*** 8/14(水)祈祷会 説教概略 ***
陶器作りをする際、粘土は時間が経つほどに、また乾燥するほどに硬くなっていくそうです。その粘土をやわらかくする方法として、水分を含ませるほか、平らたくして、そこにヘラで網目状に無数の切れ込みを入れるそうです。ただし、平らにできないほど硬くなってしまっている場合は、ハンマーで粉々にして、その上で長時間水に浸すようです。
私たちの心もまた、乾いてしまい、しばしば硬くなっています。主のいのちの水によって柔らかくされる必要があるでしょう。時には、小さな切り込みの傷を経験し、痛みながら変えられていくことでしょう。どうにもならないほど硬い時には、もはやハンマーでガツンと砕かれ、粉々になって再生させていただくこともあるかも知れません。しかし、どれもこれも、造り主が御自身のみこころのままに、私たちを「あわれみの器」として、主の尊いご用に用いるためであることを、心から信じて参りましょう。
神はみこころのままに選ぶ主権があることを教えられました。人が選ぶのではなく、神様が選ばれたわけです。すると、反論も生まれます。「神に主権があり、神がすべてを決めるのならば、人には責任はないのではないか。」との反論です。19節にこうあります。
19節 すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」
誰も全能の神の意図に逆らうことなんて出来ない。それなのに、なぜ、人の責任が問われるのかというわけです。パウロは、多くの人がこのような反応を示すだろうと考えたのでしょう。もしかしたら、パウロ自身もそのように神様に訴えたことがあったのかも知れません。そして、パウロ自身が神様から語られたのでしょうか。20節で鋭くこのように語っています。
20節 人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
ぐうの音も出ないような主のおことばです。そもそも、造られた側の人間は、神様が意志して造ってくださらなかったら、存在すらしていないのです。つまり、神の意図に逆らうという自由すら、神様が人に与えてくださったゆえにできることであり、その自由を何のために用いるのかを人は問われています。ですから、自分たちの姿や環境が気に入らいとしても、「どうして私をこのように造ったのか」と言うことが、いかに人間の思い上がりであるのことかと思わされます。パウロはそのことを示すために、イザヤ書やエレミヤ書で語られていた、陶器師とその手の中にある粘土の話を引用します。
21節 陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。
神様が陶器師であり、私たちはその手で自由に変えられる粘土のようです。粘土は自分では姿を変えることはできません。ただただ、陶器師の意のままにかたち造られます。そのデザインもその器の目的も、器が決めるのではなく、陶器師が決める権限を持っています。引用元である、イザヤ書やエレミヤ書では、どのように語られていたでしょうか。
イザヤ書64:8 しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。
私たちの存在そのものが、主の御手のわざであるとあります。あるいはエレミヤ書ではこうある。
18:4 陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。
18:5 それから、私に次のような主のことばがあった。
18:6 「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか──主のことば──。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。
ここでは特に、制作中の器は、陶器師の手の中で壊されては、再び気に入る形に作り変えられる様子があります。そして、イスラエルの民も主の御手の中にあると。私たちはこの粘土のように、時に砕かれ、練り直され、そうやって主の望む姿へと日々変えられていく存在です。
私たちは、主の御手の愛のぬくもりをしっかりと感じながら、主が望む姿へと造り変えてくださることを受け入れる者でありたいです。心を頑なにしないことが大切です。「主は陶器師」という賛美の歌詞にもあります。「主の御手で造り変え、イエスの姿となしたまえ。主は陶器師、我は土くれ。イエスのごとくなしたまえ。」と祈り求めていきたいのです。
ローマ書に戻りましょう。神様はイスラエルの民を、ローマ9章21節にあるように、私たちキリスト者を「尊いことに用いる器」として選び、それにふさわしく造り変えてくださるのです。しかしながら、それを拒む者たちがいました。尊いことに用いる器として選ばれていながら、イスラエルの多くの人はそれを拒み、かえって御怒りを受ける器となろうとしたのです。実に、それはパウロ自身の姿であったと言えるでしょう。彼は御子イエスとそれに従う者を迫害したのですから。
陶器師に逆らい、自分勝手にふるまう器は、砕かれても仕方ありません。あるいは、別の器にしてしまおう!もっと従順な器を作ろう!となってもおかしくありません。しかしながら、主はそのような者たちにさえ、悔い改めて立ち返るならば、大きなあわれみを受けられるようにされたのです。22節にこうあります。
22節 それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。
そのような「滅ぼされるはずの怒りの器。もし、その「滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば」、それはなんという神のあわれみ、寛大さでしょうか。
本来は怒りの器となってしまった者たちに、なお主はあわれみをかける。神様の豊かな寛容、忍耐によって、人は変えられる。怒りの器から、あわれみの器へと。ユダヤ人に限らず、実に、すべての罪人が、まさにこれに該当しているのではないでしょうか。本来は砕かれたまま、廃棄されても仕方がない怒りの器であった。しかし、ここにあるように、主の豊かな寛容と忍耐をもって赦しの道をくださったのです。「あわれみの器」として、召してくださったのです。これもまた、人の力によるものではありませんね。23-24節。
23節 しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。24節 このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
御子イエス様までも、私たちに与えてくださった主です。御子を信じる者を「あわれみの器」とされるご計画を備えておられました。御子にあってこのあわれみを受けた者たちを通して、栄光を現わしてくださるのです。しかも、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも起こしてくださったので、私たちもそこに加えられているのです。
罪あるままでは、どうしても「怒りの器」でしかなかった私たちです。しかし、主の深いあわれみによって、御子キリストのいのちの犠牲によって、私たちは「あわれみの器」とされました。怒りの器が、あわれみの器とされたのです。そして、これから後もまた、怒りの器のままの人々が、私たちと同じようにあわれみの器とされるために、私たちは少しだけ先んじて選ばれたのです。それによって、主のあわれみと寛大さが、主の栄光が豊かに現わされるためです。私たちは、そのために召された器なのです。
ですから、あわれみの器として、頑なにならず、主の御手に自身を献げゆだねましょう。硬く握りしめているものはないでしょうか。手放さずにいる罪深い習慣はないでしょうか。主イエスの似姿へと近づくために、それらを手放して「造り変えられやすい器」とならせていただきましょう。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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