*** 4/13(日)受難週・主日礼拝 説教概略 ***
分からなかったことが、分かるようになることは、とても嬉しいことではないでしょうか。イエス様を信じたばかりの頃、聖書は非常に効力のある「睡眠導入剤」でした(笑)。読んでも意味が分からないことが多かったのです。
ただ、イエス様のもとで3年間、寝食を共にした弟子たちでさえも、常に分からないことだらけだったのです・・・。それを知ると、少しほっとしますよね。それほどに、生まれながらの私たちの状態は、神様から遠く離れていたのです。
主が何を言っておられるのか、ことばは分かっても、その真の意図がなかなか分からないのです。「神様の愛」がいかほどのものかが分からないのです。イエス様の十字架の重みが分からなかったのです。
英国の神学者・聖書学者のロイド・ジョンズは言います。クリスチャンの多くが、実に喜びを知らず、憂鬱な顔で敗北感に満ちて歩んでいると。その理由は明確だと言います。自分の罪深さについて、本気で泣いたことがないからだと。罪に泣いたことがない者は、イエス様の十字架の重みとそこにある愛とを十分に理解できないのだと。
受難週です。私たちは今日、十字架を分かる者になりたいのです。神様の圧倒的な愛を知識ではなく、心とたましいで分かる者になりたいのです。主のいのちのみことばから教えられましょう。
イエス様を正しく理解できなかった4つのグループを紹介しつつ、教えられます。
グループ1:イエス様を歓迎した民(群衆)
彼らは、イエス様が何者かをわからずに歓迎した人々です。12-13節です。
12節 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
13節 なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
エルサレムのユダヤ人たちは、とっても歓迎し、イエス様を「イスラエルの王」だと言って、迎えました。大きな葉のついた「なつめ椰子」の枝を持って、群衆は道の両端に立って、イエス様を歓迎したのです。
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と叫びながらでした。ホサナとは「救ってください」という意味ですが、「救い主に誉れあれ!」ぐらいの意味に理解すればよいでしょう。一見すると、彼らはイエス様を分かっているから、大歓迎しているのではないかと思うかも知れません。
しかし、そうではないのです。その理由をお話しましょう。12節では「その翌日」と始まっていますよね。では、どの翌日でしょうか。それは、ラザロという人をイエス様が死からよみがえらせた結果、皆がイエス様のファンになった翌日です(11節以前を見ればわかります)。ラザロの復活という奇跡のゆえに、群衆は大フィーバーになったのでした。
さらにそのことが、17-18節で説明されています。
17節 さて、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのことを証しし続けていた。
18節 群衆がイエスを出迎えたのは、イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。
つまり、イエス様が死人を生き返らせたので、その奇跡のゆえにイエス様を歓迎したのです。もちろん、奇跡がキッカケで信じてもいいでしょう。神秘的で、不思議な経験がキッカケだと言う人もいます。しかし、イエス様を何でもできる「ドラえもん」のように、便利屋のように考えているとしたら、それはイエス様のことを全くわかっていないのです。むしろ、自分の都合のいいように考えているのではないでしょうか。実に、この群集もそうでした。勝手な期待をしたのです。
「パンや魚を無限に増やせる方だそうだ!」、「いやいや、どんな病も一瞬で治せるそうだぞ」、「やっぱりラザロを生き返らせたのが、最強の奇跡じゃないか?」など・・・彼らの話題の多くは「奇跡」だったのではないでしょうか。そして、これだけ超自然的な力を持つ王がイスラエルにいれば、ローマ帝国なんて楽勝だと考えたのです。
すべて、自分たちにとって、この方が「どれだけ役に立つか」という視点です。こうした自己中心ですから、彼らは自分の期待と違うとわかると、数日後に手のひらを返してしまいます。イエス様を大歓迎した人々の多くは、1週間のうちにイエス様を「十字架につけろ」と叫び、殺す側にまわってしまうのです。群集は、自分たちにとって、どちらが有利かという基準で右に左に流されていたのです。
グループ2:イエス様への嫉妬に燃える宗教指導者
群集がイエス様を大歓迎する姿を非常に苦い思いで見つめる人々がいました。誰でしょうか。祭司長、パリサイ人といった当時の宗教指導者たちでた。この時、彼らもまた、まるで真実が見えていません。イエス様が彼らのことさえも愛して、彼らにも救われて欲しいと切に願って愛しておられるのに、それを少しも理解できていないのです。なぜなら、「イエス様に自分たちの信奉者を奪われた」という自己中心性に支配されているからです。自分を一番偉くしたいという思い。そこから生まれる妬みです。
19節に彼らの心がよく現れているセリフがありますね。
19節 それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」
