東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ11章16-21節「根が聖なるものであれば」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/11/15

ローマ11章16-21節「根が聖なるものであれば」

*** 11/13(水)祈祷会 説教概略 ***

 この教会の教えが聖書からずれた良くない教会だったらどうでしょうか。そこに集められて来る人々も間違った良くない教えを受け、歪んだ信仰者が育つでしょう。反対に、この教会が聖なる良い教会で、正しい教えが語られ、良き交わりがあるなら、そこに加えられていく人々も聖なる良いものを受け継ぎますよね。ここでは「根が聖なるものであれば」、生え出た枝や実りもまた聖なるものとされることが語られています。



16節 麦の初穂が聖なるものであれば、こねた粉もそうなのです。根が聖なるものであれば、枝もそうなのです。

「聖」であるということについての聖書理解です。麦の初穂が「聖なるもの」ならば、それで作った粉も聖なるものだと。聖書では実によって見分けるという考え方があります。ですから、実りが良ければ良い木であり、悪い実をならせるなら木全体も悪いということです。それは、初物が全体を代表しているという考え方でもあります。私たちは収入の初穂として十分の一を献げます。その際に、心からの良いものを献げるならば、その十分の一が私たちのすべてを代表し、聖なるものとして受け入れられます。十分の一ではあるけれども、それは働き全体の感謝、私たち自身の献身をも含んでいるということです。初物が受け入れられれば、すべてが受け入れられるのです。

 この理解を前提にして、17節以降の話が展開されていきます。ここでは、根の部分がユダヤ人で、異邦人はそこに接ぎ木された存在とされています。ユダヤ人たちの土台の上に、異邦人は加えられ、その恩恵に与っているのです。それで、異邦人たちは自分たちを誇ってはいけないと教えられていますね。17-18節です。

17節 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。 
 
 「枝の中のいくつかが折られ」とは、ユダヤ人たちの一部が逆らい、反抗して救いを逃したということでしょう。そして、野生のオリーブとは異邦人のことです。元からあったオリーブの木に、後から野生のオリーブが接ぎ木される。そして、元の木や根っこから養分を受け取って実りをもたらすことができます。神様は選ばれしユダヤ人の枝をみこころに沿って折りましたが、そのゆえに異邦人たちが接ぎ木されたのです。その場合、異邦人のクリスチャンたちは、その始まり、根っこであったユダヤ人たちの存在によって支えられているということになりますよね。それゆえに、救われた異邦人キリスト者は、自分たちの信仰の救いをもたらしたのだと、自らを誇ってはならないのです。

 24節のところに「元の性質に反して、栽培されたオリーブに接ぎ木されたのであれば」とあります。元の性質は、神を知らずに歩み、この世の価値観に生きてきた罪人という性質です。そのような未信者時代の性質があったにも関わらず、それに反して神の民の木に接合されたのです。同じ恵みの栄養を根から受け、実を結ぶ歩みへと導かれたのです。それゆえ、私たちは自分の信仰を誇ってはならないということでしょう。

19-20節にこうありますね。

19節 すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。20節 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。  

不信仰のゆえに折れたところに、信仰によって異邦人が接ぎ合わされたのです。それゆえ、加えられた者たちは、自分たちの信仰を誇るかも知れません。しかし、それは、神様のあわれみによることであり、根となってくださった信仰者の支えゆえです。

そして、もっと言うならば、しばしば、ユダヤ人たちの失敗した姿でさえも、後の時代のすべてのキリスト者への警告となっているのですよね。反面教師の例を知っている強みがあります。弟や妹が兄や姉より要領がいいのは、兄や姉がどのように失敗をして親に叱られているか、あるいは、どのようにすれば親に喜ばれるのかを、見ることができているからでしょう。私たちもまた、ユダヤ人たちの信仰的な姿や様々な失敗さえも、みことばから知ることができます。そのゆえに、守られていることが多くありますね。実に多くの面で、私たちは支えられているのであって、思い上がってはならないのです。

 

むしろ、神様の深い救いのご計画を覚えて恐れかしこむべきです。恐れかしこむ必要がある理由が語られています。21節です。そこでは、神様のユダヤ人に対する厳しさもまた、異邦人に対する警告になっているということでしょう。22節で「神の厳しさ」という表現に現れています。いつくしみ深い神様です。けれども、自分の意志で明確に拒絶する者に、神様は厳しくもあるのです。ただ、その厳しさが、結果的に本当に深いやさしさになっているのです。

例えば幼い子どもに、十分に甘える機会を与えることは良いことです。でも、「甘やかす」ことは愛とは言えませんよね。その「甘やかし」は子どもに利用する機会を与えます。親をコントロールし、怠惰やわがままな生き方を肯定する道具にしてしまうのです。神様の厳しさは、本当の愛のやさしさゆえのものです。滅んで欲しくないからこその厳しさです。この厳しさがあるからこそ、折られてしまった枝であるユダヤ人たちも、不信仰から立ち返る動機を持てるのです。再びこの救いの中に接ぎ木される恵みを主はいつも示しておられます。

24節によれば、本来神の民であったユダヤ人たちが回復することは、神様にとって「より容易いこと」であるというのです。それはそうでしょう。みことばの土壌があるユダヤ人たち、神との歴史があるユダヤ人たちです。ベースを持っている強みがあるのです。何もない、異教の習慣に生きている異邦人よりも、救いへの回復は本来より近いはずなのです。実に、その意味では、幼い頃に教会に通っていた人、祈られ福音に触れてきた人は、離れていてもゼロから救われるよりも近いのかも知れません。だから、幼い時から、機会あるごとに福音を聞き、交わりに加わり、祈られ続けることは本当に大切なのです。そしてまた、ここにある愛による「厳しさ」もまた、伝えて行くことが必要でしょう。離れたままでいいのか。本当にそれで滅びに向かっていいのかとの迫りです(脅しではなく、愛として)。

 

 ご一緒に教えられて参りました。私たちは接ぎ木された側の者であることを覚えます。信仰によって救われた。でも、根があるところに接ぎ木されたのであって、私たちは信仰をも誇るべきではないのです。そういう意味で、人の救いというものは、本当に多くの人たちの犠牲や祈りがあると言えますね。 感謝なことです。

私たちも自分で信じて救われたと思いがちですが、あなたのために労してくれた人、祈ってくれた人、今も支えてくださっている方々という「根」の存在を忘れてはいけませんよね。そこに接ぎ木していただいたのです。私が救われた時にも、会ったことのない方々が祈ってくださっていました。洗礼もそうです。実に献身については、妻の祖父母が昔からずっと祈っていた実りでした。その祖父もまた、南京でキリスト教会を見張る憲兵をしていたのですが、そこで出会ったキリスト者の方々のゆえに、救われたのです。そこに教会があったからです。迫害があっても、そこに信じる者がいてくれたからです。

 そして、今度は私たちもさらに接ぎ木されていく人々のために祈り、そのための土台となって参りましょう。多くの人がここに接合されていくよう、私たちは良い根、良い木となって参りたいと願います。ここに教会があり続けることが、人々が加えられていくために必要な土台です。私たちが純粋な信仰を保ち、証ししていくことが大切ですね。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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