東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル1章4-6節「御使いがひれ伏す御子」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/10/20

ヘブル1章4-6節「御使いがひれ伏す御子」

*** 10/20(日)礼拝説教 説教概略 ***

 この手紙は徹底してイエス・キリストに目を注いでいます。それは、読者たちが様々な惑わしの中で、キリストから目を離してしまう課題が非常に大きかったからでしょう。本日のみことばにおいては、神秘的な御使い(すなわち天使)と、御子イエス様との違いを明確にしています。神の子キリストは「イエス」という名を持って、私たちと同じ人間として歩まれましたね。それゆえに、天使よりも力のない劣った存在だと考えられることがありました。


 現在でも、キリストはあくまでも人間だと考える人々も少なくないでしょう。しかし、結論はタイトルの通りです。御子イエス様は、神の本質そのものであり、御使いたちよりはるかに優れたお方なのです。御使いたちはこの御子イエス様にひれ伏して仕える存在であるということです! 

 そして、この力ある天使たちさえひれ伏して仕えするお方が、私たちの友となってくださったイエス様です。私たちの一番上の兄となってくださったイエス様です。私たちのために「いのち」をささげ苦しんで下さったイエス様です。このお方をしっかりと見つめて参りましょう。


 この1章全体としては、7回もの旧約聖書を引用しながら「御使い」とイエス様の違いを明確にしています。4節をご覧ください。

4  御子が受け継いだ御名は、御使いたちの名よりもすばらしく、それだけ御使いよりもすぐれた方となられました。 

 御子と御使いの呼び名が比較されています。まず、「御使い」という呼び名は、どういう意味を持つのでしょうか。「御使い(天使)」と訳されているのは、「アンゲロス」ということばです。エンジェルのギリシャ語版ですね。この呼び名は「神の使者」「神のメッセンジャー」という意味を持つますので、非常に光栄な名前ですよね。しかし、イエス様が受け継いだ御名は、それらの名前よりも素晴らしくすぐれているものであると言うのです。その名とは何でしょうか。5節で語られていますが、「わたしの子」という名であることがわかります。5節をご覧ください。

5  神はいったい、どの御使いに向かって言われたでしょうか。「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と。またさらに、 「わたしは彼の父となり、 彼はわたしの子となる」と。 

 あるいは福音書でも「わたしの愛する子」とも語られています。どんなに優れた天使であっても、あなたは「わたしの子」、「わたしの愛する子」と呼ばれることはありませんでした。彼らには特別な力が与えられていましたが、あくまでも神様にとって「しもべ」なのです。ここに明確な違いがありますよね!

 なぜ、著者は、イエス様と御使いとのこのような違いを明確にする必要があったのでしょうか。実のところ、イエス様が「人間の姿」を持たれたゆえに、天使よりも劣った存在と見る者たちがいたからです。神が人間となるなどあり得ないという発想です。それで、イエス様を神とせず、人よりやや優れた存在、神と人との中間的存在と考える人々が少なからずいました。このように、人間であり、同時に神であるという理解ができない人々のために、著者は御子イエス様がいかに優れたお方であるのか、神と同質であることを明らかにしようとしているのです。私たちも、イエス様を超人のような存在とせず、神である方として心からあがめて参りたいのです。

 また、中には、天使を必要以上に引き上げて理解し、それゆえにイエス様を引き下げてしまう人もいました。コロサイ2:18では、「御使い礼拝」を喜んでする者たちがいたことが記されています。また、黙示録を著したヨハネは、彼自身が天使を前にした時の体験談を記しています。

黙示録22:8 これらのことを聞き、また見たのは、私ヨハネである。私は、聞いたり見たりした後に、これらのことを示してくれた御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。22:9 すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。」 

 イエス様の内弟子、使徒であるヨハネでさえ、御使いを前にして礼拝しようとしてしまったのです。しかし、御使いは否定しました。そして、ただ神だけを礼拝せよと命じたのです。理由も9節に述べられています。

「いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです」と。御使いは「しもべ」に過ぎないのだと言いました。人より優れた力を持っているとは言えますが、イエス様に仕える「しもべ」の立場なのです。天使と同様に、太陽も月星も、山も海などの大きな存在であっても、人知を超えた大きな存在だからと、心奪われて神のように拝んではならないのです。それらはすべて、神様がお造りになった物なのですから。

 ゆえに、神々しく思えたとしても、それらは礼拝されるべき存在ではありません。それらが素晴らしいなら、それらを造られたお方を礼拝すべきであるのです。私たちが唯一礼拝すべきお方は誰でしょうか。神様おひとりです。御子は、その神ご自身でいらっしゃいます。このことは、本日のみことば、6節でも明確にされていますよね。 

