*** 10/23(水)祈祷会 説教概略 ***
俳優の西田敏行さんが亡くなりましたね。人はいつ病や事故に見舞われるか、あるいは死を迎えるのか誰にもわかりません。ですから、生きている間に、語られている間に、今日という時に、機会を拒まないことが本当に大切です。語られているみことばを拒まず、その恵みに生きていきたいのです。
与えられている賜物、奉仕の機会も、私たちが拒み続けるなら、やがて他の人にそれらの恩恵、機会は移っていきます。奉仕ができることも当たり前ではなく、させていただくものです。みことばもまた、当たり前に与えられているのではない。
ある上の世代の牧師と話していたら、病気で片目が見えなくなってきているとのことです。そして、もう一方もそうなれば、字は読めなくなり、説教もできないだろうとおしゃっていました。求めてもできない、得られないという事も起こりえます。できる時に、機会を十分に活かして悔いのないようにしたいと願います。
今ある機会、日々与えられている恵みの機会を本当に大切にして参りましょう。
特にここでは、神のことばを十分に聞く機会のあったイスラエルが、それを繰り返し拒絶してしまった歴史が旧約引用のかたちで語られています。そして、それはこの手紙が書かれた当時、キリストの福音を聞いたユダヤ人たちへの警告ともなっています。神の救いの計画を聞いていた恵まれた者たちです。12節にありましたように、人種の区別も一切ありません。ユダヤ人も、福音を受け入れれば、例外なく救いにあずかることができるのです。それなのに拒んだというわけです。それで、パウロは18節でこう語ります。
18節 では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、むしろ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」のです。
「全地に」「世界の果てまで」とは、当時の地中海地域に、キリストの福音が十分に伝えらえていたことを指しています。その地域にいた多くのユダヤ人たちは、この福音を聞いていながら、拒み続けてしまったのです。神様は熱心に求愛し、語りかけてくださいました。21節にもこうありますよね。「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反攻する民に対して。」と。神様がずっと手を差し伸べてくださったのです。
ご自分の御子をも惜しまず与えるほどの愛です。犠牲をもって救いの手を差し伸べたのです。しかし、神の御子をさえ拒むのであれば、もはやそれ以上の道は残されていないのです。
現代においても同様のことは起こりますね。クリスチャン家庭に生まれ、教会に通い、自分の聖書を持っていたとしても、福音を信じて受け入れるのでなければ、せっかくの機会が生きません。多くの人から祈られ、愛され、伝えられてきたとしても、その人自身がイエス様を救い主として信じるのでなければ、頑なに拒むのなら救いを得ることはできません。
またクリスチャンたちも、教会に来ている、絶えずみことばが語られている、交わりの機会もある。それをできる時に大切にしないなら、取り去られることがあるのです。
神様はご自身の素晴らしい恵みを拒んで欲しくないので、繰り返し警告をなさっているのです。詩篇95:7-8では「今日 もし御声を聞くなら あなたがたの 心を頑なにしてはならない。」とあります。ヘブル書でも、この箇所を引用し、繰り返し、信じない者にならないようにと警告をしているのです。神様は、御声を聞く機会が与えられたなら、心を頑なにしてはならないとおっしゃいます。救いの機会を大切に、恵まれる機会を大切にせよと。
機会がいつまでも当然にあるとは限りません。特にユダヤ人たちは、このことを昔から警告されてきたということなのです。パウロは、モーセやイザヤを通して語られた主のみこころについて引用し、ユダヤ人たちが拒んだ問題について、語っています。
19節 では、私は尋ねます。イスラエルは知らなかったのでしょうか。まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者たちであなたがたのねたみを引き起こし、愚かな国民で
あなたがたの怒りを燃えさせる。」
