東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【11月】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/10/31

毎日の聖書【11月】

 1日 マタイ3章
 11節。バプテスマのヨハネは、水による「悔い改めのバプテスマ」を授けていたが、主イエスは水のバプテスマではない。聖霊と火によってバプテスマを授けるとヨハネは語っている。水による洗礼は、信じている者の公のしるし、証しとしての意味を持つ。しかし、キリストは、聖霊に満たされる信仰生活を与え、罪や汚れをきよめる火のバプテスマを授ける(12)。それは内側からのきよめであり、人が霊的に変えられていくことだ。キリストによる洗礼は、外側のしるしで終わらず、内側から変えられていく力だ。ヨハネはそのことから、自分はこの方の履き物を脱がせる資格さえないと謙虚に語る。それほどに、イエス・キリストの救いの力は圧倒的なのだ。私たちもキリストの救いの恵みを豊かに知り、まさに内側から変えられていく者とならせていただこう。


2日 マタイ3章
 13節、イエスはヨハネのもとに来た。彼からバプテスマを受けるためだ。ただ、ヨハネは自分の小ささイエスの偉大さを知っている。11節にあったように、ヨハネはイエスの履き物を脱がして差し上げる資格すら持っていないと自覚している。だから、14節では、「そうさせまいとして」言った。「私こそ」あなたからバプテスマを受ける必要がある者だ!と。
 しかし、主イエスは驚くほど謙虚である。仕えられるためではなく、人々に仕えるために来られた救い主である。主イエスは神の栄光を後にして、私たち人間と同じようにバプテスマを人の手によって授けられる立場となってくださった(15)。私たちと同じになるため。私たちの弱さを担い、私たち人間と同じように信仰生活を送るためである。
 なんというへりくだりだろうか。私たちも自分の意地やプライドにしがみついてばかりいられない。キリストを仰ぎ見る時、「愛によるへりくだり」がある。

3日 マタイ3章
 16節で、イエスはバプテスマを受けたが、その時に天が開け、神の御霊が鳩のようにイエスの頭上に降ったことが語られている。そして、17節にあるように、天からの声があった。これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」という声だ。これはもちろん、父なる神の御声である。神はどんな御使いにもこのようには言われなかった(ヘブル1章)が、主イエスに対しては、ご自分の愛する子であることを明確に宣言なさったのだ。ゆえに、これらは他の人々がバプテスマを受けた時には起こらなかったことだ。主イエスが、まことの神の御子なるお方であることを示している。
 だが、私たちは忘れてはならない。神がこのように宣言されたお方(主イエス)が、何のために来られたのかということを!この方が、私たち人間のために何をしてくださったのかということを!神はその喜ばしい愛する子を、私たちを救うために犠牲になさったのだ身代わりとなさったのだ。だから、実に、私たちこそ、神が愛している子であり、神は私たちを喜ぶのだ!

4日 マタイ4章
【1節 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。 興味深い内容である。「悪魔の試みを受けるために」と語られている。荒野にわざわざ上って行かれた理由は、悪魔の試みを受けるためであった。しかも「御霊に導かれて」のことだ。つまり、御霊に導かれると、必要に応じてではあるが、「悪魔の試み」を受けさせられることもあるのだ。私たちが罪を犯したことによる罰としてではない。むしろ、御霊によって、神のみこころがなるためである。しかも、2節によれば、四十日四十夜の断食までセットであり、ますます主イエスは苦しい極限に置かれることになったはず。舞台は整い、試みる者、すなわち悪魔が近づて来て来た(3)。しかし、結論は明白だ。悪魔はその意に反して神の計画に用いられてしまうのだ。ヨブの時のように。ヨブは苦しんだが、人生の後半さらに神と親しく歩み、祝福された。神は私たちを育てようと、試練をくださる。御霊によって!神を信頼して成長していくチャンスであることを忘れないでいよう。

5日 マタイ4章
 荒野の試みにおいて、極限の空腹となった主イエスに、悪魔は語りかけた。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」(2)。主イエスには、石をパンになるよう命じることは、容易いことであっただろう。容易く、手軽な方法というのは流されやすい。私たちも例えば、何か困ったことがあると「ググる」という行動に出る。ネットでとりあえず調べてみるわけだ。場合によっては祈るより先に、インターネットの情報に頼ってしまうことだろう。主イエスはこの試みに対して、私たちにキリスト者の生きる道を示している。3節である。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」と、みことばを引用して、神のみこころを明らかにした。私たちもまた、主のみことばによって生きよう。

