東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ10章14-17節「宣べ伝えることの大切さ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/10/18

ローマ10章14-17節「宣べ伝えることの大切さ」

*** 10/16(水)祈祷会 説教概略 ***

 私たちがクリスチャンになることができたのは、なぜでしょうか。もちろん、神様のみわざですが・・・やはり、勇気を出して、愛をもって、福音を伝えてくださった方、教会に誘ってくださった方がいたからでではないでしょうか。



 どんなに素晴らしい救いの道であっても、それを知らなければ得ることはできません

 難しい儀式も行いも必要ないとしても、子どもでさえ救われるとしても・・・、知る機会さえなければ信じることができませんですから、「伝わる」ということが本当に大切なのです。

 たとえ、その時は信じなかったとしても、伝えてさえおけば、死の間際にイエス様を求めることもできるからです。逆に、聞かされていない、届けられていないということは、とても深刻で悲しいことです。ですから、イエス様は天に上られる前に、弟子たちに対して「大宣教命令」をお与えになりましたね。

マタイ2819-20 
19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」 

マルコ1615それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。

 パウロは、このイエス様による大宣教命令を受け、従っていたことでしょう。そして、彼自身、宣教者が教会から派遣され、みことばが宣べ伝えられ、人々がそれを聞きき、そうして信じ救われることを願っていました。本日のみことばは、その思いが現れています。

14しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。
15遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。 

 少しも信じていない存在を「呼び求める」ことは、できないですよね。私は河童の存在を信じていませんので、川に行って河童を呼んだことはありません(笑)。

 でも、イエス様を信じていますので、いつでもイエス様を呼び求めます。苦しい時も悲しい時も、助けが必要な時も、相談する時も、嬉しい時でさえ。呼び求めるためには、相手を信じていることが必要ですね。では、信じるためにはどうしたらいいのでしょうか。信じるためには、その方について「聞く」必要があるでしょう。
17節にこのように語られているのです。

17ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。 

 もちろん「聞く」と言う場合、単に耳で聞くだけでなく、文書などで読む場合も含みますね。手紙でその方のことを聞いて、知っているという言い方もできるでしょう。「文字を読む」という方法で、神の語りかけに聞いているのです。

 そして、その内容はキリストについてです。9-10節に信仰告白のことが教えられていましたように、難しい教えではなくイエス・キリストについて聞き、この方を信じて受け入れるのでした。17節にあるように、信仰は、キリストについて聞くことから始まるのです。ですから、皆さんに聞かせる機会を私たちは祈り求めていきたい。

 そのためには、黙っていてはいけません。語り、発信し、伝える必要があります。14節最後にこうありますよね。

「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。」 

 私たちは宣べ伝えているだろうかと問われます。キリストを知らない方、聞いたことのない方に、知る機会を提供できているだろうかと。お伝えすることは、私たちの使命・責任です。あなたが遣わされている家庭、職場、人間関係。そこで、クリスチャンは、あまり多くないのではないでしょうか。「誰かがするだろう」ではなく、私たちがつ「伝える者」となる必要があるのではないでしょうか。その職場、その学校、その交わりに遣わされているのです。聞かないまま、知らないままで、滅びに向かってしまう方がいないように、伝えたいのです。ただし、信じさせることは、私たちの責任ではありませんそこは神の領域でした。

 私も今回、古くからの友人や知人などを今回のアート展にお誘いし、また証しもしました。でも、ほとんどの方は来られませんでした。誘い方が上手ではなかったかも知れませんし、色々な背景があるでしょう。16節にあるように、福音を伝えて、それを聞いたとしても信じない人々はいるものなのです。それは、神の民イスラエルでさえも、そうだったのです。

16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。 

 ですから、神様は「信じさせなさい」とは命じていませんね。救いなさい、信じさせなさい、従わせなさいとは言われていないのです。

 ですから、逆に安心して伝えることができますよね。その人の心を変える責任は私たちにはないのですから。

 それでも、人のいのちにとって、人生にとって大切な良き救いの知らせなのですから、祈って宣べ伝えるのです。主に期待して、教会にお誘いし、主の愛を現わし続けることですよね。実際、私がお誘いして、来られなかった方々は意味がなかったのでしょうか。

 いいえ。そんなことはありませんよね。少なくとも、教会が良い働きをしていることを知っていただけたと思います。誘われたという事実も残ります。考えるきっかけになったかも知れません。人を救うのは主がなさることですので、そこは自分を責めることなく、これからを主に期待しています。

 もちろん、お伝えする際には何度もためらいました。今日伝えようと思って、できず翌日・・・そう思いつつ、何日も過ぎました。それでも、祈り求めました。宣べ伝える人がいないと聞けないまま滅びに向かうので、踏み出しました。皆さんはどうでしょうか

私たちは黙っていてはいけないということを教えられます。伝える者の必要性。宣教師、宣教者の必要性が挙げられます。先ほど、イエス様の宣教命令についてのみことばをご紹介しました。弟子たちに明確にお命じなったことは、すべての人々に福音を宣教することです。これは、既にイエス・キリストを信じて、イエス様とともに歩んでいる私たちにしかできないことです。また、私たちだからこそできることです。

 そして、15節前半にはこうありました。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。 「遣わされることがなければ」とあります。これは、イエス様の宣教命令ともリンクしています。それらでは「出て行く」、「行く」ということが命じられています。心の安全地帯に閉じこもっていないで、そこから出て行く必要があります。住み慣れた心の安全地帯は居心地がよく、出たくないものです。でも、そこから一歩で出て行く時、人々もまた、自分たちのために一歩安全地帯から出てくれたのだと感じられるでしょう。以前お話したように、相手に鎧を脱いで欲しい時は、まず自分から鎧を脱ぐことが必要なのです。

 15節の後半のカギカッコの部分は、「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」とあります。ここには、イザヤ書527節の引用です。

イザヤ書52:7 良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。 

 おそらく、この箇所を要約したかたちが、本日の15節の鍵カッコ内のことばでしょう。良い知らせ、つまり福音を伝える者の歩みを美しいとするみことばです。「幸いな良い知らせを伝える人の足は、なんと美しいことか!」と。人の目には否定的に映ったとしても、神様の目に、それは本当に美しく、喜ばしい尊いものなのです。主がそれを喜ばれるなら、主はふさわしい時に、その実りをももたらして下さると信じることができるのではないでしょうか。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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