*** 11/3(日)主日礼拝 説教概略 ***
人もこの世界も常に変化し、変わらないものはほとんどありません。謙虚で誠実で、優しい人であっても、非常に大きな力を手にし、偉くなったと勘違いすると、人が変わってしまうということがあります。実際、どんなに立派で優れた人でも、「思い通りにできる」という独裁状態が続く中で、少しも堕落しないで変わらずにいられる人はほとんど稀でしょう。
J.R.R.トールキンの書いた「指輪物語」という小説(映画)は有名です。その中で「指輪」は、権力の象徴です。指輪を手にすると、真面目で誠実な人でも、どん欲になり力に固執します。人を信じられなくなり、顔つきまでも変わっていくのです。まさに、強大な力や名声を手にしても一切変わらず、誠実であり続けるとは、なんと難しいことかと考えさせられます。そう思うと、何でもできる能力を持ちながら、世界中の誰よりも謙虚で優しく誠実で、変わることのないイエス様は、なんと素晴らしいお方なのでしょうか。衰えもせず、悪にも流されず、常に愛に満ちておられます。
永遠に変わらないのは主なる神様とみことばだけです。
ここに揺るぎない土台があります。
1.御子と御使いの違い
父なる神様は、御使いに対して語る内容と、御子イエス様に対して語る内容において、大きな違いを設けています。7節で、御使いたちに対しては、彼らを「風」として、あるいは「燃える炎」とすると言われます。「風や炎とする」は、神が彼らを「しもべ」として使役することです。神様はそのような意図で、彼らを造られたのです。最初から「しもべ」として造られ、またその目的に沿って使役される存在が御使いなのです。
その一方で御子について父なる神様はどうおっしゃっているのでしょうか。
8節 御子については、こう言われました。「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。
9節 あなたは義を愛し、不法を憎む。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油で、あなたに油を注がれた。あなたに並ぶだれよりも多く。」
父なる神が、御子に向かって「神よ」と呼びかけています。ですので、この2節とも、「神よ」との呼びかけの部分を、「御子イエス様よ」と置き換えてお読みください。すると俄然わかりやすくなります。このように父なる神様は、イエス様に対して「しもべよ」とは呼ばず、「神よ」と呼びかけているのです。御使いは「しもべ」でしたが、御子イエス様は、ご自分と対等な「神(神性を持つ者)」という立場であることが強調されているのです。9節の「油を注がれた」というのは、神の選びと神の祝福を表しています。神様はご自分が選んで任命した者に油を注がれ、その存在を喜び祝福します。特に、救い主を意味するヘブル語「メシヤ」には、「油注がれた者」という意味がありました。9節最後の「あなたに並ぶだれよりも多く」とは、「あなたの仲間の誰よりも」という意味です。イエス様が、油注がれたすべての者に優るということなのです。
2.永遠に変わらない方
10節では、主イエス様が御使いのように造られた側の者ではなく、創造なさった主であることを再度確認しています。
10節 またこう言われました。「主よ。あなたははじめに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。
これは冒頭の2節で触れられていた世界の創造主であることを、少し異なる言い方で表現したものにもなっています。天も地も、その中にすべてのものも造られた方であると確認しています。そのみわざは壮大で、圧倒的に力あるものです。しかし、造られた被造物は、やがて朽ちていき、あるいは壊れ、また滅んでいくものです。造られたこの世界ですら、私たちが圧倒される豊かなものです。
私が味わったものは少ないですが、例えば、アメリカのグランドキャニオン、カナダの氷河や湖、沖縄のエメラルドグリーンの海、もちろん日本の象徴・富士山も、いずれも素晴らしく、感動するものです。ただ、これだけ素晴らしい物でも朽ちていくものであり、やがて滅びます。しかし、イエス様はまことの神です。この方は滅びるどころか、朽ちたり衰えたり、変わってしまったりすることが一切ないのです。11-12節
11節 これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは、衣のようにすり切れます。
12節 あなたがそれらを外套のように巻き上げると、それらは衣のように取り替えられてしまいます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」
著者は詩篇102篇を引用しながら、神なる存在と造られた存在の明確な違いを語っていますね。イエス様は永遠です。実は8節でも、「あなたの王座は世々限りなく」とありました。その世界を治める王の力が、いつまでも変わることがなく続くことを語っていました。しかも8-9節では、公正と、義を愛するお姿、不正を憎む姿勢が語られていましたね。このお方の公平さ、正義、不正が微塵もないお姿が、永遠に変わることがないのです!!賄賂も脅しも同調圧力も通用しません。
