*** 10/13(日)主日礼拝 説教概略 ***
先週木曜日に、妻と富弘美術館を訪れました。館長さんにもお会いできまして、先日のお礼を申し上げ、館長さんも私たちの来訪を喜んで歓迎してくださいました。実は、アート展の時もお昼をご一緒し、その人柄に感心しておりました。星野さんと共に歩んで来られたゆえでしょうか。気さくで話しやすく、謙虚な方だと感じます。
あるエピソードとして、コロナで美術館が閉館していた折、館長さんが星野さんに「毎日ヒマで読書と散歩ばかりだ」とつぶやいたそうです。すると星野さんから「ぜいたくだなぁ」と言われ、「はっ」としたと言います。両手両足の自由がきかない星野さんからすると、読書と散歩は、かなりのぜいたくなのです。館長さんは、「普段からもっとそう思えたらいいんだけど、これがなかなか難しいもので」とおっしゃっていました。その館長さんの姿に、私はとても良いリーダーシップを見るような思いでした。館長さんですから、美術館組織のトップであり、年齢も80才近いベテランです。彼のもとには20名近くのスタッフがいます。けれど、人への感謝を忘れず、体の弱い方への配慮にも関心が高く、謙虚さを失わない気さくな姿。そこにリーダーとしての、また、人としての魅力を感じました。
1.不幸な国
良い国、良い組織、良いグループには、やはり良いリーダーがいます。本日の16節では、不幸な国の人材について語られています。
16節 わざわいなことよ、あなたのような国は。王が若輩で、高官たちが朝から贅沢な食事をする国は。
「わざわいなことよ、あなたのような国は」との嘆きから始まります。そのように嘆きに満ちてしまう国とは、どのような国なのでしょうか。
まず、「王が若輩」である国だと語られています。これは、単純に若い王様はダメだという意味ではないでしょう。例え若くとも、神様に知恵を求め、賢い先輩方から謙虚に教えを受ける器ならば、良い王へと成長できるからです。例えば、8才で王になったヨシヤ王は、まだ子どもでしたが、若いながらも神様に忠実に歩み、尊敬され愛される王と成長していきました。ですから、若くても未熟さを克服する姿勢があり、成長していける人がいい王になれるわけです。けれども、非常に幼稚で自分勝手な人の場合、深刻ですね。王というだけで威張り散らし、権力を欲のために使ってしまう。感謝もせず、失敗を詫びることもしない。自分の責任や使命を理解せず、悪い助言者たちの操り人形になってしまう。このような王様のもとで仕える人々は不幸でしかありませんよね。
同様に、「高官たちが朝から贅沢な食事をする国」は、悲惨だと言います。これは責任ある高い立場、治める人々が、朝から酒を飲み、宴会を繰り広げているような状況です。そのような国の行く末は滅びしかありませんよね。イザヤ書5章11節にもこうあります。「わざわいだ。朝早くから強い酒を求め、夜が更けるまで、ぶどう酒に身を委ねる者たち。」 指導者たちが幼稚で自分勝手であると、共同体全体が悪くなってしまうのです。
私たちクリスチャンは、どこの組織に行っても成熟目指して歩みたいのです。
2.幸いな国
17節では、16節とは正反対に幸いな国について語られています。
17節 幸いなことよ、あなたのような国は。王が貴族の出であり、高官たちが、酔うためではなく力をつけるために、定まった時に食事をする国は。
王が「貴族の出であり」というのは、私たちの感覚ではあまりピンときません。ただ、これは、単純な身分を指しているのではないでしょう。それよりも、「真の貴族」とは、教育をしっかり受け、礼儀や品格、高潔な精神性なども学び訓練されているものであるはずだという中身の話です。
また、幸せな国では、王のもとで支える高官たちも、良い人材である必要があります。「高官たちが、酔うためではなく力をつけるために、定まった時に食事をする国は」幸いであると語られています。酔うためとは、結局自分の快楽のためです。自分のやりたいことばかりする人は、良い働きなどできるはずがありません。ここでは、そうではなく、「力をつけるために」とあります。どういう意味でしょうか。それは、国が良くなるために、人々を助けるために、力強く働けるよう規則正しい食事をし、身を整えていくということです。食べるにも飲むにも、神の栄光のために!です。
それは、「王も高官たちも、一日にしてならず」ということです。私たちは王や高い地位に就かないかも知れません。しかし、それぞれの置かれている環境の中で、指導的な立場や責任者、リーダーになることはあるはずです。その場合も、「一日にしてならず」であることを覚えたいのです。でも、多くの人は、偉い立場をもらうと勘違いしてしまい、周囲が見えなくなってしまいがちです。
「しくじり先生」というTV番組がありました。芸能人やスポーツ選手等の有名な方のしくじり体験を聞き、そこから学ぶという番組です。何人かの話を聞いて、共通していると思ったことがありました。それはやはり、有名になったり、売れたりして、有頂天になってしまったゆえにしくじったということです。感謝を忘れ、謙虚さを失い、気が付いたら周囲の信頼を失い、「裸の王様」になっていたという話です。
