東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第三ヨハネ9-12節「悪に流されないで、神の善に生きる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/08/19

第三ヨハネ9-12節「悪に流されないで、神の善に生きる」

*** 8/18(日)主日礼拝 説教概略 ***

 すべき正しいことができず、すべきでないことをして後悔してしまう。 それが人間の弱さであり、罪の性質であると聖書は言います。特に私たちは流されやすいものです。同調圧力に屈してしまったり、「NO」と言う勇気がなったりする。ただ、私たちの心は、本当に願っていることと違うことをし続けると、つまり、自分の心にウソをつき続けると、心が深く傷つくのです。


 それは心を殺す行為なのだと言う人もいます。本音を隠して生き続ける人は、認知症になりやすいという分析をする心理学者もいます。やはり、私たちの心はとても繊細で大切なのです。

 キリスト教会は、本当の思いを分かち合える場でありたいと思います。それを決してバカにしたり、さばいたりしない場でありたいのです。神様はすべてご存じの上で、私たちを愛してくださるのですから。神様の前にまっすぐに立ちたいのです。悪いことに仕方なく従うのではなく、神様の前に善いとされることを、心から大切にしていく道を一緒に選び取っていきましょう。

9  私は教会に少しばかり書き送りましたが、彼らの中でかしらになりたがっているディオテレペスが、私たちを受け入れません。 

 この手紙の受取人であるガイオのように、宣教師たちを無償で受け入れ、様々な面で支える者がいました。一方で、教会の中に、こうした働きを否定し、妨げる人物もいました。ここに登場している「ディオテレペス」という人物です。

 彼は一番という地位が好きな野心家でした。ちょっと覚えにくく、後でもう一人「デ」で始まる人が登場しますので、この人をここでは、野心家ディオとでも呼びましょうか。彼は使徒ヨハネを敵対視していました。そこで、「少しばかり書き送った」とあるように、ヨハネは彼の問題について教会に手紙を送ったのでしょう。しかし、野心家ディオことディオテレペスは、使徒たちの教えに従いませんでした。また、他の人が従うことも妨げたのでしょう。

 彼の本質について、ここでは「かしらになりたがっている」と説明されています。実は原語では一つの単語です(フィロプローテウオー)が、二つのことばを合成したことばです。「友人」を意味するフィロスと、「一番」「最も大切」という意味のプロートスをくっつけたことばです。友人や仲間の中で、「自分が一番でありたい」という野心と自己愛に満ちていたということでしょう。ですから、既にここに、ディオテレペスの罪深い心が表されているようです。彼は神様や隣人を愛するのではなく、自分を一番愛しており、自分の思い通りに周囲の人々を動かしたいという思いに囚われていたのです。

 しかし、それでは周囲の人は傷ついていきます。しかもそれを諌める者がいなくなったのなら事態は深刻です。これは、いつの時代でも起こり得ることです。彼を非難することは簡単ですが、私たち自身も問われます。「自分を見て!」という自己愛や承認欲求の奴隷となってはいないでしょうか。残念ながら人にそれを求めても、人は24時間365日対応できるわけではないのです。渇いているその心を完全に満たせる方は、私たちの造り主なる神様だけなのですよね。

10節では、より具体的な内容があります。

10  ですから、私が行ったなら、彼のしている行為を指摘するつもりです。彼は意地悪なことばで私たちをののしっています。それでも満足せず、兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。 

 問題はかなり深刻です。彼は意地悪なことばで使徒ヨハネたちをののしっていたのです。さらに、宣教のために犠牲を厭わず働く者たちを受け入れず、宣教師を支援する人々を邪魔していたのです。マシュー・ヘンリーという聖書学者は、こう言います。「自分自身が善を行わないのは悪いことだが、善を行う人々を妨げるのはもっと悪いことだ。」と。本当にそうですよね。妬みや嫉妬から、良い働きをし、人気のある人を見ると攻撃してしまうことがある。自分が反対するだけでなく、自分と一緒に反対するよう引き込んでしまう。この野心家ディオは、悪いことに、ヨハネたちに従う者たちを教会から追い出してしまってさえいたのです。

 ただ、そうなると周囲も攻撃されるのを恐れて、見て見ぬふりをし始めることでしょう。それでヨハネはガイオに対して、「愛する者よ」との呼びかけを繰り返しながら励まし、また愛の警告をしていることがわかります。 

11  愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことがない者です。 

悪を見習わないで、善を見習いなさい」と語られます。注意が必要ですが、「悪を見習わないで」の部分、原語では現在形の禁止命令が使われています。その場合、今、すでにしていることを中止するという意味があります。これから起こる可能性への警告ではないのです。ですから、ガイオもまたディオテレペスを恐れ、彼に流されていた可能性があることになります。もともとガイオは、派遣される宣教者たちを受け入れ、お世話をしてきた。しかし、このディオテレペスから攻撃されて、弱気になってしまったのかも知れません。ガイオはとても優しい人であって、その優しさは、ある意味では流されやすい弱さでもあったのかも知れませんね。

私たちも気の弱さから、流されて悪い行いに倣う誘惑があるように思います。もちろん、誰もが悪い人に流されてはいけないと、頭ではわかっているのです。しかし、反対しにくい雰囲気が作られてしまうと、流され、抵抗もしないということが、しばしばあるのではないでしょうか。私たちは、きちんと「それは違う」と言えるでしょうか。私も人を恐れ、正しい良いことが出来ずに後悔し、自分に言い訳をしたことが幾度もありました。肯定はしなかった。一緒に参加はしなかった。でも、注意もしなかったのです。それは「愛」でしょうか。

