*** 10/6(日)主日礼拝 説教概略 ***
先日まで、新約聖書はヨハネの手紙からお話しました。本日から、ヘブル人への手紙に入ります。この手紙は新約聖書の中で、最も謎の多い手紙です。謎解きが好きな人には、うってつけです。なぜなら、この手紙は、旧約聖書の専門的な知識に精通しつつ、同時にイエス・キリストについて素晴らしい解き明かしがされているからです。
それなのに、誰が書いたのか未だに謎なのです。そのため、長らく議論が絶えない書でした。かつては、パウロが書いたとする人が多くありました。この手紙の内容が優れたものであったからでもあり、また「パウロ先生の手紙なら安心だ!」という人間的な思いから、そう考えられた可能性があります。
しかし、ことば遣いや著者による自己紹介等を調べると、パウロが著者ではないと思われてきます。特に、2章3節を開いていただくと、「この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです」とあります。著者は、イエス様から直接聞いて信じた弟子たちが、私たちに伝えてくれたのだと言っているのです。つまり、自分は「第二世代のクリスチャン」だと紹介しているわけです。
そうなると、イエス様とダマスコの途上で出会い、直接啓示を受けたとするパウロの主張とは食い違います。彼は、自分を第一世代と位置付けているからです。
では、誰なのかという話になります。諸説あるのですが、残念ながらどの説も有力とは言えません。つまり、著者が「わからない」手紙です。ただ、聖書中のほとんどの書が著者を想定できる中にあって、「著者がわからない書」があることに、私は大切な意味があると思っています。
なぜならば、聖書の真の著者は神様であり、人間の権威に依存するものではないからです。偉いあの人が書いたからではなく、名もなき人であったとしても、神様がその人を用いて書かせたならば、それで十分です。実際、この手紙の内容は、パウロが書いた多くの手紙に決して劣るものではありません。非常に豊かです。旧約とイエス・キリストを結び合わせる素晴らしい働きをしてくれています。むしろ、神様があえて、著者が分からない書を人に与えておられるのではないでしょうか。聖書の真の著者は人ではない。神様ご自身であると示すために!
1.御子による啓示
さて、著者だけでなく、手紙のあて先についても謎が多いものです。ただ、おそらくは、クリスチャンとなったユダヤ人が読者ではないかと思います。それで、旧約から示されてきた神の救いとは、イエス様のことなのだとこの書は教えているのです。
今朝の1章の1-3節は、短いですが、まさに御子イエス様による啓示のすばらしさが凝縮されています。啓示とは、自分たちの努力で神を見出すのではなく、神様が私たちのために、私たち人間がわかることばや方法で教えてくださることです。
例えば、自然の美しさ、宇宙の広大さ、人間の体の緻密さ等を知れば、こんなに美しく整えられている世界なのだから、デザイナーがいるに違いないと感じることもできます。これは「一般啓示」と言われ、この世界の豊かさから、造り主の神様の存在を感じられるようにされているということです。
ただ、それだけでは、罪や救いについて、具体的にはわかりませんね。そこで、神様は「特別啓示」というものを用意されました。それが聖書であり、キリストご自身なのです。1-2節の途中までをお読みします。
1節 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、
2節 この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。
1節の昔とは、旧約聖書の時代のことです。旧約時代は、大勢の預言者たちを通して、色々な時代に分けてそのお心を啓示されました。しかし、この終わりの時、すなわち、キリストの来られた新約の時代には、御子にあって人に語ってくださったのです。
ヨハネの福音書1章では、イエス様が「ことば」として紹介されています。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と。イエス様ご自身が、「神のことば」そのものなのです。神のことばそのものが現れたら、多くの人間の預言者は不要ですよね。イエス様以上に、神という存在を分かりやすく示す存在は他にないのですから!