6日 マタイ4章
 悪魔はイエスを神殿の高いところに連れて行き(実際にではなく、そのような幻を見せた?)、イエスに言った(5)。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。    『神はあなたのために御使いたちに命じられる。    彼らはその両手にあなたをのせ、    あなたの足が石に打ち当たらないようにする』 と書いてあるから。」と(6)。詩篇91篇のみことばの引用だ。神が天使を使って守ってくれるか試してみよというのだ。悪魔はみことばを悪用して誘惑をする。だが、「悪用」と書いたように、これは間違った勝手な解釈からくるものだ。元々、この詩篇は、神への深い信頼」を表明しているみことばである。それを意図的に捻じ曲げて用いて、「神が助けるかを試してみよ」とは、不信仰に導く誘惑そのものだ。だから7節でイエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」と。みことばの曲解から守られる道は、聖書全体から理解することだ。しっかりと文脈を考え、聖書全体の主張と照らしていけば、悪用から守られる。神を試すのが信仰ではなく、神を信頼するのが信仰であることを知ろう!信頼する相手を試すのは、むしろ失礼なことだ!

7日 マタイ4章
 8節。悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行った。高さは名誉、地位の象徴であろう。世的な繁栄だ。悪魔は、この世のすべての王国と栄華を見せて誘惑した。9節、「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」と。この世の栄光・栄華を第一に求めてしまう時、それは知らないうちにサタンを拝んでいることになる。ただ、そこまで名誉や地位が欲しいとは思わない者もいる。イエスにとっても、誘惑にならないのではないか?とも思われる。これはなぜ誘惑になったのであろうか。それは十字架の苦しみを抜きにして、世の支配者になる道を安易に手に入れられるからではないか。十字架の道はそれほどに厳しく困難である。ただ悪魔にひれ伏せば、十字架の道をやめて世界を治められるというのだ。だが、イエスはあなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。」と、みことばをもって返した。例え厳しい道に思われても、私たちは主の道を行こう。弱さも何もかも抱えたままでいい。ただ主にだけ仕えよう!世の栄華など比べものにならない神の幸いがある!

8日 マタイ4章
12節 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。13節 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。  
 ゼブルンとナフタリの境にある湖とは、いわゆるガリラヤ湖である。このガリラヤ湖のほとりに、カペナウムという町があり、そこにイエスは住んだ。これらのイエスの行動もまた、旧約聖書の預言通りであった。クリスマスにしばしば読まれるイザヤ書9章1-2節からの引用をもって、マタイはこの出来事を預言の成就として語る(14)。異邦人が治めており商業が盛んな町「異邦人のガリラヤ」(15)。そこは霊的には「暗闇」であった(16)。だが、そこに住む人々は大きな光を見ることになった。主イエスは光である!「光があるから影ができる」という発想は正しくない。人の世界はもともとが闇なのであって、光に照らされたところから光の世界へと変えられていくのだ。

9日 マタイ4章
 主イエスはカペナウムで生活し始めた時、宣教を開始した(17)。そして、ガリラヤ湖のほとりを歩いていた時に、二人の兄弟ペテロとアンデレを見つけた(18)。他の福音書によれば、この時が最初の出会いではなく、すでにイエスの弟子として歩み始めていたことがわかる。とはいえ、彼らは献身はしておらず、漁をしながらイエスに従っていたのだ。その二人に、ついにイエスは言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と(19)。 漁師をしながらイエスから学ぶことは、誰でもできたであろう。自分の仕事を持ちながら教会で学び、時々奉仕をするようなものだ。ところが彼らは、20節で「すぐに網を捨ててイエスに従った」とある。網は漁師にとって非常に高価で大切な商売道具だ。それを捨てるとは、イエスに対する全面的な信頼の姿勢である。私たちは何かの保険を持ちながら、イエスに従うことがほとんどだろう。ぜひ心から信頼してついて行きたい。

10日 マタイ4章
 イエスはまた、ゼベダイの二人の子ヤコブとヨハネが舟の中で網を繕っている姿を見て、弟子として招かれた(21)。この21節では、「お呼びになった」と語られている。神が招き、呼んでくださることがなければ、私たちは献身できない。主イエスが必要とされ、その招き(Calling)があって初めて主の弟子として、献身者として応答して歩むことができる。呼ばれて応答することが必要なのだ。やる気や能力の問題ではない。神が選び、その選びに対して忠実に応答するかどうかが問われる。22節には、ヤコブとヨハネがその招きに忠実に応答した姿がある。「彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った」と語られている。「すぐに」とあり、彼らが散々時間をかけてではなく、主がお呼びになったことに対して「はい、主よ」と即座に応答したことを示す。そして、仕事である「舟」と、肉親である「父親」を後にして、イエスに従った。それも万事主が備え、整えてくださるとの信頼ゆえである。

