東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ11章25-29節「神の賜物と召命」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/11/20

ローマ11章25-29節「神の賜物と召命」

*** 11/20(水)祈祷会 説教概略 ***

 最近、礼拝等で、みことばもイエス様にある救いも変わらない確かなものであることを教えられています。ですから、神様の契約、それによってもたらされた賜物や召命も、変わらない。取り消されることがないのです。

 私自身が自らをふさわしくないと思い、苦しみの中にあった時に、ある友人牧師が今日の29節のみことばを送ってくださいました。どれほど励ましになったことでしょうか。変わりやすい私たちにとって、変わらない神の約束、見捨てない取り消さない神の真実があること。ここがいつも私たちの「拠り所」なのです。



25節から26節冒頭までを味わいましょう。

25節 兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、
26節 こうして、イスラエルはみな救われるのです。 

 自分を知恵のある賢い人だと思い込むことは、盲目となることであり、成長をストップさせる行為です。ですから、そう思い込まないために、この「奥義」を知りなさいと警告しています。「奥義」というのは、表面的に見える景色ではなく、「奥に隠された神のみこころ」です。

 ここに百円玉がある。どんな形をしていますか?皆さんはおそらく、百円玉は丸いと言います。でも、別の角度から見れば、百円玉は長方形ですよ。自販機の100円を入れる穴の形は何ですか?丸いですか?細い長方形ですよね。それは百円玉がある面では「長方形」である証拠です。もちろん、これはあくまで例えです。

 ただ、申し上げたいのは、丸いとしか見えていない百円玉が、実は長方形でもあるのだと知るように、私たちは悟った気にならず、知恵ある者だと思い込まず、もっと深い神様のご計画に目を開かせてくださいと祈りたいのです。

 神様のなさっていることはもっと立体的で、もっと奥深いのです。すると、病やケガが悪いという見方で終わらず、そこにある別の景色に気づかされる歩みになります。神の御霊によって、より深く豊かな神の計画に驚かされるのです。奥義は勉強や努力で見えるようになるものではありません。それは御霊の助けによって見える景色です。ですから、信仰の目が開かれるように、祈り求め続けて生きませんか。せっかくそれが見える立場を、すべてのクリスチャンが与えられているのですから。では、ここでの「この奥義」とは何でしょうか。

 それは、イスラエルの中のある人々が、一時的に頑なにされたことが、多くの異邦人の救いになったこと。そして、異邦人の多くが救われた後には、イスラエルが救われていくことです。これら全体が神の昔からの変わらないご計画なのです。それは変わらないのですから、人間の信仰の良し悪しによってどうこう変わることはないのです。これがここでの「神の奥義」です。

 この奥義によれば、イスラエルが頑なにされている期間は「期間限定」です。彼らが救われる時が来るのです。26節冒頭で「イスラエルはみな救われる」とある通りです。もちろん、イスラエルの血を引く全員が救われるという、短絡的な意味ではなく、神に選ばれている真のイスラエルは、時が満ちると立ち返るということです。それらすべては、神の変わらぬご計画なのです。そして。こうした歴史的な救いのプロセスは、人間が安易に「悟った」と言えるような浅い真理ではありません。

 ですからパウロは、イザヤ書59章を引用し、神のご計画であることを明確にします。

26節 こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。
27  これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。 

 シオンはエルサレムの象徴で、神の民イスラエルを指しています。ヤコブもイスラエルの民のことです。救い主イエス様は神の民イスラエルの子孫として約束通り生まれましたよね。長い年月を経たにも関わらず、その約束は一切変わらず取り消されませんでした!

 契約通り、ユダヤ民族から現れた、罪を取り除かれるのです。イスラエル人について、さらにこうあります。

28  彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。

 パウロは独特な言い回しで表現します。イスラエル人たちは、キリストについての福音に関して言えば、それを拒んだ。神に敵対した。彼らは自ら、契約を反故にしたのです。それにより、イスラエルは神に敵対し、神から見捨てられたようにも見えました。ところが、真実はもっと「深い」のです。別の角度から見れば、それも計画の一部であり、神に選ばれ契約を受けた民として、なお神に愛され続けているのです。だから、ふさわしい時が来て、みな救われるとみことばは語ります。最後に29節に目を留めましょう。

29  神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。

 神様がずっと昔にイスラエルと結ばれたその契約は、破棄されることがないということです。先週学んだように、未だにイスラエルの救いが土台、根っこになっているのです。そこに私たちは接ぎ木されているということでした。神がイスラエルに与えた賜物も、その召命も取り消されていないのです。

 この真理は、私たちにとっても大きな励ましではないでしょうか。私たちに与えられたこの救いも、あるいは主がくださった召しも取り消されることはないのです。

 時に、人間がそれを否定してくることは大いにあるでしょう。「あなたのような人間はクリスチャンじゃない」とか、「ふさわしくない」とか、「献身者の資格がない」とか。でも、もし、それらが神様からいただいたものであれば、他の人がどんなに批判しようと関係ありません。私たちに賜物を与え、私たちを働きに召す方は神様なのです。誰が文句を言えるでしょうか。

 私もここに立って歩んでいます。いや、ここに立たないと、自分の弱さや愚かさを批判してくる強い力に対抗できないのですよ。自分の思いで決めるのではない。「能力によらず、権力によらず」です。感情とか調子の良さとかではない。ただ、主がお召しになった事実と、主がくださる御霊の承認の中で、私たちは前進していくのです。

それは、変わることがない。取り去られることがないからです。

 もちろん、奉仕が取り上げられたり、その内容が変わったりすることはあるでしょう。いつも申し上げているように、奉仕はさせていただくものであって、不忠実であったり、様々な事情があったりして、その中で取り去られることもある。したいと願ってもできないこともある。ですから、具体的な奉仕や働きには変化があるでしょう。でも、主の賜物と召しは変わらないのです。

 例えば私であれば、みことばを語る者として召されています。ただし、語る場所は変わるかも知れません。語る方法も変わるかも知れません。口で話すことが難しくなるなど。あるいは、やがて牧師を引退する日も来るでしょう。でも、みことばをまっすぐに語り続けるという召しは変わりません。どこでも、様々な方法によってでも、できるのです。会話の中で語り続けるかも知れません。文章で語るかも知れません。いずれにせよ、その召しは取り去られないと確信しています。

 イスラエルの民を見る時に、本当に多くの失敗をし、堕落もし、警告を受けても罪深い歩みをしてきた姿があります。それでも神様は契約を破棄しませんでした。見捨てることをしていません。その賜物と召命は取り消されることはないのです。なんと主は誠実で真実でいらっしゃることでしょうか。本当に励まされます。

 私たちも多くの失敗をします。罪を犯します。望む通りには働きができないことも必ずあります。それでも、主の召しは変わらないのです。主はその約束を変えません。そのことばを変えません。くださった召し、そのために必要な賜物。それは取り消されない。ですから、召しに忠実に、動かされることなく、歩んでいきましょう。 



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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