東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書9章11-18節「時と機会を活かす知恵」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2024/08/12

伝道者の書9章11-18節「時と機会を活かす知恵」

*** 8/11(日)主日礼拝 説教概略 ***

 オリンピックの実況で「まさか!?」ということばを頻繁に耳にします。予想外の結果が訪れることがなんと多いことかと思わされるのです。「メダル確実」なんてことばは、覆されるためにあるのではないかと思うほどです。参加する以上は、参加するすべての人にその可能性があるわけです。実績があるから確実だとも、能力がずば抜けているから必ず!とも言えない。それが、私たち人間です。


 それは、本日のみことば、11節最後から12節にかけてある通りです。

「すべての人が時と機会に出会うから」であり、しかも、人は自分の時を知らないからです。誰にでもチャンスがあり、誰にでも「まさか」が訪れます。

 それは、神様が本当に良いお方であると信じない者には、恐ろしいこと、不安なことに思えるかも知れません。多くのことを想定できないのですから。しかし、だからこそ、すべての人にこのお方が本当に良いお方であると知っていただきたいのです。神に信頼する者は「まさか!?」の時でさえ、神の最善のご計画を信じて、平安でいられるのです。
 そこに「神の救いの光」を見出すことができるからです。

 

1.当てにならない人間  


11 私は再び、日の下を見た。競走は足の速い人のものではなく、戦いは勇士のものではない。パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではない。すべての人が時と機会に出会うからだ。 

どういうことでしょう。まず、足が速い人が必ず競争に勝つわけではありませんよね。転んでしまうこともあります。勇士と呼ばれる強者がいつも勝利するのでもありません。少年ダビデと巨人ゴリアテの戦いでは、99%ゴリアテ勝利と思われたことでしょう。しかし、そうではなかった。また、知恵さえあれば食べ物に困らないわけでもありません。悟りのある人が裕福になれる保証もなく、知識があれば好かれるとも限りません。さあ、何が言いたいのでしょうか。

それは、人間の能力も計算も思うほど当てにならず、想定外のことが山ほど起こるということでしょう。人はそのことをわきまえる必要があります。ですから、何かを安易に断定できない者なのですよね。そう思うと、「想定外のことは、いつでも起こる」と想定することこそ、人のあるべき姿なのかも知れません。最近は、天気もまるで読めませんね。カンカン照りかと思いきや、急に激しい雷雨が襲います。また、株価も急変動し不安定です。これもまた、TVに出ていた専門家の方も、「やっぱりこの世界は何が起こるかわからない」という事なのだとおっしゃっていました。そして、未来もまるでわからないので、機会を逃してしまいます。「あの時、こうしていれば良かった!」と後になって悔むのです。災害対策などもそうかも知れませんね。普段からしておけばいいのですが、実際に被害に遭わないと本気で取り組めない弱さというものがありますよね。それで12節にもこうあります。12 しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、罠にかかった鳥のように、人の子らも、わざわいの時が突然彼らを襲うと罠にかかる。 自分に降りかかるチャンスも、わざわいのタイミングもわかりません。まるで「悪い網にかかった魚」、「罠にかかった鳥」のように思われるのです。「罠」は、基本的に見えないように隠されています。バレたら避けることができるわけですから。それで、私たちは予想できないこと、想定外の困難が「罠」のように思えてしまうのです。

では、これらの「罠」に対して、私たちに対策ができるのでしょうか。

 

2.人の限界を知り、神を求める

 それは、「人の限界を知り、神を求める」ということです。どこかで「私は大丈夫」という、何の根拠もない自信を私たちは持っています。しかし、時を知らないのです。未来は全く分かりません。しかし、神様は知っています。何が罠になり得るかも、何が私たちにとって最善の選択であるかも。そこで私たちには、すべてを知っておられる神様に拠り頼むチャンスがいつも、目の前にあるのです!!

問題は、神様を呼ばず、自分で何でも決めていることです。本当に困らないと主を求めない。いや、想定外のことが起きても、不平不満は出ますが、「すべてはわたしの御手の中にある」と言われる主を求めない。だから、わたしを呼べと主はおっしゃるのです。

エレミヤ33:3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』 

 むしろ、想定外ならば、主を呼び求める大チャンスであり、それこそ、私たちの理解を超えた大いなる素晴らしいことをなしてくださる好機なのですよね。何でこんなことが?と思えることが、主の御手の中で美しく変えられていく。その芸術作品を拝見する機会です。例え、私たちが失敗したとしても、神はそれを用いて益とされる。だから、私たちは安心なのです。

