*** 10/2(水)祈祷会 説教概略 ***
律法主義的なユダヤ人からしたら、このタイトルは決して許せないタイトルでしょう。律法とキリストとは、相容れないものと彼らは考えていたわけですから。しかしながら、パウロは、キリストを信じて、聖霊の啓示によって、この説き明かしができる者とされました。実に、律法が目指していたものは、すべてキリストのうちにありました。キリストは律法が求めていたすべてを満たすことができました。キリストによって、律法の役割は全うされているのです。
ですから、ヘブル人への手紙10章1節にはこうあるのです。「律法には来るべき良いものの影はあっても、その実物はありません」。律法は影にすぎないのです。では、実物とは何でしょうか。イエス・キリストです。また、キリストのなさった「みわざ」です。
ゆえに、実物が現れたのならば、影は影らしくその背後にあれば十分でしょう。律法の目指していたものは、イエス・キリストです。私たちも表面的な「文字の教え」を守ることに終始するのではなく、そこにある神のみこころを深く受け止め、キリストご自身に目を注いでついて参りましょう。
1節 兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。
これは決してぶれることのないパウロの思いです。パウロはずっとユダヤ人の救いを強く願っているのです。自分自身がそうであり、その同胞、仲間なのですから。ですから、ここにあるように彼はいつでも、ユダヤ人の救いを祈っていたのでした。そして、かつての自分と同じように、彼らが非常に熱心であることも知っています。怠け者で、いい加減なわけではないのです。律法学者、パリサイ人たちは、基本的にかなり勉強熱心で、ある意味で、真面目な人々でありました。
ただ、その熱心さや勤勉さが、間違った方向に向かっているのです。正しい聖書知識に根ざしたものではないということです。2節にこうあります。
2節 私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。
ここで言う「知識(エピグノーシス)」とのことばは、単なる知識を表す時に使うことばではありません。聖書における「神に対する真の知識」を指す場合に使われることが多いことばです。パウロが伝えていることは、彼らは、律法をそらんじて言えるといった表面的な知識はあっても、そこにある神の真理を知らないでいたということです。
今、星野さんのアート展が開催されています。ただ、この星野さんの詩画も、どこまで本人の真意を理解できているだろうかと思う瞬間があります。
特に彼が信仰を持ってからの作品は、主キリストを知ることなしには、深いところまで十分に理解することが難しいだろうなとも感じます。ある意味、それをお手伝いするのが私たちクリスチャンの役目ですよね。
アート展にいらっしゃったある方が、「信仰を持って鑑賞すると、やはりまた違うのでしょう?」と尋ねられました。おっしゃる通りで、例えば・・・ということで、いつかの作品を信仰者の視点から解釈を伝えさせていただきましたら、「ああ、なるほど」と感嘆の声をあげておられたのが印象的でした。
みことばの理解も、人の勝手な解釈ではなく、神様の意図、真の知識を求めて参りたいのです。こうして、神のみこころについての真の知識に基づかないので、ユダヤ人たちの熱心さは、あらぬ方向に向かいました。信仰によってという神の意図からずれ、行いによって達成しようとし、救いから遠ざかっていたのです。
それをパウロは、3節でこのように語っています。
3節 彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。
神の義を「知らずに」ということばは、聞く機会がなくて知り得なかったということではなさそうです。例えば、第一コリントの14章38節では、同じことばが「無視する」という意味で訳されています。無視するというのは、意識的に認めようとしない、知ろうとしないことですよね。
ここでも、神の義を知らないことがやむを得なかったというよりも、彼らの頑なな心のゆえに、知ろうとして求めることをしなかったということでしょう。キリストが現れ、みことばを説き明かしておられたのですから!!
このようにして、自分の知識に拠り頼み、神に求めていこうとしない姿勢の中に、人間の驕りや罪深さが現れていますよね。「私の考えの方が正しい」「私は分かっている」という驕りが、神様を求めなくさせてしまうのです。
「神の義に従わなかった」というのも、「神の義に屈服しなかった」とも訳すことが可能です。神様の前に全面降伏し、服従することを、私たちの「肉の思い」が嫌がり、抵抗するのですよね。私たちはむしろ、みことばにしても、御霊の助けなしには正しく理解することができないとの教えを、聖書が語っているのですから、謙虚にその通りにればいいのですよね。
さらに、今日のみことばでひときわ目を引くのは4節のことばです。
10:4 律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。
「目指すもの」と訳されていることばは、テロスということばです。これは「終わり」「目標・目的」「成就」などと訳せるでしょう。つまり、キリストこそは律法の目指している目的であり、律法の成就であるということです。ですから、キリストに到達すれば、律法の役目は、ある意味では「終えた」と言っても過言ではないでしょう。
それを理解する上で、ガラテヤ書3章24節のみことばが助けになります。
ガラテヤ 3:24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
律法は、私たちをキリストに導く「養育係」、「家庭教師」だったわけです。ただ、キリストに導くのが仕事ですから、キリストという真の教師と出会うならば、その養育係の役目は終わります。キリストにすべてを引き継ぐわけなのです。ですので、25節では、「しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。」と語られています。また、ローマ書で語られているのと同じように、「信仰によって義と認められる」ということが繰り返し確認されていますよね。
整理すると、律法は、まず、私たちの間違い、汚れ、罪深さを示します。それは、私たちが、自分の行いによっては神の基準を満たすことができないことを気づかせてくれるものです。すると、私たちは行いによってではなく、基準を満たすキリストを信頼して、キリストと一つにされることを通して、神の義を受けていくのです。律法は最初から、私たちをキリストへ導くために神様が備えられたもの。ただ、目的であるキリストから目を離してしまうと、その本来の意味も目的も全うできないのです。
ローマ書10章4節に戻りましょう。 10:4
律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。 律法のすべては、実にイエス・キリストに向かうものであり、律法で教えられている本質は、キリストの中に全うされています。
キリストを信じて、キリストに従う時、律法の目的が成就するのです。
それは律法だけではなく、聖書全体が神の愛と、その具体的な現れであるキリストの十字架を語っているのです。ですから、律法や聖書のみことばを学ぶならば、イエス・キリストに向かわないはずがありませんよね。逆に、キリストに向かわない学び、道徳や戒律的な教えばかりに終始するなら、影ばかりを追いかけており、本体であるキリストを見ないむなしい学びとなっているのです。
私たちは影ではなく、本体であるキリストから目を離さずに歩んでいきましょう!人の知識ではなく、御霊の助けによって真理を知る者とならせていただきましょう。また、多くの方はそれを御霊に満たされたクリスチャンを通して知るのです。私たちが口を閉ざしてしまわないように!伝えさせていただきましょう!
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会