11日 マタイ4章
 主イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えられた(23)。主イエスに教えていただけた者たちは、どれほど幸いであったことだろう。神ご自身から教えていただいているのだから、その教えは完全であり、誤りなくみことばが説き明かされたことだろう。なお、「福音」とは、神の国に入ることができるという救いの道の良き知らせだ罪を悔い改め、キリストを信じるなら誰でも救われるという、最良の知らせである。それだけでなく、主はあらゆる病を癒された。それでイエスの評判は、シリア全域に広まり、多くの人がイエスのもとに集まってきた。イエスはことばだけでなく、実際に人を救う力のある方である。病の癒しは、主イエスに罪を赦す神の力があることを証明する一つの方法でもあっただろう。キリストにある権威、神の力を示すものだ。ことばが信じられないならば、わたしのわざを信じよと主は言われている。主はことばだけの方ではない。事実、病からも悪霊からも救い出す力を持っておられたのだ!主に全幅の信頼をもって歩もう!

12日 マタイ5章
3節 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
 幸せの使信と呼ばれるところ。原文では、「幸いなことよ!」と始まるので、非常にインパクトがある。その幸いなのは、どのような人なのだろうか。心の貧しい者であると言う。内容的にもインパクトに満ちている。では「心の貧しい者」とは、どういう者なのだろうか。それは、神なしでは満たされることがなく、飢え渇いていると認めている人である。平安がなく、愛に渇き、汚れきっていて、神なしでは幸せになれないと悟る者だ。この自分の貧しさに「気づく」ということが、「神に求める」ためには必要不可欠である。自分はもう満たされ、完璧だと思う者は、それ以上に豊かにされることはない。神を求められないなら、天の御国に入ることもないだろう。だが、自分の貧しい心を認めることはカンタンではない・・・。プライドがあるからだ。プライドを脇に置き、素直に認めることから始めたい。

13日 マタイ5章
4節 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
 一見、喜んでいる人の方が幸せに思える。だが、聖書は祝宴の家に行くよりも、喪中に家に行くほうが良いと教えることさえある(伝道者7章2節)。死と向き合い、生きていることの尊さや、自分の人生について本気で考える機会となるからだ。ここでも、悲しむ者は幸いなのは、「真の慰め」を受けられるようなるからだ。自分の罪深さ、心の中にある闇を見て、深く悲しみ、胸を痛める者は、神の救いの光を必死に求めるだろう。神はそのような者に、この世的な安易な慰めではなく、永遠に失われない慰めを与えてくれるのだ。安易な喜びに飛びつかず、自らの無力さや弱さを悲しみ、そこに現れる神の慰め、励ましを存分に味わっていこう。今まで見えなかった新しい景色が見えて来るから!

14日 マタイ5章
5節 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
 柔和であるとは、生来の性質ではない。御霊の実りであり、変えられていく中で培われる性質だ。それはイエスの中に見られる性質でもある。持っている力があるのに、愛のゆえにその力をセーブできる姿勢である。自分の力をひけらかすのではなく、他の人が活躍できるようにあえて力を控えることができることである。この世界の土地は、世的な価値観では金持ちや力がある人々の物だと考えられている。実際そう見えるかも知れない。だが、神は、愛に生きて、人々に寄り添うことのできる柔和な者に、最終的に任せてくださるのだ。力で勝ち取る者は、やがて力で奪われる。しかし、人から信頼され尊敬される柔和な人には、土地の方からやって来さえするのだ。

15日 マタイ5章
6節 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
 ここで言う義とは「真の義」のことであり、それはもちろん「神の義」だ。人間の正しさではなく、神が持っておられる正しさである。それがぶれることがない完全な正しさ。そうした神の義がこの世界になるようにと渇望し、祈り求める者は幸いに違いない。この世界の正義そのものが歪みきっているからだ・・・。一見正しそうに見えても、その裏には多くの利害があり、まやかしがあり、騙しがある。片方の正義を主張すれば、片方は悪者になるが、多くの場合、神の前にはどちらにも非があるものだ。この世界を見渡し、本当の義がないことに気づき、神の義が世界に満ちるよう祈り求めよう。その人たちは、満ち足りる。なぜなら、それは必ず実現するものだからだ。

16日 マタイ5章
7節 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
 6節までは神に求めて行く姿勢について教えられていた。しかし、ここでは対人関係についての教えになっている。聖書が語る「あわれみ」ということばは、感傷的なもの、情緒的なものが中心ではない。それはかなり行動的なものである。それはつまり、実際の「行動に現される愛」を指しているのだ。単なる同情など誰もいらないだろう。もし、本当にあわれみの心を持っているなら、実際にあわれみの行動で助けるべきである。そして、そのように生きる人が、あわれみを受けるのは当然だ。神は公平な方だから、そのあわれみの姿勢に必ず報いてくださるからだ。小さな一人にあわれみの行為をしたのならば、それは主イエスにあわれみを示したとカウントされる!あわれみ深い者となろう。その人は、主のあわれみを受けることになるのだから。

17日 マタイ5章
8節 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
 心のきよい者とは、心に色々なものが混じっていない者のことである。混じりけがなく、まっすぐ純粋な状態である。もし、神に向かう心がまっすぐで混じりけがないならば、それは本当に神に喜ばれることであろう。心があちこちに分裂せず、神へとまっしぐらなのだ。この世のこと、様々な心配や思い煩い・・・そうしたもので満ちていると、主イエスがいるべき心の部屋はなくなってしまう。当然ながら、神が見えなくなってしまうのだ。だから、ここにあるように、まっすぐに神を見つめる心のきよさを求めていこう。まずは神に心を注ぎ、様々な思い煩いを神ご自身に投げかけ、ゆだねていけばいい。何はなくとも、まずは神に目を注ぐ。その人は神を見出だし、神の大いなる助けも見出すことになるからだ。

18日 マタイ5章
9節 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
 「平和を愛する者」ではなく、「平和をつくる者」だと教えられていることは最も大切なことだ。平和が好きで、平和を愛しているだけの人は沢山いる。むしろ、誰でも平和を好むだろう。だが、そういう人々が平気で争うのだ。求められている人は、平和のために戦争を起こす人ではない。平和を自らつくり始めて行く人だ。家族との間で平和を築き、隣人との関係で平和を築き、自分の職場や学校で平和を築く人。それは距離を置いて争いがない状態にすることでもない。赦す愛をもって関わっていく者。そして、そのためには、神との平和から始めないといけないのだ。神と和解し、神との平和を持ち、そうして初めて人との平和を築ける、もたらせる。その人こそ、名実ともに「平和の神の子」と呼ばれるのだ。

19日 マタイ5章
10節 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちの物だからです。
 義のために迫害されているとは、どういうことだろうか。それは、神の基準において正しく歩んでいることによって、迫害されている人のことだ。神のみこころにまっすぐ生きているがゆえに、反対や迫害を受ける人。つまり、不誠実に歩んでいたり、社会的責任を果たさないでいたり、人に迷惑をかけるような信仰生活をしていて、注意されたり、強く非難されたとしても、それは「義のために迫害されている」のではないのである。神の前にまっすぐ歩み、人に対しても誠実にあわれみ深く歩み、平和をつくる者となり、つまりはこの幸福の使信を徹底して守り生きているゆえに、攻撃される者だ。それは主のみこころに生きているので、天の御国の相続者になるに違いない。また、神の前に正しく生きて、この世で苦しんでいる分、御国でのご褒美は豊かであるに違いない。

20日 マタイ5章
 13節では、あなたがたは「地の塩」だと語られている。塩はなんと大切なものであろうか。味噌にも醤油にも、その他多くの調味料にも塩は含まれている。塩がなければ、美味しい調味料を利用できないと思うと絶望的である!(少し大げさかも知れない!)。そう思うと重要さはよくわかる。それに加えて、塩には腐敗防止の役目もある。塩漬けにするのは食材を長持ちさせるためでもある。そして、13節の後半では、塩気を失った塩は役に立たないので投げ捨てられ、「人々に踏みつけられるだけ」ともある。強い表現だが、塩気を保つことが本当に大切であることを意識させられる。同じように、あなたがたは「世の光」であると言う。明かりは隠れては役に立たない。だから、人々の前で輝かせよと語られている(15)。それは、神の民、キリスト者の歩みが、世の歩みとは大きく異なり、良いものを示し、それによって人々が神を知り、この方をあがめるようになるためだ。地の塩、世の光であることをいつも心に留めよう!

21日 マタイ5章
 マタイはユダヤ人たちを意識して福音書を書いている。だから、主イエスが律法や預言者を廃棄するためではなく、完成させるため、成就させるために来られたと言われたことばを大事に伝えている(17)。天地が消え去るまで、律法の一点一画も消え去らないとも言われている(18)。ただ、私たちは律法を守り切ることなどできない。むしろ、私たちの罪深さを知らされるために、律法が与えられているとも言える。それで、イエス・キリストを信じて、義とされることが必要なのだ。「義とされる」とは、神の律法にかなっていることを意味する。自分では律法に適わない私たちであると認め、律法と預言の完全な成就者である、義なるキリストを受け入れることで、私たちも義としていただくのだ。それによって天の御国に入らせていただける(20)。キリストの義は、人が成し遂げる義よりずっとまさっているのだから。

22日 マタイ5章
 十戒において「殺してはならない」と教えられており(21)、それは現代日本の道徳的にも決してあってはならないものとして認識されている。だが、イエスはもっと踏み込んで教えている。22節で「兄弟に対して怒る者」、『ばか者』『愚か者』と言う者」は、明確にさばかれるべきであると教えている。私たちは実際に手を下さなくても、人を自死に追いやるということさえできてしまう。心を殺すようなことばや態度である。そのような人格を否定するようなことば、人の心を殺してしまうような態度は、神の前にどのように見えているのだろうか。肉体のいのちさえ奪わなければ、何をしてもいいのか。神の前にそれらは皆、大きな罪として見えている。だから、23-24節がある。祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟に恨まれていると気づいたなら、それを置いて仲直りせよと。そのような姿勢の礼拝を神は喜ばれないのだ。心もからだも主にささげるのが真の礼拝だ

23日 マタイ5章
 やはり十戒を引用しながら主イエスは教えられた。十戒では、『姦淫してはならない』と教えられているが、もっと踏み込んで教えられた。28節で、「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」と言われた。これは、人目に見える上辺を繕う天才だった律法学者、パリサイ人たちにとって、かなり衝撃的な教えだ。だが、実際にところ、我々の罪は外的なものではなく、より内面的、心が問われるものだ。特に「姦淫」ということばは「二心」という意味がある。それは、心が分かれて、どっちつかずにある状態だ。その状態では愛すべき人をまっすぐに見ることが難しい。つまり、姦淫してはならないという教えは、禁欲主義的な教えではななく、本来、愛すべき相手を本当に愛することができるよう助ける教えである。神を愛するにも、人を愛するにも、姦淫の心ではなく、まっすぐな心で愛せるようにと願う。主の教えに生きる者は、幸いである。

24日 マタイ5章
 34節で誓ってはならないとある。天であろうと、地であろうと、あるいは自分の頭にかけてであろうと誓ってはならないと。つまりはどこであろうと、神が見ておられるから、安易な誓いをしてはならないのだ。誓い自体は旧約聖書に記されており、それ自体が悪いわけではない。しかし、人は弱いので、しばしば誓いを軽んじてみだりに誓って、自分を正当化するようなことがあった。だが、誓いとはそもそも日常的なものではない!重大な節目の際に、大切な決断と決意を表明して、誠実に生きていくものだ。それで、37節では、普段の歩みで誓いを安易にせずとも、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とすれば十分であることが語られている。むしろ、「誓わなくても、あの人なら信頼できる!」と思っていただける歩みこそ、主のみこころなのだ。

25日 マタイ5章
 39節で、「悪い者に手向かってはいけません」という教えは、素直に受け入れがたい。「悪い者にはさばきを!報いを!反撃を!」と思ってしまうものである。だが、人がさばき反撃をすれば、往々にしてやり過ぎる。だからこそ、旧約から『目には目を、歯には歯を』と教えられていた。それは相手に報いを受けさせる限度を定めた教えである。怒りに囚われると、倍返ししないと気が済まないのが人間である。だから、片目を傷つけられたら、相手の片目を傷つけることまでしか許容されなかったというわけだ。だが、主イエスは、神の民であるなら、その教えを守ることの上を行って欲しいと期待された。それは、もはや「やり返さない」ことであった。これは神の愛に本気で生きることがないと難しい。だが、そのように生きた時の力は絶大だ。復讐して当然の時に、手向かわず神にゆだねる姿勢は、すばらしい証しになり、キリストの愛を表すことになる。人の心を動かし、神の救いを見ることにもなるだろう!

26日 マタイ5章
 44節で、主イエスは自分の敵をも愛し、その者のために祈るように教えられた。とても難しい教えである。だが、同時にこれを求めてくださる神に心から感謝すべきではないか。この教えによって、憎しみや復讐から守られた者がどれほどいるだろうか。あるいは、この教えに生きたゆえに、人を救うために用いられた人もいるだろう。しばしば、「そのままのあなたでいい」という愛のことばに、私たちは甘えすぎてしまうことがある。しかし、神は無条件の愛で受け入れつつ、同時に私たちにより豊かな生き方を期待しておられるのだ。中身において天の父の子どもとなり(45)と求めておられる。46-47節にあるように、自分に良くしてくれる人だけを愛するような狭い歩みではなく、敵対する者をも愛するようにと期待し、あなたならできる!と召してくださっているのだ。48節では、「天の父が完全であるように、完全でありなさい」とまで言われる。主はキリスト者に期待し、ご自分に似ることを喜ばれ、さらにはそのために必要な助けまで備えてくださるのだ。

27日 マタイ6章
 人に見せる目的で善行をしないようにと主は言われた(1)。それは、せっかくの善行に対する神の報いを放棄してまうことになるからだ(1)。神からの報いを得られる方がずっと豊かであることは言うまでもない。それでその方法をイエスは教えておられる。2節によれば、「自分の前でラッパを吹いてはいけません」と教えられている。それは宣伝行為を指している。自分がこれだけのことをしたのだと、多くの人に吹聴することだ。それによって「自分の報いを受けている」と語られている(2)。それゆえ、施しをする右手が、すぐ近くの左手に知られないようにせよと教えられている(3)。そうすれば、4節にあるように「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いて」くださるのだ。人に見せるためではなく、すべてを見ておられる神の前に歩んでいこう。

28日 マタイ6章
 5節からは、祈りについての教えである。主イエスの時代、祈りの時間になるとわざわざ広場や街角に出てきて祈りをささげる人々がいた。自分がどれほど敬虔な信者であるかを示したかった。5節では「会堂や大通りの角に立って祈るのが好き」とある。彼らは両手をあげて、いかにも祈っているという姿勢を見せた。それは神に向かって祈っているのではなく、人に向かって祈っているのだろう・・・。それゆえに、隠れたところで祈るよう教えている(6)。また、祈りについての問題として、祈りのことばの長さや、祈りのために払う犠牲の大きさに心を奪われる問題についても教えられている。それは、非常に人間的である。だが、神は祈りの本質、その人の心の姿勢を見ておられる。ことば数は多くなくてよい。祈りの美しさも関係ない。ただ神に心を注ぎ出して祈ろう!

29日 マタイ6章
8節 ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。 父なる神は、私たちが祈る前から、必要なものをすべて知っておられる。だから、神に祈る時に、まるでそのことについて無知な相手に祈るかのように、説明的に祈る必要はない。もっとシンプルに、短いことばで良いのだ。大切なことは、詳しい状況説明をすることではなく、あなたの心を神にまっすぐに向けて祈ることだ。不十分なことばであってもいい。素直な心で、親しく神に祈り求めよう。神はあなたのことばの足りないところ部分も知っていてくださり、うまく表現できなかったたましいの深いところの叫びでさえ、聞いていてくださるのだ。あなたの祈りは届いている。

30日 マタイ6章
長々と目立つように祈る偽善的な祈りの問題を指摘された主イエス。もちろん、問題を指摘するだけではない。ふさわしい祈りを教えておられる。それが「主の祈り」である。
9節 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。 主は、「天にいます私たちの父よ」と祈って良いと教えられた。それはごく親しい交わりの祈りとなる。はるか遠くにいる神に祈るのではなく、天の父に、その子どもの立場で親しく祈れるのだから。そして、その御名が聖なるものとされるようにと。かつては「あがめられますように」とされていたが、2017年版では「聖なるものとされますように」と改訂された。人々からただあがめられるだけでなく、その名が聖なるものとされるように。その祈りは私たちの生活に密接している。「聖」の反対は「俗」「汚れ」であり、それらからの分離を意味する。神を信じる者たちの歩みによって、御名が汚されるのではなく、むしろ聖とされるように私たちは祈ろう。
 


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 

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