東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: エレミヤ書4章19-31節「神の使節として」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/07/21

エレミヤ書4章19-31節「神の使節として」

 *** 7/20(日)主日礼拝 説教概略 *** 

 タイトルにある「使節」とは外国にあって、その国と仲良くするための国の代表のことです。大使館の大使さんも使節ですね。自国の良さを伝え、国と国の架け橋になるのです。では、タイトルのように「神の使節」という場合はどうでしょう。

ハリネズミとリス(折り紙)

 それは神の国がすべての人に必要な良い国だと伝える人です人の弱さをよく理解しつつ、神の国にすべての人が入れるよう「架け橋」となる存在です。このエレミヤという預言者は、まさに神の使節です。人間の中から選ばれました。神のことばと救いを伝える人です。

 しかし、そこには苦闘があります。人は自分を造ってくださった神に背き、自分勝手に生きているからです。彼は神の救いの知らせ伝えますが、人々が信じず拒み、滅びに向かっていくからです。

 仮にあなたが、どんなガンをも直せる薬を開発できたら、大切な人に使って欲しいでしょう。でも、自分はガンではないと思い込んだり、その薬は効かないと思い拒んだりし、大切な人がそのまま亡くなるならどうでしょう。とても歯がゆく悲しいですよね。

 今日のみことばは、預言者エレミヤのそうした苦しみを語るのです。彼は神の愛を伝えつつも拒まれ、かえって迫害され、嘆き悲しみました。それゆえ「涙の預言者」とも言われます。だから私たちは、神様とエレミヤの嘆きのうちにある、私たちへの愛を受け取りたいのです。そして、私たち自身もまた、隣人のために涙して祈る者とされ、救いの知らせを伝え続ける神の使節とならせていただきましょう。その涙はやがて、喜びの涙とされるからです。

 

1.エレミヤの見た未来と嘆き

 19-21節はエレミヤが神様から示された祖国の未来と、それに対する嘆き悲しみが語られています特に19節は、エレミヤが「私のはらわた」と、自分の内臓たちに呼びかけて、悶え苦しむ姿があります。その理由は何でしょう。

 19節後半に「私のたましいが、角笛の音と戦いの雄叫びを聞いたからだ」とあります。戦争が起こるのです。エレミヤの祖国ユダ王国が、あのバビロニアに破壊されようとしていたのです。このバビロニアによる侵略こそ「神のさばき」でした。人々が神に背き、愛もあわれみもない罪深い歩みを続けていたからです。そして、20節にあるように「破滅」が近づいていたのです。

 エレミヤは、神様からそれを示され、さばかれる人間の悲惨を心を引き裂かれるような自分の痛みとして感じているのです。彼は神様の愛を痛いほど分かり、その愛を自分のものとして人々を心配しているのです。だからなんとかして、皆が悔い改めて救われるようにと願い、しばしば神様にも訴えるのです。しかし、神様の正義はいい加減ではありません。罪を放置すれば、ますます悪くなることを知っているのでさばかれるのです。

 22節は神様のことばです。

22節「実に、わたしの民は鈍く、わたしを知らない。 愚かな子らで悟ることがない。 悪事を働くことには賢く、善を行うことを知らない。」 

 神様はすべてをご存知です。民の心は鈍くなり、もはや愛の神様を無視し、空気のようにしていました。神によって造られ、愛されている民なのに。息を吐くように罪を犯し、皆自分のことしか考えないので、善なることができないのです。今の世の中も、そのような世界かも知れませんね。私たちもこの世界のためにもっと祈る必要があります。

 23-26は再び、エレミヤの見た未来とそれについての嘆きが語られます。時が少し進み、戦争の勝敗が決し、焼けて無残に荒廃した未来のエルサレムの姿があります。例えば23節では「茫漠として何もなく」とあります。どこかで聞いたことがある表現です。これは創世記12節で、天地創造がなされる前の姿として、「茫漠として何もなく」と語られていました。せっかく造られた神の美しい世界。それが人の手によって破壊され、無に帰していくような描写です。さらに、23節後半では「天を見ると、その光はなかった」とあり、闇の世界を見るかのようです。25節では、人の姿も鳥の姿も見られず、いのちが感じられない様子です。