パリサイ人や祭司長らは、この一連の出来事を非常に妬ましく、腹立たしい思いで見ていたことがわかります。群衆をイエス様から引き離し、自分たちの物にしたいのに、まるで上手くいかなかったのです。これらのことを通して、宗教指導者たちは自分たちの立場が危うくなったと考え、激しい嫉妬心からイエス様への殺意を増幅させてしまいました。イエス様を十字架につけたのは、こうした自己中心、妬みの罪に他なりません。
グループ3:身近にいながら理解できない弟子たち
民も宗教指導者も、イエス様が本当は何のためにエルサレムに来られたのか、理解しようとしませんでした。確かにイエス様は、人々を救うために来られました。しかしそれは、圧倒的な力で打ちのめす救いではありませんでした。その証拠が14-15節で示されているのです。
14節 イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。15節 「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
イエス様はなぜ「馬」ではなく、「ロバ」に乗って入城されたのでしょうか。当時、王や支配者と言えば「騎馬」に乗りました。より速く走り、戦場で用いられるからです。それなのに、イエス様はロバでした。しかも、大人のロバではなく、子どものロバでした。それは、柔和さと平和の象徴でした。ロバはゆっくりと荷を運ぶ、平和な用向きに使われる動物です。実は、神の救い主がロバに乗って入城することは、旧約時代からの預言でした。15節は旧約聖書のゼカリヤ書9:9の引用です。引用元ではさらに、義なる者、柔和な者でとの説明もあります。特に「柔和」とは、力があるにも関わらず、その力を誇示しないで、むしろ愛の故に弱さを身にまとう性質です。泣いている人の隣でともに泣き、弱い者のために自分をささげます。それは、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをしない」イエス様の姿です。そうやって、身分の低い極悪人だけが処せられる十字架刑にまで、ご自分をささげてくださったのです。人の罪を全部、その身に引き受けるためでした。
しかし、このお姿の意味をイエス様のそばにいた弟子たちでさえ分からなかったのです。
16節 これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。 弟子たちは、イエス様のために「子ろば」を用意しましたが、その意味を分かっていませんでした。イエス様のことも正しく理解できず、また、自分たちの罪がどれほど深刻であるかも分からなかったのです。これまで3つのグループの話をしました。群集、指導者たち、弟子たちです。では第4のグループとは、いったい誰でしょうか。
グループ4:私たちです
私たちも、先程の群衆のようにイエス様を祈りに聞いてくれる便利屋、奇跡屋としてしまっていないでしょうか。それは、自分のために救い主を利用する、ご利益的な信仰でしょう。なんと罪深いことでしょう。そして、宗教指導者らのような「妬み」「嫉妬」という罪が、いつでも私たちにはあることでしょう。
あるいは、弟子たちのように、長年教会に通いながらも、自分が何をしているのか分からないことがあるものです。例えば、誰かを非難した時・・・もちろん、その人を非難したことは分かっているでしょう。しかし、そのことばがその人をどれほど傷つけていることか。そのことばに神様がどれほど怒り、また悲しんでおられるか。分かっていないことがあるのではないでしょうか。その罪が、イエス様をあのむごい十字架につけたことを分かっているのでしょうか。それでも私たちは、自分を正当化したいのです。
ですから、イエス様は十字架の上でこう祈る必要がありました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34) この祈りは、あなたのための祈りです。他の誰でもない、あなたのために主は祈ったのではないですか。
では、どうやってイエス様とその十字架を本当の意味で理解できるのでしょうか。
最初にお伝えしたように、自分の罪に本気で涙することです。その罪がイエス様を十字架につけたのだと知ることです。その時、十字架が大きくなります。自分の自己中心性、罪を認めない強情さ。これらの罪の深刻さを認めた者は、それだけイエス様の十字架の価値を正しく豊かに理解できるようにしていただけるのです。だからその人は、人をさばかない者へと変えられていきます。不平不満だらけの日々を送り、人の文句ばかりの人は、自分の罪に泣くことから始める必要があるのではないでしょうか。私がその筆頭です。立派な信徒の頭ではなく、罪人の頭です。
イエス様を豊かに知る者にならせていただきませんか。その十字架を本当の意味で理解して、心から「ホサナ!祝福あれ!」と主をたたえる者になりませんか。それがイースターを心から喜ぶ最高の秘訣です。なぜなら、十字架の苦しみなしに、復活の栄光だけを都合良く受けることはあり得ないからです。十字架の死の痛みがあるから、死からの復活の喜びがあるのです。
イエス様は、他の誰でもないあなたのために、十字架で苦しんで下さった。イエス様を磔にしたクギは、私たち自身です。イエス様は、あなたを愛して、あなたのために十字架で死なれたのです。ただ、あなたを愛するゆえに、喜んで。柔和でロバに乗ったあなたの王、この方に心の王座を明け渡し、この方をホサナ!とたたえつつ、歩んで参りましょう。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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