東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ9章6-18節「主のみこころに期待して」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/08/08

ローマ9章6-18節「主のみこころに期待して」

*** 8/7(水)祈祷会 説教概略 ***

わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。(15節)

 このことばを、私たち人間が言うと、なんだか自分勝手で横柄な感じさえします。ただ、愛と真実に満ちた神様がおっしゃる時、印象がガラリと変わります。どんな圧力にも屈せず、流されたりすることもなく、神様がふさわしい時に、最善をなさる。みこころのままに。この神様がくださったみことばに、日々信頼して歩んでいくことを教えられます。



 パウロは5節までのところで、同胞イスラエル人が救われていないゆえの悲しみを語っていました。それに対して、次のような反論があることをパウロは想定しています。

「なぜ、神の民であるイスラエル人が、神の救いから外れているとあなたは言うのか?」。「その原因は一体何なのか、神の約束が無効となったのか?」

 という反論です。ですから、パウロは6節でこう語っています。

6しかし、神のことばは無効になったわけではありません。イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。

 パウロは明言します。神のみことばが無効になったわけではない。みことばの約束は変わらず有効である。では、何が問題なのでしょうか。6節後半です。そもそも、「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないから」なのだと語るのです。

 真のイスラエルとは、イスラエル人の家に生まれた者ではないのです。イエス様自身もヨハネの8章で本質的な指摘をなさいました。「アブラハムの子なら、アブラハムのわざを行うはずだ」と。神を心から愛し、神が遣わされた御子を信じることこそ、アブラハムの子孫のすることであるという考えです。血筋ではなく、神の選びとそれを受け取る信仰によるということですよね。

 パウロはそれを読者に理解してもらうために、7節でこう語ります。 

7アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。 

 アブラハムから生まれた子ども全員が、アブラハムの「約束の子孫」ではないと言います。彼には女奴隷ハガルによって生まれたイシュマエルという息子もいました。しかし、神様はこの子をアブラハムの子孫の枠に入れませんでした。

 なぜでしょう。

 みことばの約束で語られていないからです。妻サラとの間に生まれたイサクこそ、約束の子孫であると主は明言しておられたからです。それで9節で、イサクが誕生した時のことを振り返っています。

9約束のみことばはこうです。「わたしは来年の今ごろ来ます。そのとき、サラには男の子が生まれています。」 

 主は、アブラハムとサラの子として生まれる者を選んでいたのです。つまりイサクを選んでおられたのです。それは8節にある通りです。血筋で決まるのではなく、すべては神の選びのことばによるのです。なお、「来年の今ごろ来ます」とは、直訳では「at this time=この時に」となります。それは、来年、全く同じこの時刻に来るという意味でした。私たちには「来年の同じ時に来る予定です」とは言えても、「必ず来る」とは言えませんよね。全く同じ時刻に確実に来ると宣言ができ、その通りに確かに実行できるのは神様のみですよね。まさにこれは、神の約束が決して失われたり、破られたりすることがないという確証を与える表現だと言えるでしょう。

 さらに、10-13節では、イサクとリベカに生まれるヤコブとエサウについても語られています。そこでも血筋ではなく、神の約束のことばによって選びがなされているのだと語られています。特に11-12節に目を留めましょう。

11その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、12行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。 

 子どもたちが生まれる前、彼らが良い行いも悪い行いもできない時に、もう神の選びがあったのだと言います。12節の最初に「人の行いによるのではなく」とあるように、生まれる前の、まだ善悪を行うこともない時から主は選んでおられたのです。そこには人間の行いが入る余地はありません。召してくださる神様に一切の主権があるのです。しかも、12節最後にあるように、これらのことは、母リベカに、前もって、神の約束のことばとして告げられていたのです。このような具体的な例を挙げて、血筋によらず、神の選びによってということがわかります。

 ただ、13節にあるように、神様はヤコブを愛して約束の子孫として選び、エサウを退けたわけです(これはマラキ書1章からの引用です)。そこから生まれる反論として、えこひいきとか不正があるのではないかという話が出そうです。そこでパウロは14節以降で、この真髄を説き明かしていきます。 

14それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。

 「不正」とのことばは、他に不義、悪いこと、間違ったことなどの意味にも訳せます。「神に悪意や間違いはあるのか」という問いでもあると言えそうです。もちろん、神様には不正も悪意も、そして間違いもありません。神様の最善のご計画の中で、ヤコブが選ばれたのです。完全に正しく純度100%の愛でことをなさるので、その決定に信頼できるのです。 

15神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」 

 これは、イスラエルの民が「金の子牛」の像を造り、偶像礼拝に陥ったすぐ後の話です。神様が、この民の中にあっては一緒に行かないとおっしゃった際、モーセが「この民とともに歩んで欲しい、その確証が欲しい」と願い出た時のことでした。神様は応じてくださるのですが、このような断りのことばも語られたのでした。それは人に流され左右されることなく、いつも神の正しい基準において判断されるということです

 ですから、16節にあるように、人の願いや努力が決め手ではないのです。

 続く17節には、ファラオが心を頑なにしたことについての説き明かしもあります。神様は、ファラオの心の頑固さを、どうにもできなかったわけではありません。「神であるわたしにも無理な頑固さだった」という話ではないのです。ファラオを瞬時に砕き、従わせることなど容易なことです。しかし、彼の自由意思を尊重しつつ、同時にその頑なさをみこころのままに用いて、御名を全地に知らしめなさったのです

 そうした出来事が、後にカナンの地でのラハブの回心などにも影響を与えているのです。ラハブは海が真っ二つに割れたという驚くべき出来事を聞いて、イスラエルの神を恐れたと告白しています。それは、ファラオが頑なだったゆえに起こった出来事であるとも言えます。私たちは近視眼にて、ファラオの心を砕くなり、彼を失脚させるなりした方が、神の民に都合が良いと考えるでしょう。しかし、神様はファラオの心の頑なさを、むしろ用いて、より豊かなみわざをなさったことになります。本当に深い主の救いのご計画です。

18節にもこうあります。

18節 ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。 

 「みこころのままに」ということばが、繰り返されていますよね。すべてのことは、神の御手にあり、そのみこころのままになさるのです。それらを信仰によって受け止めていきましょう。

 もちろん、人の様々な願い求めが、神のみこころにかなっているものであるならば、主はそれを聞かれるでしょう。その祈りは答えられると信じています。しかし一方で、どんなに厚い祈りであっても、それがみこころにかなわないものなら、神は決してその祈りに左右されることはありません。神様とは、そういう絶対的な基準を明確に持ち、一切の不正も間違いもないお方ですよね。

 ですから、人の救いもまた、私たちが選んでいるようでいて、実に、神ご自身のあわれみによって、救いをいただているのです。ですから、「私が救いを獲得した」と言うべきではなく、主のあわれみによって「救っていただいた」と、言うべきでしょう。

 そしてまた、それゆえに、救いは思わぬところから、思わぬ時に起こります。牧師をしていると、そういうことの連続です。あの人そろそろ救われそうだなと勝手に思っていると、そこは話が進まず、逆にまったく予想外のところで、素直にイエス様を信じる方が起こされたりします。誰も救われないと思う時もあれば、続けて救われることもあるし、不思議なかたちで起こります。人のわざではなく、神のみわざなのだと改めて教えられます。私たちは主の良いご計画を信頼して、主のおことばにただ忠実に従いましょう。主のなさることに胸を躍らせながら歩みましょう!


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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