オリンピックの実況で「まさか!?」ということばを頻繁に耳にします。予想外の結果が訪れることがなんと多いことかと思わされるのです。「メダル確実」なんてことばは、覆されるためにあるのではないかと思うほどです。参加する以上は、参加するすべての人にその可能性があるわけです。実績があるから確実だとも、能力がずば抜けているから必ず!とも言えない。それが、私たち人間です。
それは、本日のみことば、11節最後から12節にかけてある通りです。
「すべての人が時と機会に出会うから」であり、「しかも、人は自分の時を知らない」からです。誰にでもチャンスがあり、誰にでも「まさか」が訪れます。
1.当てにならない人間
どういうことでしょう。まず、足が速い人が必ず競争に勝つわけではありませんよね。転んでしまうこともあります。勇士と呼ばれる強者がいつも勝利するのでもありません。少年ダビデと巨人ゴリアテの戦いでは、99%ゴリアテ勝利と思われたことでしょう。しかし、そうではなかった。また、知恵さえあれば食べ物に困らないわけでもありません。悟りのある人が裕福になれる保証もなく、知識があれば好かれるとも限りません。さあ、何が言いたいのでしょうか。
それは、人間の能力も計算も思うほど当てにならず、想定外のことが山ほど起こるということでしょう。人はそのことをわきまえる必要があります。ですから、何かを安易に断定できない者なのですよね。そう思うと、「想定外のことは、いつでも起こる」と想定することこそ、人のあるべき姿なのかも知れません。最近は、天気もまるで読めませんね。カンカン照りかと思いきや、急に激しい雷雨が襲います。また、株価も急変動し不安定です。これもまた、TVに出ていた専門家の方も、「やっぱりこの世界は何が起こるかわからない」という事なのだとおっしゃっていました。そして、未来もまるでわからないので、機会を逃してしまいます。「あの時、こうしていれば良かった!」と後になって悔むのです。災害対策などもそうかも知れませんね。普段からしておけばいいのですが、実際に被害に遭わないと本気で取り組めない弱さというものがありますよね。それで12節にもこうあります。12節 しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、罠にかかった鳥のように、人の子らも、わざわいの時が突然彼らを襲うと罠にかかる。 自分に降りかかるチャンスも、わざわいのタイミングもわかりません。まるで「悪い網にかかった魚」、「罠にかかった鳥」のように思われるのです。「罠」は、基本的に見えないように隠されています。バレたら避けることができるわけですから。それで、私たちは予想できないこと、想定外の困難が「罠」のように思えてしまうのです。
では、これらの「罠」に対して、私たちに対策ができるのでしょうか。
2.人の限界を知り、神を求める
3.時と機会を活かす知恵
立場や地位が、みことばを真理にするのではありません。私も若い頃には、早く年を取りたいと求めました。若い説教者のことばは軽んじられるとどこかで思っていたのでしょう。しかし、それは違いました。若くても、主のことばを一心に、まっすぐに語るなら、それが人を救い、人を育てると知りました。真理のみことばは、どんな剣よりも強く、どんな権力よりも尊いのです。
そして、知恵ある者は機会を逃しません!時と機会が、当たり前に転がっているわけではないとを知っているからです。先延ばしにすることが、悪魔の罠であると見抜いているからです。
エペソ5:15-17 15節 ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、16節 機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。17節 ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。
愚かにならないで、機会を十分に活かすように!とあります。主のみこころを悟りなさいともあります。主のみこころは何でしょうか。時が良くても悪くても、みことばを宣べ伝えなさいです。ですから、私たちが勝手にダメだと決めないことでしょう。
私はそれを思い知らされました。ある方の病床を見舞いました。福音を伝えようと備えて。しかし、打ちのめされました。その方は寝たきりで、もう明確なことばも話せず、意識も虚ろだったからです。私に何ができるだろうかと思いました。福音を伝えようにも、文字も読めず、どれだけことばを理解できているかもわからないのです。それでも、もう少し元気だった時に、筆談でイエス様を信じるかとの問いに応答されたのだと娘さんから伺いました。
少し勇気をもらいつつ、私は聖書を開いて耳元でみことばを読みました。そして、できるだけ聞こえるように祈り始めました。その中で次のように祈ろうとしていました。
「神様、〇〇さんは、筆談ではありますが、イエス・キリストを信じますかとの問いに、応答されたとのことで、あなたはご存じです」と。
この祈りのことばの途中でした。この方は本当に大きな声で応答なさったのです。どのタイミングでしょうか。「イエス・キリストを信じますか」と言った瞬間でした。「はい」にも似た応答の声です。まさか、そんな応答が起こるとは思わず、驚きつつも、深い感動が訪れました。妻もそれを見届け、すごい!と感動していました。
そして、主の御霊に促されるようにして、「急ですが洗礼をしましょう」とお伝えし、病床で洗礼を授けさせていただきました。それから1日も経たないうちに、この方は天に召されたのです。本当に平安に満ちてやすらかに息を引き取られたとのことでした。
私たちが決められるほど、私たちは時を知りません。しかし、主はご存知です。主は、時を機会を活かせと言われます。十分に機会を活かしているでしょうか。