6  そのうえ、この長子をこの世界に送られたとき、神はこう言われました。「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。」 

 立場の違いが明確です。御子である方にひれ伏せと御使いに命じておられるのです。これらは、マタイの福音書3章から4章にかけて明確にされています。

イエス様が公生涯のはじめにバプテスマを受けた時のことでした。天から声があり、こう告げたのです。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と。まさに、「わたしの愛する子」と父なる神様が宣言なさいました。その後、イエス様は御霊に導かれて、悪魔の試みを受けるために荒野へと行かれました。そして、悪魔の試みの二番目にこのようなものがありました。悪魔は、イエス様を神殿の高いにところに連れて行き「飛び降りてみよ」と言います。御使いがあなたを支えるかどうかを試してみよと言うのです。これはまさに、イエス様に御使いたちが本当に仕えているかを試してみよと言う試みでした。「試す」ということは、確信がない証拠になります。確信がないから試します。しかし、イエス様は確信がありますから、試す必要などありません。むしろ、神を「試みてはならない」と平然と悪魔を退けました。こうして悪魔の誘惑を退けた後、ある事が起こりました。何が起こったのでしょうか。「すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。」とみことばは語っています。今日のみことばの通りです。御使いたちが近づいて来て、人となられたイエス様に仕えたのです。

これが神の子イエス・キリストなのです。これらのことから分かりますように、イエス様こそが、まことの人であり、本物の神の御子です。力ある様々な天使たちでさえ、イエス様の足もとに及ばないのです。私たちがひれ伏すべきお方はただおひとり、このイエス様だけですよね。私たちは、肉体を持っていますから、この世に身を置く者です。しかし、世に身を置く者であっても、この世の奴隷にならないようにしたいのです。 

イエス様を信じて間もない、学生の頃のことです。礼拝に対する姿勢もまだ未熟でした。夜更かしをして朝寝坊したため、礼拝を欠席したことがありました。しかも、理由は「風邪を引いたので」ということにして。単に自分の遊びや趣味を優先して、夜更かしした結果起きれなかっただけなのに、悪い子です(笑)。「礼拝」は、そこに最高の価値を置く姿勢です。神様を第一とするという姿勢が礼拝の根本姿勢ですが、私は自分の欲にひれ伏し、ウソまでついたわけです。それは、天使にひれ伏すよりもある意味では悪いもので、結果的に罪にひれ伏し、悪魔に従ったということでしょう。

神様を礼拝することは、形の前に、このような心の姿勢が問われることですよね。

 

 そして、このような多くの力ある天使もひれ伏すお方が、私たちのために人となられてこの地に来られたのです。どの名よりも優れた名、「わたしの愛する子」と父なる神に呼ばれるお方。この神である方が、私たちの隣人となられたのです。こんなに素晴らしい救いはありません。

216-18節で、御使いとの関係も絡めて、このように語られています。

16  当然ながら、イエスは御使いたちを助け出すのではなく、アブラハムの子孫を助け出してくださるのです。 アブラハムの子孫とは、アブラハムのように神を信じる者たちのことです。御使いは「イエス様のしもべ」ですから、イエス様と一緒になって私たちを救うために奉仕する存在なのですよね。 17  したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。 滅びから救うために、御使いさえひれ伏すお方が、すべての点で兄弟姉妹である私たちと同じようになってくださる必要がありました。私たちを罪のさばきから救い出すために。イエス様は、「人間の代表となって」さばきを受けてくださったのです。18  イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。 私たちのように弱さを担ってくださったから、私たちの弱さがわかるのです。弱さを知る者だから、弱さを持つ私たちを助けることができます。

 御使いがひれ伏す御名を持つ方。この方が、喜んで弱さを担ってくださった。私たちを愛するゆえに。だから、私たちはこの方について行くのです。もうイエス様について行こうと決めたのなら、わき見をやめましょう。この世の奴隷、環境の奴隷にならず、イエス様にのみひれ伏すのです。人の顔色を伺う歩み、暮らし向きの自慢、見栄や虚勢を張るようなこの世の虜になる生き方をやめましょう。

 「ただ十字架のイエスにあり」との賛美曲に、こうあります。「この世の富も誉も何をも 私の心奪うものはない いつまでも」と。私たちの心を占めるのは、ただ十字架のイエス・キリストのみです。「恵みとあわれみ、いつくしつみ すべては ただ十字架のイエスにあり」と歌詞は続く。そして、だからこそ、主イエスの御名をほめ歌うのです。

 キリストの代わりはありません。この世の朽ちていくもの、富や誉れや人の評価、評判。それらは、決してイエス様の代わりにならないのです。神のひとり子、救い主イエスだけを礼拝しましょう。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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