東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ10章5-13節「信仰による救い」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/10/09

ローマ10章5-13節「信仰による救い」

*** 10/9(水)祈祷会 説教概略 ***

 ここでは、神の義を与えられる道が「信仰による」とは、具体的にどのようなものであるのか語られています。6節、7節にこうあります。

6しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。
7節 また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。



 信仰に基づく義に立つ人は、すべての考え方、すべての価値観においても信仰に基礎を置いて歩んでいきます。ですから、ここにあるように「天に上れる人は誰なのか」とか、反対に「深いところである『よみ』に落とされるのは誰なのか」という判断を、人がするものではないという価値観に立ちます。

 これらは人間が判断できる領域ではありませんよね。神様だけが、ご主権を持ってお決めになることです。ですから、心の中であっても、こういうことを偉そうに考え、判断することは相応しくないのです。

 ただ、私たちもしばしば、あの人はそう遠くないうちに救われて天国に行けるのではないかと思ったり、あの人はよみに下るに違いないと思ったり、勝手に考えてしまうことがあるように思います。場合によっては、救われて欲しいのだけれど諦めてしまっていることもありますよね・・・。

 私のおじは、だいぶ長らくアンチ・キリスト教でした。しかしながら、最後は信仰をもって私の葬儀で天に召されました。しかも、聖書は以前より読んでいたようで、本棚には聖書がありました。

 その際に、私たちは案外、身内であってもその人のことをあまり知らない者なのだと考えさせられました。そしてまた、見えないところで起こっている神様のみわざについても、私たちは知らないでいる者なのだと。

聖書はこのことをどのように語っているのでしょうか。8節です。

8では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。 

 これはつまり、私たちの考えではなく、聖書のみことばに聴きなさいということです。聖書によれば、神はひとりも滅びることを願っておられないですよね。「信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます」とのことばもあります。それはもちろん、「自動的に」という話ではないです。でも、一人の人が本気で主に信頼して従って行く時、家族に友人に、福音は確かに広がっています。時に、それが目に見えてわからない時でも、主のわざは始まっているのです。

 そして、聖書のみことばが、すぐ側に(近くに)与えられているのですから、みことばを信頼すべきだと言うことです。みことばは、あなたの近くに、いや、あなたの口に、あなたの心にさえあると言うのです。特に、ここで「みことば」と訳されていることばは、イエス様を指す場合に使う「ロゴス」ではありません。「レーマ」ということばで、ロゴスよりも話し言葉に近い、身近なことばです。

 ですから、聖書を難しく研究して・・・というよりも、メッセージや説き明かしとして語られているものです。それは、より身近に普段から耳にする聖書の教え、メッセージでしょう。これらがあなたの身近にあるのだから、信仰をもって受け入れよということです。

 8節最後に「これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばです」とありますよね。読者たちはすでに、パウロたちによって、宣教されていました。旧約聖書だけではなく、それを説き明かして宣べ伝えている宣教のことばを、読者たちは聞いていたのです。それは難易度の高い高尚な教えではなく、ごく身近にある、シンプルで難しくないメッセージでした。多くの複雑な儀式をせよという教えではない。イエス様を、神の子キリストとして信じよというシンプルな内容です。しかし、律法主義的に歩んで来たユダヤ人たちには、パウロたちを通して語られた宣教のことばを、神のことばとして素直に受け入れ、信頼していくことが難しかったのでしょう。

 しかしながら、今申し上げたように、救いにあずかることは決して難しいことではありません。こうして、伝えられた福音のことばをもって、人々はイエス様を主と告白し、信じることができるのです。だから、子どもでもお年寄りでも、どなたでも救われることができるのです。9-10節には、このように語られています。

9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 信仰告白に導く際に、しばしば引用される聖書箇所でしょう。ここでは口での告白と、心で信じることの二つが語られています。これらは別々の二段階の作業ということではありません。一つの行為であることを理解する必要があります。口で告白するには、心で信じていることが必要です。また、心から信じていることであるならば、口ではっきりと表明できるはずです。そして、信じる内容は、イエス様を私の主であると告白すること、イエス様が十字架で死なれ、確かによみがえられた救い主であると信じることです。

 皆さんが、「救われるにはどうしたらいいか」と問われた際には、この箇所を一緒に開いて確認すると分かりやすいかと思います。そして、11-12節は、このようにキリストを信仰するならば、どんな立場の人であっても救いを受けることができることが確認されています。

11聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」12ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。

 11節のことは、すでに出てきたことの繰り返しです。特に私たちの信仰は、盲目的なものではなく、信頼に値する方を信じるものです。100%信頼して良いお方を信じるのですから、失望はありません。また、そこには民族、国籍の区別は一切ありません。12節にあるように、ユダヤ人、ギリシア人の区別などあるはずがないのです。世代、性別、過去、職業、立場、身分、それらも一切関係ありません。なぜならば、ここにあるように、「すべての人の主」だからです。どんな人であろうと、イエス様を呼び求めるのならば、罪の赦しを与え、永遠のいのちにあずからせ、豊かに恵みをくださるのです。

13「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。

 本当にすばらしいお方を、私たちは「私の主」をお呼びできるのですよね。この方を呼び求めるならば、区別は一切なく誰であっても救われることができるのです。まさに、すべての人の主です。

 私たちは、神学的に難しいことばで宣教する必要もないでしょう。シンプルに、聖書が語っていることをお伝えすればいい。そして、人の救いということも、私たちの力でどうにかこじ開けるものでないことも教えられました。天の御国に入れるのか、よみに落ちるのか、そんなことは私たちが知らなくてよい事なので、主は隠しておられますよね。

 神のなさることが最善であると信頼して、私たちは授けられた福音を携えて、この地の人々にお伝えしていけば良いのではないでしょうか。

引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 

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