私たちも、高い地位に就くことが、自分を偉くするのではないことを覚えたい。神様の愛と忍耐の中で、兄姉の愛とお祈りに支えられていることを忘れてはならないと思うのです。誰もがお互いの存在なしには生きられない存在です。上手く行っている時も、反対にとても苦しい時も、この原点に立ち返る必要があります。主がおられなければ、私たちは何者でもない。育ててくれる親がいなければ、生きてさえいない。祈られることなしには、何もできないのです。
私たちは誰もが最初から良いリーダーではありません。子どもが生まれた瞬間に良い親になるわけではありません。結婚した瞬間に良い夫、良い妻にはなるわけでもありません。就職した瞬間に良い社員、職員になるはずもないのです。時間をかけて育てられていくのです。この成長、成熟を求めない人こそ、16節にあったように本当の意味で「若輩」、「未熟者」なのです。未熟であることを認めない人こそ、最も未熟者だということですよね。
3.民もまた善良な民であるべき
ですから、18節では怠けることへの警告があります。もちろんそれは、高い地位にある者に限定されません。
18節 怠けていると天井が落ち、手をこまねいていると雨漏りがする。
怠けるのが大好きな私には耳が痛いです。建物が老朽化しているのに、怠け心から何もしない。口では「なんとかしないとね」と言いながら、手をこまねいてばかり。すると、天井が崩落し雨漏りしてしまうというのです。私たちにとって、居心地の良い場所、安心できる居場所もまた、何の労苦もなしにそれが存在しているのではないのですよね。怠けずに犠牲を払って労している人々によって、はじめて維持できているのですよね。
どのような組織でも、「他の人がやってくれるからいいや」という考えであふれて来ると、終わりを迎えていきます。逆に「他の人が嫌がることだから、私がしよう」という姿勢が増えると、神様は祝福されるでしょう。それこそイエス様の弟子の姿ではないでしょうか。正直、嫌ですよね。嫌がることなのですから!!でも、イエス様の十字架を見上げませんか。イエス様が引き受けて下さった十字架刑は、誰もが目を背けたくなるものでした。主は私たちのために、誰もが嫌がる事を喜んで引き受けてくださったのです。続く19節も欲深い生活への皮肉が込められています。
19節
パンを作るのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる。
パンもぶどう酒もお金も、それ自体は悪いものではないのです。神様が下さった尊いものとして感謝して受けるなら、本当に良いものですよね。しかし、自己中心の快楽のために使う時、その価値を低くしてしまうのではないでしょうか。毎週のように星野富弘さんの話をして恐縮ですが、ほっとなうちに・・・(笑)。星野さんの転機となったのは、誰かのために生きる喜びを知ったことのように思われます。自分の体が自由に動けることが一番大事だと思っていた。その時には、自由を失って絶望しかなかったのです。でも、動けない体であっても一人の人を感動させたり、元気づけたりできる。そう思えたら、生かされている今の姿が嬉しくなったようです。
そして、もちろん、王や高官たちだけが立派でも国は成り立ちません。彼らのために祈り、支える多くの民の存在が欠かせないのです。20節にこうあります。
20節
心の中でさえ、王を呪ってはならない。寝室でも、富む者を呪ってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。
なんと心の中や寝室でさえ、王や富む者を呪ってはいけないと教えられています。世の中ではそんなことは教えませんよね。「心の中では言っても、外で言うなよ」と、人にバレないように指導する場合が多い。でも、私たちは違います。神様を信じているからです。 私たちは、どこであっても主の前であるという信仰を持っていますよね。ですから、心の中で妬んだり、ウソでごまかしたりしている時、そのすぐ横でイエス様がご覧になっていることを私たちは信じています。そして、高い地位にある人々に対して、不満や妬みをぶつけてばかりではいけないと示されるのです。
むしろ、彼らのために祈ることが主の御心なのです。第一テモテ2章1節にこうあります。
そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。
こうやって祈って、とりなし、感謝することのない国民を持つ王やリーダーもかわいそうではないでしょうか。愚かな民を持つ王も不幸なのです。イエス様という王様にとって、私たち自身は良い民でしょうか。イエス様という羊飼いにとって、良い羊でしょうか。
今日も主は私たちに語っておられます。幸いな国を目指して、あなた自身もまた良きリーダーとなるように。それは、自らの未熟さを謙虚に受けとめ、教養や礼儀、品格を身につけた者となるよう、成熟目指して歩むようにと語られています。そのために怠けるのではなく、利己的にならず、高い地位にある人々のために祈り感謝をささげましょう。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会