*** 10/30(水)祈祷会 説教概略 ***
「神のなさることはすべて時にかなって美しい。」と伝道者の書にあります。神様の御計画はいつでも深く豊かで、人間の想像を余裕で超えてみわざがなされます。救済の歴史においてそれは顕著です。そもそも神の御子が十字架で死刑にされることによる救いなど、誰が考えたでしょうか。人の予想や想定を超えるところに、神様の摂理があるのです。こうした神様の救いのみわざを覚え、ただ主を驚き仰ぎ見てあがめていきましょう。
パウロは神様の深遠な救いのご計画を、どうにかユダヤ人にも異邦人にも理解してもらおうと、ことばを尽くして説き明かしています。1節をご覧ください。
1節 それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。
多くのユダヤ人が救いを受け取れていないという現実の中でも、パウロは神様が決してイスラエルを退けたのではないと強調します。パウロはまず自分自身が生粋のイスラエル人でベニヤミン族であると出身部族まで明らかにしています。そのパウロが今、紛れもなく恵みによる救いを受けているのです。それどころか、異邦人に福音を伝えているのは、イスラエル人であるパウロなのです!
2節でも、繰り返し、神様がイスラエルを退けたのではないことを確認しています。そして、その根拠として、エリヤに対して神様が語られた場面を引用しているのです。エリヤは、多くのイスラエルの預言者たちが殺され、孤独になった時に、嘆くようにして神様に訴えました。多くの預言者仲間が殺され、祭壇までも破壊された。そして、自分だけが残ったと神様に訴えました。3節です。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています。」
さらには、その残り一人となった自分もいのちを狙われ、風前の灯火であると嘆いていたのです。しかし、その後エリヤを励まされた神のことばにパウロは着目し、紹介しています。
4節 しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」
あなた一人などではない。神様はここにあるように、バアルに従わなかった者たちを多く残していると語られたのです。男子だけでも7,000人ですから、エリヤにとってどれほどの励ましになったことでしょうか。これと同じように、今のこの時代にあっても、イスラエルの人々が全員イエス様を信じなかったわけではありません。5節です。
5節 ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。
多くの者がキリストに反対して、従おうとしなかったとしても、神様はやはりイエス様を信じて忠実に歩むイスラエル人たちをも用意しておられるのです。これは10章21節で「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反攻する民に対して。」とあるように、反攻的で不従順な者であるとわかっていてさえ、ずっと手を差し伸べ続ける主でいらっしゃることからも分かります。そして、5節に「恵みの選び」という表現があります。イスラエルがどれだけ不従順で、福音を拒んできたとしても、主は恵みをお捨てにならず、その恵みを受けとる者たちは誰でも招かれます。
選びというのは、神様の主権です。神様がお決めになることで、神様の側の恵みを強調しているわけです。「私たちは自分で選んだのではなく、神様が選んでくださった。」と表現できます。
ここには、人間の理解を超えた神の最善の計画があります。人間の自由な意志によってキリストを信じることができると同時に、神の選びによって召し出されてもいるということです。それは人には分かり切らない、不思議なみわざです。そして、6節にあるように、当然ながら「人の行いの成果ではない」ということなのです。イスラエルの救いというものも、本人たちの自由な意志は尊重されつつ、けれど、大前提として神の選びと招きがなければ話にならないのです。キリストの十字架の死と復活という素晴らしい救いの基盤があるから、信じて救われることができますよね。私たちの側で「完全ないけにえ」を用意することはできないのです。ただ、主の恵みとあわれみによる救いです!
そして、パウロがここでいよいよ伝えようとしていることは、次のことです。
イスラエルの多くの人々が救いを拒んだことも、神様によって益とされていること。特に、異邦人にとっては救いの知らせが巡って来る大チャンスとなったわけです。
7節 では、どうなのでしょうか。イスラエルは追い求めていたものを手に入れず、選ばれた者たちが手に入れました。ほかの者たちは頑なにされたのです。
イスラエルは6節にあるように、自分たちの行いによって求めたので、追い求めていたものを手に入れられませんでした。しかし、その結果、宣教は異邦人に向かって前進して行くのです。そういう意味で、この節の「選ばれた者たち」とは異邦人のことです。異邦人たちもまた、神の恵みを受け取れるのです。イスラエル人たちは確かに自分たちで心を鈍く頑なにして、拒んだのですが、それは同時に神様のご計画でもありました。
8節 「神は今日に至るまで、彼らに鈍い心と見ない目と聞かない耳を与えられた」と書いてあるとおりです。
「神が・・・与えられた」とあります。拒んだのは人間なのに・・・です。人間は自分の意志で受け取ったり、拒んだりしているように見える。そして事実そうなのですが、その背後には神様のご計画が確かにあるのです。
旧約聖書の時代においても、エジプトのファラオが心を頑なにしたことを主が用いて、十の災いをもたらし、人々はかえって神の偉大な力を見ることになったのです。結果として、神様の大いなるみわざが幾つもなされ、その出来事を知った異邦人たちが神様を信じるようになり、この民に加えられたのです。エリコの城壁で協力してくれたカナン人のラハブはその一人でした。彼女が救い主イエス様の先祖という恩恵にさえ与っているのは、まさに主の深いご計画です。
パウロはダビデ編纂の詩篇も引用して、次のように語っています。9-10節
9節 ダビデもこう言っています。「彼らの食卓が、彼らにとって罠となり、落とし穴となり、つまずきとなり、報いとなりますように。
10節 彼らの目が暗くなり、見えなくなりますように。その腰をいつも曲げておいてください。」
食卓というのは神様からの恵みですよね。そのような良い恵みを囲んでいたのに、それを受け入れない時に、それが罠、落とし穴になるとは悲しいことです。
ところが、神の救いのご計画はここでも終わりません。神様の救いの道は、一度異邦人に向かって大きく開かれましたが、イスラエルの人々にもなお一層広く開かれるかたちになったのです。10章19節で、神様はイスラエルに妬みを引き起こしたことが語られていました。実に11章11節でも、イスラエルがつまずいたのは、倒れるためではなく、救いが異邦人に広がることによって、妬みの心を引き起こし、なんとかして神の救いに立ち返るためであったと分かります。もっと言うならば、イスラエルの人々が心を頑なにすることもまた、神の壮大な救いのご計画の一部であり、そうして異邦人が次々救われ、イスラエル人が怒ることもまた、主のご計画なのです。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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