 ユースキャンプの中でも、想定外のことが起こりました。私がおもに担当していたプログラムがありました。しかし、その際に私に来客があり、緊急で対応すべきことが起こったのです。突然私が抜けることになり、他の奉仕者はパニックであったかと思います。祈らされました。「主よ、なぜ、この時ですか?私にもう一つ体を下さい!」と無理な祈りをしました。すると、なんと途中参加のお子さんを送ってくださった保護者の方が、私が抜けて動揺している状態を見て、急遽お手伝いに入ってくださったのです。むしろ、その分野において、私よりはるかに頼りになる助人でした!!私が抜けたゆえに、その方が用いられ、奉仕の交わりに加わることができました。その方の口から「神様の導きだと感じた」とのことばもありました。「体をもう一つ下さい!」との祈りに、私の体以上の存在を遣わしてくださったのです。

 また、私が対応させていただいた件も、結果的にその日に対応したことが最善でした。そしてまた、後々にまでそれがつながっていました。今思い返すと、すべてが神様のご計画でした。主が「わたしを呼べ」と命じておられるのです。大胆に、主なる神様を呼び求めましょう。

 

3.時と機会を活かす知恵

自分の力には限界がある、想定外は山ほど起こる。だから、いつでも主を呼び求める。これこそが、聖書が教える「真の知恵」です。

14-15節では、貧しい知恵ある者が、一つの町を強大な大王の軍隊から救ったという話が登場します。ただし、それにも関わらず、人々の記憶に残らなかったという例なのです。
これは、第二サムエル20章の出来事であると考えられています。一人の貧しい婦人が、その知恵をもって大将軍ヨアブと交渉し、その町を危機から救ったという記事です。ただし、彼女の名前は全く記録されていません。彼女は賢い者であり、町一つを救ったにも関わらず、貧しく地位のない者だったからでしょう。 

しばしば人は、力のある者、権力ある者の声しか重んじない傾向があります。しかし、著者は、立場や力、権力があるかどうかによって知恵を軽んじてはならない!と言います。
16-18節です。 
16 私は言う。「知恵は力にまさる。しかし、貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれない」と。17 知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりもよく聞かれる。18 知恵は武器にまさり、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す。

もし、あなたが神のことばを誰かにまっすぐ語るなら、それは愚かな支配者の叫びより強く、あらゆる武器にもまさります!牧師でないと、宣教師でないと、みことばを語っても力がないというのは、大いなる誤解です。「私では足りない」と思わないでください。あなたが神のことばを語るなら、その知恵は人を救います。

 立場や地位が、みことばを真理にするのではありません。私も若い頃には、早く年を取りたいと求めました。若い説教者のことばは軽んじられるとどこかで思っていたのでしょう。しかし、それは違いました。若くても、主のことばを一心に、まっすぐに語るなら、それが人を救い、人を育てると知りました。真理のみことばは、どんな剣よりも強く、どんな権力よりも尊いのです。

そして、知恵ある者は機会を逃しません!時と機会が、当たり前に転がっているわけではないとを知っているからです。先延ばしにすることが、悪魔の罠であると見抜いているからです。

エペソ5:15-17  15節 ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、16 機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。17 ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。 

 愚かにならないで、機会を十分に活かすように!とあります。主のみこころを悟りなさいともあります。主のみこころは何でしょうか。時が良くても悪くても、みことばを宣べ伝えなさいです。ですから、私たちが勝手にダメだと決めないことでしょう。

私はそれを思い知らされました。ある方の病床を見舞いました。福音を伝えようと備えて。しかし、打ちのめされました。その方は寝たきりで、もう明確なことばも話せず、意識も虚ろだったからです。私に何ができるだろうかと思いました。福音を伝えようにも、文字も読めず、どれだけことばを理解できているかもわからないのです。それでも、もう少し元気だった時に、筆談でイエス様を信じるかとの問いに応答されたのだと娘さんから伺いました。

少し勇気をもらいつつ、私は聖書を開いて耳元でみことばを読みました。そして、できるだけ聞こえるように祈り始めました。その中で次のように祈ろうとしていました。

「神様、〇〇さんは、筆談ではありますが、イエス・キリストを信じますかとの問いに、応答されたとのことで、あなたはご存じです」と。

 この祈りのことばの途中でした。この方は本当に大きな声で応答なさったのです。どのタイミングでしょうか。「イエス・キリストを信じますか」と言った瞬間でした。「はい」にも似た応答の声です。まさか、そんな応答が起こるとは思わず、驚きつつも、深い感動が訪れました。妻もそれを見届け、すごい!と感動していました。

そして、主の御霊に促されるようにして、「急ですが洗礼をしましょう」とお伝えし、病床で洗礼を授けさせていただきました。それから1日も経たないうちに、この方は天に召されたのです。本当に平安に満ちてやすらかに息を引き取られたとのことでした。

 

 私たちが決められるほど、私たちは時を知りません。しかし、主はご存知です。主は、時を機会を活かせと言われます。十分に機会を活かしているでしょうか。

誰にでもその機会はあります。小さなダビデがゴリアテを打ち倒す機会を主は備えておられるのです。いつでも主を呼び求めましょう。私たちの考えを超えた巨人をも倒す力を主がくださるからです。 





引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *