、神のみこころではないことに流れてしまうことがあるのではないか。「みんながしているなら」、悪いことでさえしていいのか?もちろん、神が罪だとおっしゃるものは、すべての人がしているものであってさえ、やはり罪なのである。
25日 レビ記19章
ここでは、神が聖であるように、あなたがたも聖でなければならないと語られる(2)。これはレビ記の基本的な考え方である。聖なる神に造られ、聖なる神にかたどって造られた者として、その姿にならうことが求められている。ただ、興味深いことに、すぐあとの3節では「自分の母と父を恐れなければならない」と語られる。「聖」について語られる最初に、両親を恐れるようにとの教えが来ていることは興味深い。父母を大切にすることが、神を大切にすることにつながり、また「聖さ」と関係があるのだから。これに続いて、安息日順守、偶像礼拝禁止の教えが続く(3-4)。5節で、交わりのいけにえについては、自分が受け入れられるように」献げよと語られる。それは二日以内に食べなければならず(6)、三日目には不浄なものとなる(7)。その行為は「神の聖なるものを冒した」ことになると言う(8)。人の考える「聖さ」と神の教える「聖さ」には少なからず隔たりがある。私たちは自己満足の「聖さ」ではなく、神のおっしゃる「聖さ」を求め続けていこう!
26日 レビ記19章
9節で「自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。」と語られている。ミレーの描いた「落穂拾い」の起源だ。なぜに収穫時に隅々まで刈り尽くし、散らばった穂を拾い集めてはいけないと神様は言われたのか。10節によれば「それらを貧しい人と寄留者のために」残しておくためであった。申命記24章でも、収穫の束の1つを忘れてきたら、あえて取りに戻るなと教えられている。孤児や未亡人、在留外国人などの弱い人、貧しい人のために残しておいたのだ。そこに弱い者に対する愛の配慮があると言える。そして、この姿勢こそが主が喜ばれる「聖さ」の一つであった。人の考える聖さは、罪深い者や汚れた服装の貧しい者から離れていく方向になりそうだ。だが、神の聖さは、弱い者に対して愛をもって寄り添っていくものだ。なんと美しく、やさしい聖さであることか!
27日 レビ記19章
16節 あなたは、民の中で人を中傷して回り、隣人のいのちを危険にさらすことがあってはならない。わたしは主である。 民の中で人を中傷して回って、「隣人のいのちを危険にさらす」ことはがあってはならないと語られている。その行為が、隣人を追い込むからである。これは現代のネット社会で顕著だ。不特定多数の大勢に叩かれて、追い詰められ自害する人もいる。人間は社会の中でこそ生きられる存在。ゆえに、社会から捨てられ追い詰められるような事が起こると、本当に行き場を失ってしまう。たとえ、その人が罪を犯し悪いことをしたとしても、逃げ場がないほどに追い詰めてはならないのではないだろうか。「逃げ道」「やり直しの道」を残しておくべきだということだ。すべてをさばかれるのは、神だけなのだから。そして、神のみこころは、人を滅ぼすことではなく悔い改め、主の救いの恵みに立ち帰らせることであるのだから。私たちも隣人に対して、あわれみの心を失ってはならない。
28日 レビ記19章
26節では「何でも血が付いたままで食べてはならない」とある。ここでは、まじないや占いと関係している行為だと考えられる。当時は動物の臓器占いというものがあったし、31節でもこう語られているからだ。31節 あなたがたは霊媒や口寄せを頼りにしてはならない。彼らに尋ね、彼らによって汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。
霊媒・口寄せはイスラエルの初代の王サウルが、不安と恐れの中で手を出してしまった方法である。それは、悪霊の力を借りて道を尋ねる方法である。しかし、「彼らによって汚されてはならない」とあるように、これらは悪しき霊の汚れに触れることである。悪魔やそのしもべに道を求めて、果たして真実な良い道を歩めるだろうか?そんなはずはない。人は不安ゆえに、占いや風水、迷信にさえ惑わされる。だが、私たちの道を確かなものとするのは、主なる神であることを私たちは固く信じていこう。
29日 レビ記20章
ここでは、性の乱れ、姦淫の罪についての教えがある。1-5節は、18章でも触れたモレクという異教の神と姦淫の罪との関連性に触れ、決してそれをしてはならないと教えている。非常に残酷かつ不道徳で、子どもを焼いてささげるという恐ろしい風習を持つものだ。快楽の追求と残虐性が一つになっている。それゆえ、5節で「わたし自身が・・・モレクを慕って淫行を行う淫らな者をみな、その民の間から断ち切る」と主は厳しく言われる。6節からは霊媒、口寄せと淫行の問題が語られ、10節以降も近親相姦や獣と関係を持つことなども含め、様々な性的な罪について語られている。本当に、人間の狂気は底を知らない。だからこそ、主である神は、「あなたがた自身の身を聖別し、聖なる者」となるよう語っておられる(7)。底なしの人の欲の行きつく先は闇と滅び、不安、恐れ、悲しみ。主が導かれる聖なる道は、光といのち、真の喜び、平安、永遠の愛である。
30日 レビ記21章
21章の後半も、性的な不道徳についての教えが具体的に語られている。その際、20節にあるように、「おばと関係したのなら、おじの裸をあらわにしたのである」とある。相手はおばなのだが、おじを裸にしたのと同じだと言われる。単に、関係を持ったその相手との姦淫の罪で終わらず、その伴侶である者を侮辱し、その伴侶に対しても罪を犯したという理解であろう。傷つく相手を想像させる教えであるとも言えるだろう。私たちも誰かを傷つける時、その人にも家族や友人がいることを忘れてはならない。その両親、その兄弟、その親戚、その友人たちをも悲しませ、傷つけてしまうことになるのである。何よりも、すべての人を造り、愛しておられる主である神を悲しませ、傷つけることになるのだ。私たちは目の前のその人が、神が愛しておられる尊い一人であることを、いつも忘れてはいけない。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会