悪い道について「それは良くない」と言えない理由は、自分が傷つきたくないからかも知れません。ただ、それもまたある種の「自己愛」なのではないでしょうか。しかし、イエス様は言われました。あなたがたは、「地の塩、世の光」ですと。塩は塩気を失ってはならないし、光は光を隠してはならないと。ここに「善を行う者は神から出た者」とあるように、私たちはイエス様を信じて、神によって新しく生まれた者です。この時代、この社会に神様によって召し出され、良いことや愛や真実を世界に証しする「地の塩、世の光」とされていることを大切にしたいのです。このような中、ガイオさえ流されているという知らせが、ヨハネの耳に入っていたのかも知れません。ただ、ヨハネは彼を批判するのではなく、励まそうとこの手紙を書いたのでしょう。ヨハネはどんな時でも愛をもって教え諭しています。この流れがわかると、12節に突如登場する新しい人物、デメテリオについてヨハネが書いた意図もわかってきます。

12  デメテリオについては、すべての人たちが、また真理そのものが証ししています。私たちも証しします。私たちの証しが真実であることは、あなたも知っています。

 野心家ディオによって、この宣教者デメテリオは追い出された可能性があります。だからこそヨハネは、デメテリオについて書いているのです。彼がいかにすばらしい人材であるか。すべての人が彼のことを証ししており、ヨハネたちも同様であると念を押します。さらに「真理そのものが証ししています」という独特な表現もあります。 それは、彼の生き様そのものが、みことばの真理を体現しており、その彼の生き方が証しとなっていたということでしょう。すばらしいですよね。ことばだけでなく、人生そのものが真理となっている。ただ、そんな素晴らしい人物が、自己愛に満ちたディオテレペスによって否定され、追い出されたとするならば・・・。それは、クリスチャンの共同体として、キリスト教会として、なんと残念なことでしょうか!!

 しかし、この世の権力に身をゆだねる時、教会ですら世俗化し、こうなるのです。

悪い方に流されるのは簡単です。人の顔色を恐れ、黙っていればそうなるのですから。しかし、神様の求める真実な道、正しい愛の道を歩み続けるのには、決心が必要です。正しいことを行うためには、犠牲が必要となるからです。でも、それがあって初めて、良いものがそこに生まれるのです。私たちは、その愛と正義の十字架の犠牲よって、救われた者ではないでしょうか。良いことをする者として造られた神の作品であるとエペソ書にあります。

12節で、著者ヨハネは「あなたも知っています」とガイオに向かって語ります。ここは完了形で書かれており、この手紙を受ける前から、ガイオ自身もこのデメテリオの信仰、人となりを知っていて、肯定的に受け入れるべきであることは、分かっていたのでしょう。それがわかっていても、なお、意地悪ディオを恐れて流されてしまった。そういうことが、この教会で起こっていた。そういうことではないでしょうか。「しかし、あなたは真実を知っているはずだ、良いことは何かを知っているはずだ。そうでしょう!」と、ヨハネはガイオの信仰とその良心に訴えかけるのです。それは、神様が私たち自身に語りかけていることばではないでしょうか。

あなたもなすべき正しいことは、本当は分かっているでしょう?なぜ、しないのですか?と。私たちは自分を欺いてはいけません自分を欺けば、自分の心を殺していくことになります

かつて、宇宙飛行士として月面に着陸した人々の多くは、広大な宇宙に出て人間を超えた大きな存在を感じたと言います。写真で見るのとは全く違う、圧倒的な宇宙の広さと美しさ。そこに神を感じて、価値観が変わったと語る宇宙飛行士たちが多くいたのです。アポロ15号で月に着陸したジム・アーウィンもその一人です。彼は「神の臨在」を実感したと語ります。姿を見たわけでもなく、声を聞いたわけでもない!しかし、確かにおられると感じたのです。アーウィンはその後、宣教師となって神の存在を伝えていきました。しかし、ソ連の宇宙飛行士ガガーリンは、「地球は青かった」との名言を残した一方で、本音を話すことが許されませんでした。「神はいなかった」と話したとされていますが、事実とは異なるようです。後にガガーリンの親友が書いた著作では、当時、宗教を否定していたソ連のレーニン主義者からの圧力があって、言わされたと書かれています。(もっとも、ロシア正教の偉い司教からは「神を見たか?」と問われ、「神は見ていない」と正直に答えたところ、「神を見なかったなどという事は黙っておくように」との指導もあったとも書かれています。ただし、神はそもそも見えないお方なので、見なかったと答えるのは当たり前でしょう。しかし、何か大きなものを「感じた」というのが、ガガーリンの本音だったのではないかと推測します。)いずれによせ、ガガーリンは本音を発することが許されず、ただ権力に黙って従わされ、様々な国の宣伝道具として利用され、やがて酒に依存し、精神が病んでいきました

 

ガイオは優しい人、すばらしい働きをしてきましたが、流されたのでしょう。優しい、すばらしい働きには倣うべきです。しかし、流されて悪い者に巻かれた部分に倣ってはいけません。

本当は正しいと思う事。本当は良いと思う事。本当はこうすべきだと分かっていること。人はそれをごまかして生きる時、自分の心を傷つけていくのです。私たちの心を殺していくことになるのです。それは主が悲しまれることです。主がくださった良い心を傷つけてはなりません。すばらしい尊い宝物なのですから。

イエス様は「真理はあなたがたを自由にする」と言われました。

ですから、神様の真理のことばを握りしめて歩みましょう。そして、私たちの心が正しい、良いと思うことをまっすぐにさせていただけるよう祈り求めていきましょう。
 

引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 

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