ここにある「民でない者たち」とか「愚かな国民」とは、異邦人を指しています。しかし、これは神様がそのように呼んだのではありません。イスラエル人たちが、そのように異邦人を見下して呼んでいたのです。神様は、彼らが見下している者たちに、ご自分の恵みを与えるようになさったのです。
それは、イスラエル人たちがあまりにも頑なに拒んで、偶像礼拝を繰り返してきたからです。自分たちが尊ばなかったことへの報いでした。20節でもこうありますね。
20節 また、イザヤは大胆にもこう言っています。「わたしを探さなかった者たちにわたしは見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。」
「大胆にも」と断りがあります。イザヤは多くの同胞から憎まれたことでしょう。イスラエル人が「神を求めて来なかった者」と蔑んで呼ぶ「異邦人たち」に、神がご自分を見出されるようにされたと語るのですから。
けれども、そこに意味があったのです。自分たちが見下していた相手に、神の恩恵が移ったことにイスラエルは怒り、嫉妬しました。まさか、神の恵みが去って、見下していた人々に移っていくなど思いもしなかったのではないでしょうか。自分たちは選ばれた民だという甘え、驕りがあったのです。
だからこそ、そうした痛みが時に必要なのかも知れません。悔い改めの機会となるでしょう。その「嫉妬」さえも用いて、主はイスラエルの民を立ち返らせようとなさるのです。
これらは、ルカの福音書15章にある「放蕩息子」のたとえ話を思い起こすと理解が深まります。町で散々遊んでいた弟息子は、異邦人の姿でしょう。父親の言うことを聞かず、家を出て遊びほうけていたのです。一方、兄息子は、お父さんの言いつけを我慢して守り、形の上では従っていた。だから、家出していた弟の帰りをお父さんが大喜びし、お祝いしている姿を見て嫉妬したのです。我慢して従っていた兄からすると、面白くないのです。「なぜ、父を求めていなかった弟が急に戻って来て、父からこんなに良くしてもらえるのか」と怒ったのです。
放蕩息子のたとえ話は、イザヤ同様に、神の民ユダヤ人への大胆なメッセージであると言えるでしょう。実に、イエス様がこのたとえ話を話した相手は誰でしょうか。パリサイ人、律法学者たちです!!イエス様は彼らに語っているのです。異邦人の救いを願う者となって欲しい。そして、「あなたがたもこの恵みを十分受けてきたのだ。そのことに気づいて、受け取りなさい!与えられている恵みに目を開きなさい!」と伝えたかったはずです。
このように、恵みの主のすぐ近くにいながら、この方をまるで見ていないならば、恵みもまた離れていきます。ユダヤ人は、神様のすぐそばに置かれ、みことばをあまりにも豊かに、直接的に聞く機会が与えられてきました。しかし、彼らは聞き従わなかったのです。全く聞かない人々のところに語り続けるのはもったいないことですよね。ですから、聞く人に与えられていくようになるのです。
私たちも今ある恵みを大切にしたいのです。せっかくの恵みの機会があるのに、それを大切にしないなら、取り去られてしまいます。アモス書では、「みことばを聞くことの飢饉」というものが語られていますね。与えられているのに、受け取らないなら、奪われていくことがあるのです。そして、より聞き入れる人に与えられていきます。タラントのたとえもそれを物語っていますね。与えられているのに、その価値を活かさない場合。より用いる人に任されていくというのです。
教会堂も、働き人も等の人材も、賜物も、本当に求めてられているところに主が置かれるのではないでしょうか。尊ばれないところでは用いられませんので、主ご自身が他へと移されることもありますよね。イエス様もご自分の郷里に行った際には尊ばれず、力ある働きができず、そこを離れることになりました。郷里の人は大損をしてしまったのです。
私たちも今あるものを当たり前と思わないようにしたいのです。与えられている恩恵を大切にしたいのです。感謝を忘れ軽んじ、尊ばなくなれば失うことがあり得ます。私たちはそうではなく、主が「ますます与えたい!」思ってくださるような一人一人、交わり、教会となっていきましょう。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会