*** 11/6(水)祈祷会 説教概略 ***
久しぶりの教会リトリートを持つことができました。会堂建設もあり、コロナもあり、慌ただしさもありで、なかなか教会全体でのリトリートというものは持てずにいました。全員がというわけにはいきませんでしたが、50名近い方が参加してくださったことは本当に感謝でした。実は来年は奥多摩バイブルシャレーという別の宿を10月の連休に既に予約しています。講師をお招きして持ってもいいかなと思っております。
さて、そのリトリートの早天集会で、神様は愛する子に試練をお与えになることを語らせていただきました。イエス様は、御霊の導きによって悪魔の試みを受けるため、荒野に導かれたのでした。悪魔の悪意さえも、神様が自在に用いることができる力ある方であることを学びました。そして、試練は愛する子を倒れさせるためではなく、それを通してさらに主を知る者となるように、後の祝福を与えるためであることは、本当に感謝なことです。
本日のみことばも、イスラエルの民のつまずきが、倒れるためではなく、異邦人の救いのために用いられたことを確認します。さらには、そのイスラエルが救われるのならば、それよりはるかに大きな祝福があることも語られています。私たちの不従順でさえ、主は用いることができる。だから「不従順でいい!」のではなく、それならば、従順に主に従う時は、どれほど豊かに用いられ、大いなる祝福を受けるのかということに目を向けていきたいのです。
11節 それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。
神様はすべてのことについて意図や意味をもってみわざをなさいます。哀歌3:33にこうあります。「主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない」と。どんな時でも、主は善い目的のために愛する子らを懲らしめるのです。私たち罪人のような悪意や妬み、汚れが一切ない聖なるお方だからです。
イスラエルのつまずきは、彼らの罪深い反抗によるものでした。その点は彼らに弁解の余地はないでしょう。滅びに相応しい態度です。しかし、主はそれもまた人間が倒れるためではなく、救いにつながるために用いられたのです。続く12節では、こう語られていますね。
12 彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らがみな救われることは、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。
非常に面白いアプローチです。イスラエル人たちの「背き」でさえも、異邦人への救いをもたらしたとパウロは語ります。12節では、イスラエルの背きが世界の富、異邦人の富となっていると、大胆な表現をしています。このように、背きや失敗でさえも他の人々に富をもたらすのならば、もし彼らが信じて救われたなら、いったいどれほど素晴らしい善きものをもたらすだろうかとパウロは語るのです。とても興味深い考え方です。
例えば、私たちは神様を信じていない方々が、とても素晴らしい活動をなさっていることを知っています。神様を信じておらず、救いを受けておらず、御霊の助けも得ていない中でも、素晴らしい活動をなさり、世界に貢献している方々が多くいらっしゃるでしょう。
もし、この方々が神を知る者となるならどうでしょうか。神の知恵を存分にいただき、どれほど豊かに用いられるだろうかと思うのです。あの才能を、神様のみこころに沿って用いれば、さらに生かされる!そう思えるのです。
そしてまた、既にイエス様を信じている者についてもこう言えるでしょう。神様は私たちの不従順な態度でさえ、ご自身の働きのために用いることができる!ならば、神様に対する良い応答、主への献身がなされるならば、どれほど豊かに神様に用いられることでしょうか。
イスラエル人が背き反対したことで、異邦人への宣教が進みました。パウロはそのために遣わされています。けれども、パウロの心の願いは異邦人だけでなく、イスラエルも救われることです。神様の願いももちろんそうです。13-14節をご覧ください。
13節 そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受けとめています。14節 私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。
13節で、パウロは、自分があくまでも異邦人の救いのために労する使徒であると言います。彼はその務めを重く受け止め、この働きに誇りを持っているのです。しかし、同時に、彼はやはり自分の親族や仲間たちを思っています。自分が異邦人に仕える奉仕を通しても、それが同胞の救われるきっかけになることを願っているのです。彼はこのように、異邦人もユダヤ人も誰であろうと、幾人かでもこの最高に素晴らしい主の救いを受けられるよう心より願っているのです。
そして、パウロがここで言っているのは、ユダヤ人の救いもまた、異邦人であるあなたがたにとっても「幸いをもたらす」ということです。15節にこう続きますよね。
15節 もし彼らの捨てられることが世界の和解となるなら、彼らが受け入れられることは、死者の中からのいのちでなくて何でしょうか。
ユダヤ人が見捨てられることによってさえ、異邦人に福音が広がるというみわざが起こりました。それならば、ユダヤ人が心底悔い改めて、キリストに立ち返えるならば、どれほどの益をもたらすことかと言うのです。この15節で、「彼らが受け入れられることは、死者の中からのいのちでなくて何でしょうか」とパウロは言います。
ユダヤ人が救いを拒んだことさえ神様は用いたのです。だとするならば、ユダヤ人が救いにあずかり、受け入れられることは、まるで「死からの復活のいのち」のような輝きを放つことのようではないか!と言うわけです。 実際、ユダヤ人の改宗ほど、異教世界に決定的な影響を与える出来事は他にないでしょう。ユダヤ人は、世界のあらゆる地域に散らばっています。彼らが遣わされているところで、それぞれに神に立ち返って行くのならば、その影響力はいかほどでしょうか。世界中に散らばっているゆえに、彼らは様々な人々に届くことができ、多くの分野に届いて行くことができるのではないでしょうか。散らされていることにさえ、主の深く豊かなご計画があるのです。
ご一緒に語られて参りました。私たちの不従順、不信仰、汚れや弱さでさえ用いて世界の益となし、人々の救いへと用いるお方が私たちの主です。あまりにも圧倒的な義の力、光の力です。あらゆる負のエネルギーさえ、その光の力で飲み込み善きものとされます。
悪意と殺意が渦巻く戦地のウクライナでさえ、多くの聖書が配布され、教会に集う者がどんどん増えていると聞きました。驚くべきことです。主の不思議なご計画が進んでいます。 私たちの周囲には、今はまだ主を信じておられない方々がいます。でも、彼らがイエス様を信じて、神の国のために歩むようになったらどうなるだろうか・・・。そう考えると楽しみで仕方ありません。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会