*** 4/16(水)祈祷会 説教概略 ***
先日の日曜日、礼拝の最後にJYLC(中高生)の卒業式を行いました。お母さんからの手紙をスタッフが代わりに読むかたちでした。彼は6歳の頃にお父さんが亡くなりましたが、教会で皆に愛され、そして祈られて今日まで歩んで来たと手紙の中にありました。
そして、これからも教会で皆さんに祈っていただきながら歩んで行ってくださいと、締めくくられていたと思います。私たちは誰でも、祈られて生きていく必要があるのです。様々な弱さや欠けがあり、主の神様の恵みとあわれみが必要なのです。
パウロは、これから大きな困難の中に入って行こうとしています。
今週は受難週ですが、この時のパウロも、エルサレムでの受難(迫害)に向かって旅して行くのです。
それはロバに乗ってエルサレムに入城したイエス様に通じる姿のように思います。パウロも福音のために死を覚悟してエルサレムに向かったのです。そこでパウロは、ローマの信徒たちに祈りの要請をしました。イエス様がゲツセマネの園で苦しみながら祈り、弟子たちにも祈るように伝えたのを思い出します。
パウロは、すべての働きが、祈られることによって守られ、全うされることを知っていたのです。彼は、様々な苦しみに遭う時、祈られていることがどれほど強いことかを知っていたのです。そのために「祈ってください」とお願いしています。私たちもひとりぼっちで孤軍奮闘しないようにしたいのです。互いに分かち合い、「祈られて生きる」ということを大事にしましょう。
1.祈りの共闘
30節 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。
「私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください」とあります。「ともに力を尽くして」と訳されたことばは、直訳では「共に闘う」という意味のことばです。いくつかの英訳聖書では、「私のために神に祈ることによって、私の闘いに加わって欲しい」とされています。つまり「祈りによって、私とともに闘って欲しい」というわけです。
素晴らしいクリスチャンの特権だと思いませんか。クリスチャンは、互いに離れた地で歩んでいても「共に闘う」ことができるのです。同じ主である神様に心を合わせて祈ることができるからです。
実際のところ、祈りの援軍ほど心強いものはありません。みこころにかなった信仰による祈りは確かに応えられますよね。そして、パウロはこの「祈りの援軍」があるから大丈夫だと考えました。祈りに聞いてくださる真実な主がおられるので、やがて祝福にあふれてローマの教会を訪れることになると語るのです。
2.3つの祈りの要請
さて、具体的に祈って欲しい内容が31-32節で告げられています。
31節 私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように、
32節 また、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところに行き、あなたがたとともに、憩いを得ることができるように、祈ってください。
第一に、「ユダヤにいる不信仰な人々から救い出されるように」と祈りの要請です。イエス様を信じない不信仰なユダヤ主義者から彼は憎まれ、命を狙われていました。明確な迫害がありました。それらの攻撃から守られるように祈って欲しいというのです。私たちも霊的な戦いのためにも、物理的な戦いのためにも、祈っていただきましょう。
第二に、奉仕が聖徒らに受け入れられるようにと祈りをお願いしています。31節で「エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように」とあります。これはユダヤ人の聖徒たちが、異邦人からの支援金を拒む可能性があったからです。実際のところ、異邦人に対する嫌悪、異邦人に肩入れするパウロへの反感がありました。こうしたことから、せっかくの支援金を彼らが拒む可能性があったのです。そして、これを拒まれたなら、異邦人とユダヤ人の関係はますます悪化します。祈りが必要だったのです。特に、人の心はとても複雑で難しい。私たちに人の心を変える力はありません。しかし、神様には可能です。だから、皆で祈るのです。あの人が悔い改めて立ち返ることができるように。砕かれて主の声に聞ける者となるように。喜んで主に仕えていけるようにと。
ある子が恐れてしまい、キャンプをキャンセルしようと決めた時、皆で祈りました。心を砕いて一心に祈りました。スタッフ皆で、祈祷会で祈りました。そして、もう「行かない」と決めていたはずの心が変えられたのです。すると、キャンプで取り扱われ、この子は大きく成長して帰って来ました。祈りの援軍がいつでも必要なのです。
第三に、喜びをもってローマに行き、ローマのクリスチャンたちと主にあって憩うことができるようにと祈りを要請しました。案の定、パウロはエルサレムに逮捕、拘留されてしまいます。しかし、その間もローマの信徒たちは祈っていたでしょう。信仰の友たちは祈っていたでしょう。すると、どうでしょうか。不可能にも思えたローマへの旅が、裁判を受けるためという理由で実現していくのです。人の常識を超える神のみわざです。
私たちはしばしば、祈りの要請を遠慮することがあります。もったいないのです。実に「祈って欲しい」とお願いすることは、人々の信仰を呼び覚ますキッカケになることもあるのです。今牧師をしているある友人は、中学生時代に祈祷会に出席した時のことが、とても心に残っていると言います。その時、教会は非常に大きな問題に直面し、信徒リーダーたちも悩み苦しんでいました。何が正しい判断なのか分からなかったのです。中学生だった彼は、その時の祈祷会で、尊敬する信徒リーダーの方から「私たちのためにぜひ祈って欲しい」と、涙ながらにお願いされたそうです。まだ若く、信仰も浅い自分だったけれど、大の大人が涙ながらにお祈りをお願いしてくれた。その事で心が深く揺さぶられたと言います。
祈りの要請は、祈られる側が守られ、支えられるだけではないのです。要請されて祈る者も大きな恵みを受けるのです。「祈りによって、私とともに闘って欲しい」とパウロが言うのはそのためです。援軍に加わった者にとっても、主のみわざを体験できる恵みの機会です。祈る者も、祈られる者も主のみわざを知るのです。
事実、最近多くの祈りが応えられ、ともに喜べることを感謝しています。教会債返済も祈り続けていますが、本当に豊かに、継続的に与えられています。予定の倍のペースで進んでいます。数か月前には、CSが0人ということが2回もありました。CSの先生たちが落ち込んでいました。しかし、そこから祈祷会でも祈っていただく中で、なぜか急に与えられて、最近は10人を超える時もあります。何か特別なことをしたわけではないのです。ただ、皆で切に祈りました。JY(中高生会)もスタッフが苦労してきましたが、やはり諦めずに関わり、祈り続けています。その中で一人一人が大きく変えられてきました。信仰告白に導かれる人も次々と起こされています。祈りが応えられているのです。
ですから、パウロのように、祈りの重要性を理解して、積極的に祈りを要請し、祈りの輪を広げていこうではありませんか。そうすることで、皆でともに喜ぶことができるのです。祈りの要請をしたからこそ、一緒になって、主からの祈りの答えを味わえるのです。
この受難週、イエス様の十字架のみわざに目を向け祈りましょう。主は十字架の苦しみのただ中にあってさえ、ご自分のためにではなく、私たち罪人のために祈ってくださったのです。私たちもともに祈り合いながら、受難からイースターの勝利へと向かっていきましょう!