しかしながら、この世の被造物はすべて、衣のようにすり切れます。あるいは取り替えられ、変化していくのです。人間社会を見渡すと、まさに「永遠に変わらない」ことが、いかに尊いことであるかに気づきます。人間は常に変化をしている弱い存在です。最初に話したように力を持つと変わってしまう。あるいは傷つきすぎて変わってしまうでしょう。時に体調を崩します。時に疲れ、時に心が沈みます。年を取り衰えていきます。頼りにしていたあの人ができなくなる、あの人が天に召されてしまった。そういう悲しみを繰り返す私たちです。
しかし、主イエス様を失うことは決してないのです。イエス・キリストは常に同じです。昨日も今日も明日も!おっしゃることが一貫していて変わらない。なさることも変わらない。その愛が終わりを迎えることもありません。ですから、見捨てられない、裏切られないのです!忘れないし、勘違いもない。変わらない、終わらない、いつも完璧です。なんと安心なことでしょうか。変わらないものなどないこの世界で、変わらないお方が私たちの主であるのです。
3.天使は御子と救いを受け継ぐ者に仕える
そして、13節で、再び御使いとの対比をします。
13節 いったいどの御使いに向かって、神はこう言われたでしょうか。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」 と。
詩篇110篇からの引用です。「敵をあなたの足台とする」とあります。戦いで勝利した者が、敗れて倒れている相手の頭や首に足を置くという習慣がありました。それは完全征服を意味します。終わりの時に、三位一体神様と御使いたちは、悪魔とそれに従うすべての者たちを滅ぼします。その勝利の日までは、神の右の座に着座しておくようにと父なる神様は、御子に言われたというのです。こうして、御使いには全く言われないことを、御子には明白におっしゃっていると証言しています。そして、これらのことの当然の結論として、14節のように言うことができますね。
14節 御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。
ここにあるように、御使いは、まことの神なるキリストに仕えるのです。また、救いを受け継ぐことになる人に仕えるのです。それは、すべての人間に仕えるということではないですよね。神に背き、悪魔に従う人には天使が仕えないのです。しかし、キリスト者には天使は喜んで仕える、そのために遣わされているということです。これを知る時に、私たちはなんと心強いことでしょうか。この世のどんな悪意も恐れる必要はありません。私たちは御子イエス・キリストの十字架の勝利に与っているのです。神様は召された者のために、このような天使たちも含め、世界のあらゆる被造物を用いて益としてくださいます。
ローマ8章28節 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
8章31節 神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
4.結
私たちが信じている主イエス・キリストは永遠に変わらないまことの神です。そして、御使いはその「しもべ」であり、この方の足元にも及ばない存在です。そして、私たちは何者でしょうか。私たちは変わってしまう弱い者でしょう。周囲の影響もあまりに受けやすく、右に左に揺れる葦のような者です。しかし、そのような者でも救いという揺るぎない土台、永遠に変わらない神のことばに生きる者となったのです!!以前のように左右に揺れまくる者ではなく、揺るぎない堅い土台の上に立つ者とされたのです。気分や同調圧力で考えや意見を変えるのではなく、主のおことばに堅く立って語り、行動したいのです。あの人はぶれない!あの人はいつも聖書に立っている!そのようにして「信頼される人」になりたくないですか?主は変わらないお方なのですから!その弟子も変わらず主について行くのです。
確かに人間ですから、月日とともに衰える者、病や怪我で弱る者です。それでも、キリストを信じ、神の子とされました。永遠のいのちを受けた御国の相続者です。ですから、私たちも永遠に主とともにある者です。キリストとの交わりは終わることがありません!「10000Reasons」という賛美曲があります。その終盤の歌詞にこのようにあります。私の訳で恐縮ですが、「力衰えゆくその日 終わりは近づき わが時も来る だがわが霊は 絶えることなく あなたをほめ歌いましょう 一万年・・・いや永遠に・・・」 誰もが年を取るし、衰えて行きます。それでも、私たちの賛美も祈りも主との交わりも、終わることがないのです!永遠に変わらず喜びをもっていつまでも賛美できるのです。年を取って声が出なくなっても。色々なことが分からなくなっても。主が私たちの手を放さない。主が歌わせてくださいます。
だから、死は終わりではない。それはキリストが永遠に変わらないお方だからです。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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