1日(火)マタイ23章1-4節
イエスは群集や弟子たちにあることを語られた。それは、律法学者やパリサイ人らは「モーセの座」に着いているので(2)、彼らの言うことはすべて実行しなさいということだった(3)。だが、一方で彼らの行いは真似てはならないとも言われた。彼らは他の人には厳しく、負いきれない重荷を負わせるが、自分たちは指一本貸そうとはしないからだ(4)。彼らの教えは神からのものであるので、それは実行すべきであり、だが、彼らはそれを実行しない人なので、その生き方に倣ってはいけないというのだ。私たちも教えは立派でも、行いの伴わない歩みになってはならない。だが、案外難しいことだ。そういう矛盾を横で見ている子どもたちが、大人の矛盾に傷つき教会から離れたりするからだ。純粋な人ほど、こうした矛盾につまずいてしまう・・・。身につまされることだ。立派でなくてもいいので、悔い改めながらでも、みことばに真っ直ぐに生きて行こう。
2日(水)マタイ23章5-8節
パリサイ人らの行いは、人に見せるためであった(5)。できるだけ人目に目立つようにし、自分たちの名誉を引き上げようとしていた。だから、宴会では上座を、会堂では上席を好んだ(6)。特に人通りの多い広場であいさつされることを心から喜び、「先生」と呼ばれることが大好きであった(7)。正直、多くの人にとって「先生」と呼ばれることは心地良いのではないだろうか。だが、先生ということばに偉い、立派という意味はない。ゆえに、そうした意味ならば「先生」と呼ばれてはいけない。先生と呼ばれるならば、その意味を正しく理解するべきだろう。「先生」という日本語を考えても、その道において、先を生きているという意味に過ぎない。聖書について先んじて学んだゆえ、後の者に教える器に過ぎないのだ。そして、本当の意味での教師はイエス・キリストのみ、つまり神ご自身だ。神の前には誰もが等しい。
3日(木)マタイ23章9-12節
「先生」、「私たちの父」、「師匠」・・・これらのことば自体を使ってはいけないとか、実際に呼ばれることが悪だとイエスは言っているのではない。本当の父であり、本当の師である神を見上げずして、自らを神の位置に置いたり、人を偶像化するような姿勢を問題だとしているのだ。それゆえ、11節にこうある。「あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい」と。また、12節にもこうある。「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」と。まことの神を恐れる時、私たちは自らの汚れや愚かさ、弱さと小ささを知ることになる。必死に自分を低くしようとせずとも、神の偉大さ、聖さを知るならば、私たちは己の汚れと小ささを知ことになるのだ。そしてまた、キリストに目を注ぐ時、その謙遜のゆえに、そのへりくだりのゆえに、私たちは救われ、助けられていることを知ることになる。父なる神の偉大さと、キリストの謙遜を見つ続けよう!
4日(金)マタイ23章13-15節
5章では「~する者は幸いです」と繰り返される『幸いの使信』が語られていた。ここでは、その真逆で「わざわいだ」と29節まで繰り返されていく。そこには主イエスの深い愛から来る「嘆き」が示されていると言える。その中でも頻出する語は「偽善の律法学者、パリサイ人」ということばだ。偽善とは、もとは劇の役者を意味することばだったようだ。「善なる人を装っていた」ということだ。そのようにして、13節にあるように、人々の前で「天の御国」を閉ざしてしまっていると語られる。15節でも、自分たちの教えについての改宗者を必死に求めるが、真理の福音を伝えないので、彼らを自分らより倍も悪い「ゲヘナの子」にしてしまうのだ。人々を天の御国から遠ざける言動ほど最悪なものはない。時にそれは、自分を「良い人」に見せようとする偽善から生まれる。嫌われたくないゆえに、罪の指摘も悔い改めも教えず・・・耳障りのいいことしか伝えない歩みだ。愛の嘆きをもって真理を伝える者であり続けたい!