しばしば人間の発想として、「神様が目に見えれば信じやすいのに!」と訴える場合がありますが、なんとイエス様はそのニーズに見事に応えられたと言えるでしょう。また、「もし、神様が人間として歩まれたら?」という仮定にも、見事応えてくださったのです。
神様はなんと気前がよく、大盤振る舞いでしょうか。全知全能、無限で永遠、完全な神様が、小さな有限な人間の姿を取ってくださったのですから!!私たち小さく弱さを持つ人間と同じになり、そのようにして救って下さるのです。改めて神様のやさしい配慮に感謝しましょう。
2.世界の創造主・保持者、栄光の輝き、神の本質
2節後半から3節前半にかけて。
2節後半 神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。3節前半 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。
ここでは、神の御子イエス様が、神としての力あるみわざをなさっていること、そして神の本質の完全な現れであると語られています。
第一に、イエス様は、世界を創造し、世界を保持し治めておられると語っています。イエス様は父なる神様と御霊とともに、三位一体の共同のみわざとして世界を造られました。しばしば、異端的なキリスト教では、御子イエス様は、神より劣る存在だと主張します。また、多くのユダヤ人たちも、イエス様をただの人、ただの教師と見ることしかできず、拒んでしまう事がありました。しかし、ヘブル書はシンプルに、明確に神であると言うのです。
世界の創造とその保持ということは、神様にしかできないことでしょう。特に3節では、世界を維持する方法について語られています。それは、なんと「力あるみことばによって」です。手作業ではない。ことばによってです。
創世記の1章で世界の創造の記事がありますね。そこで神様が「光あれ」と言われ、光が存在するようになりました。まさにことばだけで、望んだ通りのものが生み出された。イエス様もそれをなさった方だと言うのです。それこそは全知全能の力、万物に対する主権を持っておられるということです。
そして、造られた後も、そのおことばの力で保持しているのです。地球は太陽の周りを飛行機の約100倍の速度で公転。時速1600kmで自転し続けていますが、一度も衝突せず、保たれています。地球は月の引力によって自転軸の傾きを23度に保っています。地軸の傾きがたった1度変わるだけで地球の気候は大変動してしまう。宇宙、世界はすさまじいバランスで保たれています。イエス様はその宇宙の秩序維持の中心なのです。この方が私たちの友となられ、私たちのためにいのちを捨てて、救ってくださったとは、なんと光栄なことでしょうか。
第二に、御子イエス様は、父なる神様と一体である方、同じ性質の方であると語られています。3節を見ていただくと、そこに「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり」とあります。イエス様は神の御子であり、神の本質そのものなのです。
私たち人間の親子関係なら、親子でもあまり似ていない場合もあります。また、言っていることが全然違うということも多々あるでしょう。しかし、イエス様の場合には、そこに完全なる一致があるのです。もちろん、イエス様の外見の話ではありません。「本質」の完全な現れなのです。イエス様のうちにある愛やあわれみや真実といった本質が、父なる神ご自身のそれと等しいのです。
実は、2節に出て来ました「御子にあって」ということばは、「御子のうちにあって」と訳すことも可能です。その場合、御子の中に、御子のうちに神のご性質があるということです。イエス様を見れば、「父なる神を見た」と言える。それは、イエス様の中に父なる神の存在があるからです。一体であるからです。
このような神ご自身であり、神の栄光に満ちた御子が、罪深く汚れた私たちのために、その栄光さえも後にして、人の姿を取って来てくださいました。私たちと同じように苦しみを通り、痛みを通り、ののしり蔑みを受けました。私たちの誰よりも孤独を通られました。愛する弟子たちから見捨てられ、裏切られ、群衆も手のひら返しで十字架につけろと叫びました。
イエス様は、私たちのためにその孤独を知っていてくださるのです。私たちは想像を絶する苦しみを通る人を助けたいとは思えても、同じ苦しみを受けたいとは思えないのです。身代わりになる勇気は持てないものです。自分が一番大事なので。イエス様は、それを愛ゆえになさった神様なのです。なんという尊い犠牲、深い愛でしょうか。このような神がいらっしゃるでしょうか。
星野富弘さんの作品で、今回展示されている作品ではないのですが、「どくだみ」という作品があります。「おまえを大切に摘んでゆく人がいた 臭いと言われ きらわれ者のおまえだったけれど 道端で歩く人の足許を見上げ ひっそり生きていた いつかおまえを必要とする人が現れるのを待っていたかのように おまえの花 白い十字架に似ていた」
どくだみは独特な臭いがあり、嫌われる雑草です。でも、いつか必要とされる人が現れるその日のために、咲き続けているように感じたのでしょうか。この嫌われ者のどくだみ、実は「十薬(じゅうやく)」と呼ばれ、様々な病・症状に効能があるそうです。嫌われ、見向きもされない孤独な花にそんな力がある。神様の摂理でしょうか。3節の最後にこうあります。
「御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」
イエス様は人々に見捨てられるようにして十字架につけられました(どくだみのように)。でも、その十字架の死が、信じる私たちに罪のきよめをもたらし、永遠のいのちと平安を与えてくださったのです。今も生きて天でとりなしておられます。星野さんは「どくだみ」の姿の中に、イエス様の十字架を示しています。そして、それだけでなく、きっと自分自身も「どくだみ」のようだと思ったのだろうと想像します。寝たきりで、何もできなかった自分は、疎まれても仕方がないと思ったのでしょう。でも、そんな自分をも必要として下さる方がいる。愛して下さる方がある。そして、このような自分も、誰かの役に立てる。それを示してくれたのが、十字架のイエス様なのでしょう。あなたもそうなのです。
神の御子イエス様によって啓示された神の姿は、圧倒的に力に満ち、栄光に満ちたものでありました。しかし同時に、そこには、神の栄光さえ後にしてでも私たちの隣に来てくださるやさしさと愛に満ちた、人となられたイエス様の姿があったのです。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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