5日(土)マタイ23章16-22節
主イエスは、本質的なことと正しく向き合わない律法学者、パリサイ人らを16節で「目の見えない案内人」と指摘した。彼らは「誓いは果たすべきだ!」と教えながら、自分が果たせなかった時のために、「抜け道」を用意していたのだ。16,18節でイエスが指摘しているのはその点だ。「神殿を指して誓う!」と言って果たされなかった場合、彼らは「外側のただの建物」を指したので、その中身(ここでは「黄金」)を指したわけじゃないと言って逃げるような感じだ。現代風に言えば、十字架を指して誓っておきながら、イエス様を指したわけじゃない!と言い訳するような感じだろうか。だが、神はご存じなのだ。私たちは言い訳の天才だ。しばしば、責任を取らされることへの防御として、様々な予防線を張り、頭の中はそんなことでいっぱいだ。だが、その本質を神はご存知である。目の見えない案内人にならないようにしよう。神が見ておられるものを私たちも見て生きるのだ。
6日(日)マタイ23章23-24節
23節でも、「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人・・・」と続く。ここでは、十分の一のささげ物についての彼らの課題が語られる。確かに聖書では、すべての物は神からいただいたものであるから、その十分の一を感謝してお返しすることを教えられている。しかし、彼らはその本来の意味を理解せず、自分を正当化し、人から褒められるためにこれをしていた。だから、目に見える物はよくささげていたが、律法の中ではるかに重要なものをおろそかにしていた。それは「正義」や「あわれみ」や「誠実」だった。神が本当に喜ばれるものは何だろうか?イエスは「十分の一もおろそかにしてはいけないが」と触れつつ、これらの見えないささげもの(正義、あわれみ、誠実など)こそ、大事にすべきものだと言われたのだ。十分な奉仕や献金をしたから神の前に正しく生きているのか。そうではない。主の前に正しいことをなし、弱い者にあわれみを示し、神と人に対して誠実をもって歩むこと。こそこそ、主が喜ばれるささげものだ。
7日(月)マタイ23章25-26節
25節 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。 人に見える部分の見栄えだけをよくして生きる。おそらく、ほぼ誰もがその誘惑がある。誰もが褒められたいし、誰もが良い評価を受けたいし、誰もが尊敬されたいからだ。だが、人の評価はアテにならない。勝手な評価をするもの。それは一時的で、独断に満ちている。だから、そのような生き方は必ず息詰まる。だが、神は見えないところまですべてご存知だ。人には見せない涙も、陰での労苦もご存じだ。だから、神の前に生きる道、内側をきよめていただく道を歩もう。26節で、主は言われる。「目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。」すべては私たちの内側、心やたましいが新しくされることから始まる。
8日(火)マタイ23章27-28節
引き続き、「わざわいだ」とのことばで始まり、パリサイ人らの偽善を指摘するイエス。27節では、彼らを「白く塗った墓」とたとえる。墓の見栄えは、白く塗ればいくらでも美しく清潔な印象に整えることができる。しかし、墓はどこまで行っても墓である。その中にあるのは、遺体や骨であった(土葬という前提)。いくら外を美しくしても、その中の死の汚れはそれによっては消えない。人はどうしても外側を整え、正しく立派に見せて生きる。それによっては中身は正しくもきよくもならないのだが・・・。パリサイ人らの心のうちは、偽善と不法でいっぱいであった。だが、主イエスはいつでも、私たちの心を見張り、内側からきよめられ、変えられることの大切さを教えておられる。人は態度や言葉遣いだけを直しても、根本的には何も変わらない。いつでも心を取り扱う必要がある。そのために、私たちは「いい人」を演じるのをやめよう。立派さを装う罪からまず解放されよう!
9日(水)マタイ23章29-36節
偽善の罪の問題というのは、「自分たちならそんなあやまちを犯さない!」と思い上がり、自分を正しい者とし、他人をさばいてばかりいることだ。自分の罪深さを棚に上げる問題がいつもある。30節にあるように、彼らは、私たちなら預言者の仲間になり、彼らの血を流すようなことはしないと偉そうに言うのだ。だが、この姿こそ殺す側の人間の主張であると証言しているようなものだ(31)。事実、最高の預言者である主イエスを迫害し、やがて十字架に磔にする側に立つのだからだ(34)。イエスの一番弟子ペテロさえも、牢であろうと死であろうとイエスについて行くと豪語した。だが、自分の身が危うくなると、3度もイエスとの関係を否定したのだ。これこそ、私たち皆の姿である。聖書は、罪が一つもないような「義人はいない」と教えている。「私は大丈夫」という考えではなく、私も同じ弱さを持つ者であると率直に受け止める者として歩もう!
10日(木)マタイ23章37-39節
37節で、主は「エルサレム、エルサレム」と二度呼びかける。強い嘆きが込められていると感じる。預言者らを拒み、石で打ってしまう者たちよ!!と。その嘆きは具体的に語られる。そして言われた。「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか」と。笛を吹いても踊らない者たち。手を差し伸べても、その手を拒む者たちだ。だが主イエスは、ユダヤ人たちを愛している。深く愛しているので、彼らを守りたいし、悪と滅びから救いたいのだ!親鳥が、そのひなを守りたいのと同じように!しかし、それを求めないことを嘆いている。そうなれば、38節にあるように、彼らの家は荒れ果てたまま、見捨てられてしまう。なんと残念なことか!だが、それでもイエスは、望みを失わず、彼らの悔い改めを待つ(39)。彼らが「祝福あれ、主の御名によって来られる方(イエス)に」と告白するその時を。主を信じて、その御翼の下にこそ身を避けよう!!
11日(金)マタイ24章1-2節
田舎から出て来た弟子たちにとって、金の屋根、大理石で出来たその宮の荘厳さは、驚き感銘を受けるのに十分だった。それで弟子たちは、イエスに宮を見るように促している(1)マルコの福音書の並行記事では、「先生、ご覧さい。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」とイエスに伝えており、その意図がよくわかる(マルコ13:1)。しかしながら、イエスの見方はまるで違う。それゆえ主は、「ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません」と弟子たちに助言された(2)。これらはやがて脆くも崩れ去り、瓦礫の山と化すことを知っておられたからだ。どんなに豪華絢爛な建築物も、形ある物はすべて朽ちていく。だが、この章の35節でイエスはこう言われる。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」と。我々が神のみことばの上に立つべき理由がココにある!神のことばは永遠に消え去らない!
12日(土)マタイ24章3-8節
弟子たちは、荘厳な神の宮が崩れ去る時が来ると聞いて不安になり、世の終わりのしるしについてイエスに尋ねた(3)。イエスがまず言われたことは、「人に惑わされないように」気をつけることであった(4)。『わたしこそキリストだ』と名乗る者が、少数ではなく、大勢現れ、人を惑わすと言うのだ。事実、キリスト教を悪用して生み出した偽りの宗教は少なくない。逆に言えば、それだけキリストになりたがる者がいるということだろう。その意味もわからずに・・・。それだけでなく、戦争が起こり、またその噂を耳にする機会が増える(6)。さらに、飢饉や地震もあちこちで起こる(7)。だが、まだ終わりではない。ただし、これらは産みの苦しみの始まりであると(8)。私たちは惑わされず、驚かず、これらはイエスの言われた通り、確実に起こることであると受け止めて心に備えをしよう。その備えとは、イエス・キリストを信じて、神の子となっておくことだ。神はご自分の子を、その御翼の陰でいつまでも守ってくださるのだ。
13日(日)マタイ24章9-13節
終わりの時が近づくにつれ、人々がキリスト者をその名のゆえに苦しみにあわせ、また殺害することさえ起こる(9)。キリストのゆえに、あらゆる国で敵対する者が起こる(9)。それで、多くの者がつまずき、裏切りや憎しみが生まれる(10)。さらに、偽預言者が人々を惑わすと言う(11)。不法がはびこり、愛も冷めていく(12)。つまり、世の終わりに向かうに連れ、世界は悪くなっていく。実際、地球はどんどん汚染され、環境は悪化の一途を辿っている。破壊力の強い兵器がますます開発され、本気で戦争をすれば世界があっという間に滅びそうな現代だ。楽観視している場合ではない!だが、13節で「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」と主イエスは明言された。世界は確かに悪くなる。しかし、明確なゴールがある。キリストの再臨による勝利!救いの完成だ!その時まで耐え忍べるよう、主はみことばによって教え、御霊によって知恵と力と勇気を与え、最後まで支えてくださるのだ。
14日(月)マタイ24章14節
14節 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。 終わりの時のしるしについて、イエスはこの点も弟子たちに伝えられた。神の国の福音が全世界に伝えられ、しかもすべての民族に証しされてから、終わりが来るのだと。私たちにとって、神の御国が来ることは心からの喜びである。救いは完成し、死も苦しみも叫びも消え去ることになるからだ。だから、福音を一日でも早く全世界に伝えたい。すべての民族に伝えたい。知らずに滅びる人が少しでも減るように、この福音を世界に伝えたいのだ。神は、世界中の人に福音が届けられるのを待っていてくださる。それが神の愛による忍耐である。知らない人がいないように、くまなく福音が届けられるよう祈り続けよう!
15日(火)マタイ24章15-22節
15節、主は『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら、ユダヤにいる人は山に逃げよと語られた。『荒らす忌まわしいもの』とは、クリスチャンを苦しめる存在だ。彼らが「聖なる所に立っている」とは、神の宮を力で支配するようなことだろう。その時には、力で対抗するよりも山に逃げよと語られている。世の力に対して、同じように力で応じるのではなく、主のもとに身を避けよということだ。主の御翼のもとに身を避け、神ご自身に戦っていただくことだ。「信仰の戦い」はすべて「主の戦い」なのだから。ただ、このような苦難が起こることを心に留めて、祈り備えておきなさいと教えておられるのだ(20-22)。試練は起こる。信仰への攻撃も起こること。しかし、イエスはそれを最初からご存知で、選ばれた者たちが耐えられるように、苦難の日数も少なくしてくださると語られた(22)。主はご存知であり、祈るように教えておられる。だから、恐れず目を覚ましていよう。日々祈り備えていこう。主の守りがあるから、大丈夫だ!
16日(水)マタイ24章23-28節
あそこにキリストがいる!などと言う者がいても、信じてはいけないとイエスは教えられた(23)。しかも、偽キリスト、偽預言者たちが、選ばれたクリスチャンを惑わそうと、大きなしるし(奇跡)を行うことがあるのだと語られている(24)。それゆえ、ちょっとしたマジック、奇跡のようなもので騙されないようにしたい。エジプトの呪法士もそこそこのことはできたのだから・・・。では、どうしたら見分けられるのか?それは、キリストが前もって語ったことを信じていればいいのだ(25)。イエスは27節で、より明確に教えておられる。「人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。」と。稲妻は普通、上下の動きである。だが、東から出て真反対の西にひらめくように・・・というのは、おそらく見たことのないような現象。それはつまり、誰が見てもわかるほど圧倒的なしるしで、紛らわしいレベルではないのだ。禿鷹が集まっているところには、死体があると誰でもわかるように、イエスの来臨は明確なのだ(28)。みことばをよく知り、覚え、しっかりと心に留めておけば何も惑うことはない!
17日(木)マタイ24章29-31節
苦難の日々の後、太陽は暗くなり、月も光を放たず、星は天から落ち、天のあらゆるものが揺り動かされる(29)。そのときに、キリストのしるしが天に現れる(30)。そして、天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともにキリストは来られると語られた。ここを読めば、キリストの再臨のしるしが、かなりハッキリわかる。さらに31節によれば、「大きなラッパの響き」とともに、「御使いたち」が現れる。これもまた分かりやすいのだ。
そうして、キリストを信じた者、すなわち選ばれた者たちが世界から集められるのだ(31)。なお、キリストの再臨の際、地のすべての部族は胸をたたいて悲しむと言う。それは、キリストを信じないままで、この日を迎えた者たちの姿である。「私はなぜ、信じなかったのだ!」との嘆き・・・このようなことがないように、「今日」という日にキリストを信じて、終わりの日に備えよう!
18日(金)マタイ24章32-34節
イエスは弟子たちに予め、終わりの兆しについて教えておられた。いちじくの木は、枝が柔らかくなり、葉が出て来ると「夏が近づいた」ことが分かると言う(32)だから、「いちじくの木」の状態から季節の移り変わりを察することができるように、様々な「しるし」から、再臨の時が近づいていることを知りなさい、とイエスは命じられた(33)。
こうして聖書で教えられているのだから、私たちは「知る」必要がある。だが、同時に、しるしの一部だけを見て浮足立つべきではない。なぜならば、34節にあるように、「これらのことがすべて起こるまでは」、この時代が過ぎ去ることはないからだ。これらのことばを一部だけ切り取ったり、大袈裟に解釈するのではなく、丁寧にまっすぐに理解していくならば、終わりの時に対して、本当に良い備えができるだろう。知らないならば恐れ、不安でいっぱいになり、時に絶望するだろう。だが、イエスは「知りなさい」と言ってくださっている!知っていることは、なんと心強いことだろか!
19日(土)マタイ24章35節
天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
天地とは、宇宙と地球といった私たちの目に見えている被造世界のことである。太陽にも寿命があると言われるように、この世界の被造物はすべて有限である。しかも、様々な事情により寿命を全うできないケースも多いだろう。とにかく、いつまでも当たり前にあると思っている物が、消えて無くなる日が必ず来るということだ。だが、永遠に残るものがある。ここでは、主イエスのことばは決して消え去らないと教えられている。それは、ことばだけが人々の心に残るということではなく、神のことばの力は真実であり、その力が永続するということだろう。何があっても変わらず、揺らぐことのない永遠のみことばに、私たちはいつまでも信頼して、堅く立って拠り頼むことができるのだ。消えない、失われない拠り所があるとは、なんと力強く安心できることだろうか!
20日(日)マタイ24章36-41節
終わりの日がいつなのか、それは「だれも知りません」と言われている。天使たちも知らず、ただ、父なる神だけが知っておられる(36)。そしてまた、それは「ノアの洪水」の時のようであるとイエスは言われた(37)。38節にあるように、直前まで人々は何事も起こらないかのように飲食をし、結婚式を行ったりなどしていたのだ。洪水が来てから彼らは知ることになったのだ。それと同じように、主キリストの再臨も何年の何月何日に来るなどは、一切わからないようにされているのだ。ただ、それはむしろ神の愛であろう。自分の生きている時代に「再臨がない」と知れば、いい加減な日々を送るかも知れない。また、来年だと分かると、それはそれであれこれ考えてしまい、いつも通りの生活はできないだろう。いつかは分からないゆえに、私たちの良心は守られ、いつ来ても良いように背筋を伸ばして歩むこともできる。明日キリストの再臨があるかも知れない。あなたは備えができているだろうか?
21日(月)マタイ24章42-44節
「目を覚ましていなさい」と主は言われる(42)。常に信仰の目を覚まして、霊的覚醒状態を保つようにということだ。主がいつ来られるか、はっきりとした日は誰にも分からないからである。泥棒が夜の何時に来るか分かっていれば、誰でも目を覚まして警戒することは容易い(43)。だが、泥棒は「何時に伺う!」等と言わないものである。むしろ、人が寝静まっている時を狙ってくるものだ。同様に、キリストがいつ再臨するかを、神はあえて明らかにされないのである。抜き打ちテストは、普段の継続的な努力を促すためのものだ。私たちは、いつ来られるか分からない再臨に対して、いつも信仰において用心して歩む必要があるのだ(44)。しかし、それこそ、私たちにとって幸いなことだからである。
22日(火)マタイ24章45-51節
「忠実な賢いしもべ」であるようにと主イエスは語られた。主人が帰って来た時に、その忠実なる姿を見てもらえるならば、その人はとても幸いなのである(46)。主人はその「しもべ」を喜び、全財産を任せてくださるのだ(47)。それは、主人がいてもいなくとも、変わらず忠実に奉仕していたからこその報いである。残念ながら、このような忠実で賢い「しもべ」ばかりではない。主人の帰りはどうせ遅くなるだろう!とタカをくくり、仲間を痛めつけ、酒に酔ってばかりいるような「悪いしもべ」もいる(48-49)。その場合、油断し切っているこの者のところに、突然主人が帰って来るのだ(50)。そして、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ生き様なので、彼らに対するのと同じ報いを与えられる(51)。だから、私たちはキリストの再臨がいつであってもいいように、いつも忠実に歩めむことを大切にしよう。それは私たち自身が有意義な日々を送る上でも、とても幸いなことである!
23日(水)マタイ25章1-13節
天の御国のたとえ話として、「ともしび」を持って花婿を迎えに出る10人の娘たち(ブライドメイド)の話をイエスはなさった(1)。娘たちの5人は愚かで、残りの5人は賢い者であった(2)。どちらも「ともしび」は持っていた。それは聖書理解や信仰生活であろうか。一方で、両者の違いは予備の油の有無であった。賢い娘たちは予備の油を用意していたが(4)、愚かな娘たちは予備を持って来なかった(3)。その結果、花婿の来るのが遅くなった時に違いが出てしまう。予備のなかった者たちは、油が足りず、賢い者たちに分けてもらうよう頼むが、十分な量はなく断られ(9)、買いに行くことになる(10)。だが、その間に花婿が来てしまうということだ。これは、聖霊の油注ぎの中で、信仰のともしびを燃やし続けて歩む人が賢い者で、まだ再臨はないだろうと不信仰に歩む者が愚かな者ということだろう。私たちは聖霊の助けをいつでも受けて信仰を燃やし続け、再臨への最善の備えとしよう!
24日(木)マタイ25章14-18節
有名な「タラントのたとえ話」である。天の御国のあり方、価値観を教えるために主イエスがなさったものだ。主人が旅に出るにあたり、3人のしもべそれぞれの能力に応じて、ある者には5タラント、ある者には2タラント、ある者には1タラントを預け、それを用いて豊かにすることを期待した(15)。このたとえにおいて、旅に出る主人は神ご自身、預けられた者たちが私たちということである。そして、抑えておきたいのは、「それぞれの能力に応じて」、任される額が決められたことだ。これは不公平と言うよりも、神はすべての人に同じものを求めてはおられないということだ。各人にふさわしい働きを期待している。
同時に、0タラントの人はおらず、最低でも1タラントは任されている。それゆえ、自分には「何もない、何もできない」とは考えるべきでないことがわかる。なお、1タラントは現代日本の金額で考えると、6千万円ほどなので、1タラントでさえ大変高額である。神はすべての人に、必ず豊かなタラントを与え、期待しておられるのだ!それを土に埋めず、豊かに用いていこう!!
25日(金)マタイ25章19-23節
タラントをしもべに預けて旅に出た主人が帰って来て、彼らと清算をした(19)。すると5タラント預かった者は、もう5タラントをもうけたので主人に差し出した。2タラント預かった者も、同様に、もう2タラントをもうけたので主人に差し出した。彼らは主人に忠実に仕え、与えられたものを豊かに増やすことができたのだ。この時に、どちらのしもべにも主人は言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(21,23)。これはもちろん、「たとえ」なので、イエスが言いたいのはお金の話ではない。各人に神から与えられている「賜物(たまもの)」についての話だ。そこには、様々な才能も財も地位も人脈も、神がくださったあらゆる良きものが含まれると思われる。いただいたこの賜物を感謝し、神が喜ばれる道に用いる時、神は祝福をもって豊かにしてくださる。そして、アナタに言われる!「よくやった。良い忠実なしもべだ」と!このように言っていただける歩みをさせていただこう!
26日(土)マタイ25章24-30節
1タラントを主人から預かった者は、他の二人とは異なっていた。24節にあるように、この人は主人を信用していなかったのだ。蒔かなかったところからも刈り取るという、なんとも非道で厳しい人物だと「分かっていました」と、この人は言う(24)。しかし、その認識はまるで間違っていた。大胆に財を人にゆだね、忠実だった者にはさらに多くを任せてくれる気前の良い主人であることが真実だ。ところが1タラント預かったこの人は、この認識ゆえに主人を恐れ、受けたタラントを土の中に隠しておいたと言うのだ。主人は彼を指して、「悪い、怠け者のしもべだ」と断罪した。恐れと間違った認識のゆえに、結局は自分の怠惰を他の人の責任に押し付けて、何もしなかっただけである。そのような者からは、持っていた1タラントが回収され、豊かに増やして10タラントにして者に与えられた。神を信頼してチャレンジする者は与えられるが、恐れて何もしない者は持っているものも失っていくのだ。
27日(日)マタイ25章31-46節 Part1
31節で、人の子、つまりキリストが栄光を帯びて御使いたちを伴って地上に戻って来られる時、その「栄光の座」に着くとある。この世界の「まことの王」の帰還だ。そして、その時には、すべての国の人々が集められ、王が彼らをより分けるとある(32)。
その方法は、羊飼いが、やぎの中から羊をより分けるようであると。羊を自分の右側に、やぎを左側に置くというのだ(33)。こうして右に分けられた者たちは、父の祝福を受けて、「御国を受け継ぎなさい」と宣言される(34)。だが、左に分けられた者たちはそうではない。悪魔とその使いのために用意された「永遠の火」に入れと言われる(42)。最後の最後まで、神に逆らい続ける者、敵対し続ける者についての厳しい言明である。だが、神の切なる願いは、すべての人が「羊」の側により分けられることである。この審判があることをあなどらず、イエスを信じて「御国を受け継ぎなさい」と宣言される者となろう!
28日(月)マタイ25章31-46節 Part2
キリストが栄光を帯びて再臨された時の審判の話。これまでの歩みを振り返って、それに対して神が裁判をなさる(33)。その際、祝福を受けるようより分けられた羊に理由を言われた。「わたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」(35-36)と。だが、言われた側は、いつ、あなたにしたでしょうか?と問いかける。その答えは40節にある。「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と。キリストが愛する兄姉たちにしたこと、最も小さな弱い者にした愛のわざは、「わたしにした」のだとカウントされている。ここがとても大切だ。神になら、そんなひどい事をしない!相手が神なら良い態度を取る!と言うかも知れない。だが、神が造り、神が愛している者を傷つけることは、神に逆らうことではないだろうか?
29日(火)マタイ26章1-5節
1節。「イエスはこれらのことばをすべて語り終えると」、ご自分が十字架につけられるために引き渡されることを宣言された(2)。この直前に、ご自身の再臨と世の終わりへの備えについて語られていた。ご自分の死が迫ってもなお、ご自分の恐れや痛みを語るのではなく、弟子たちを愛する姿勢で歩まれていたのだ。最後まで信じ続けること、父のみこころに生きて行くことを伝える主イエスである。その愛をも一緒に心に刻みたい。
祭司長たちは、イエスを捕らえて殺すタイミングを見計らっていた(3-4)。彼らは暴動や混乱を恐れて、過ぎ越しの祭りの期間は避けようと計画していたのだ(5)。だが、人の思惑ではなく、神のご計画のみがなる。イエスは過ぎ越しの祭りにささげられる小羊の完全なお姿、すなわち「神の小羊」としてご自分を十字架にささげ、救いのみわざをなさったのだ!
30日(水)マタイ26章6-13節
ある女の人が、非常に高価な香油(300万円ぐらいの価値)をイエスの頭に注いだ(7)。イエスによれば、彼女は良いことをしたのであり(10)、主の埋葬の用意してくれたのであった(12)。それどころか、この人のこと世界で語り継がれるというのだ(13)。だが、弟子たちはこれを見て憤慨し非難した(8)。彼らの言い分によれば、この香油は高く売れるから、貧しい人に施しができたはずだ!と言うのだ。しかし、本当に正義感だったのだろうか?ヨハネの福音書12章によれば、特に批判したのはイエスを裏切るユダであった。しかも彼は、会計係で、お金を盗んでいたとある。さらに「貧しい人々のことを心にかけていたからではなく」と書かれている(ヨハ12:6)。おそらく非難の動機は「妬み」であろう。彼女のように大胆に主のために献げられないゆえ、それを喜んでする彼女を妬み憤慨したのだ。イエスの身近な弟子たちが出来ていないことを、彼女がしたからである。私たちの心にも、こうした競う心、妬む心、ひがむ心はないだろうか。彼女のように主を愛することに心を注ぎたい!
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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