そして、27-28節で、再び主ご自身のことばをエレミヤは語ります。

27節 まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。28 このため地は喪に服し、上の天は暗くなる。わたしが語り、企てたからだ。わたしは悔いず、やめることもしない。」 28節で、神様ご自身のことばとして「わたしが語り、企てたからだ」とあります。この滅びは、偶然やたまたまではない。神様の聖なるさばきのゆえでした。エレミヤ自身も26節で「主の燃える怒りによって、打ち壊されていた」と触れていました。神様の罪への怒りです。さらに主は、28節で後悔してさばきをやめることはないと言われます。神様は全知全能ですから、間違ったさばきをしませんので、後悔もなく悔い改めない限り執行されるという厳粛さがあります。

こうして、最後の29-31節のエレミヤのことばに至ります。神のさばきからは逃げられません。上辺を繕って美しく見せても無駄です。なすすべなく疲れ果てることが語られています。

 

2.神の愛に対して鈍い心になってはならない 

 さて、これらはエレミヤが神様から見せていただいた将来のイスラエルの姿です。戦争が起こり、都は焼かれ、荒廃し人々は希望を失っていきます。それは、この民の多くの罪の結果でした。そのために神様はエレミヤを遣わし、人々を救いたいと切に願っているのです。

 私たちはここで神様から何を語られるのでしょうか。

 それは、神の愛に対して鈍い心になってはならないということです

 22節のことばは、神様の深い悲しみを表しています。「実に、わたしの民は鈍く、わたしを知らない」と。神様は、こんな極悪な民になってもなお、「わたしの民」と呼んでいます。見捨てていないのです!未だに愛する私の民と呼ぶのです!それはイエス様が、裏切り者ユダにさえ「友よ」と言われた姿と重なります。人は神様の事を、「あなたなんて知らない」と言います。しかし神様は「わたしはあなたを知っている、わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われるのです。それは、27節の主のことばからも分かります。「ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない」と。神様は滅ぼすことを目的としていません。

 最初にエレミヤに宣言していました。
110節 見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために 

 最後にあるのが真の目的です。一度倒れさせるのは、建て直し、植え直すためなのです。そのまま本当に滅んでしまわないために!主は、救いたいのです。エレミヤこそは、そのための「神の使節」です。彼は神の愛を痛いほど知っています。だからこそ、この愛のメッセージを受け入れず、拒む者たちの姿が歯がゆく、また嘆いているのです。こうした痛みは、クリスチャンなら少なからず通ります。

 私は様々な教団・教会でCSやユーススタッフの研修等でご奉仕させていただきました。そこでは、断られても、煙たがられても声をかけ続ける皆さんがいました。そして時に、「もう心が折れそうです」とか「どうしていいか分からないのです」と涙ながらに話される姿がありました。一度や二度ではありません。子どもたちのため、若者たちのために、エレミヤのごとくに、胸を痛め涙して祈る人々がいるのです。いや、ここにいる全員が祈られてきたし、祈られています。祈られずにココにいる人はいません。忘れないでください。時に涙して本気で祈って声をかけてくださる人が、あなたにもいるのです。忘れないでください。

 小説家・三浦綾子さんが救われたのは、前川さんというクリスチャン青年の存在が大きかったのです。彼女は結核という深刻な病で自暴自棄になっていました。でも、前川兄は繰り返しイエス様の救いを伝えました。しかし、綾子さんの心は頑なでした。反発しました。彼女はなんと、肺の病でありながら、彼の前でわざとタバコを吸って見せたのです。前川さんは悲しみのあまり、自分を責めました。石で自分の足を何度も打ったのです。綾子さんはさすがに驚き、「なぜ、そんなことを?」と尋ねました。彼は言うのです。「綾子さんのために、それはもう熱心に祈りました」。また、綾子さんが生きるためなら、自分のいのちもささげる覚悟もあります。それでも、信仰の薄い自分は、綾子さんを救いに導けないでいる。そんな不甲斐ない自分を罰するために、自分を石で打っているのだと。この前川さんの姿は、エレミヤと似ていませんか。いや、実はエレミヤの姿は、イエス様を指し示す姿でした。神のみこころと人の弱さを理解し、その間に立って涙してくださるキリストの愛です

 三浦綾子さんは、自分のためにここまでしてくれる前川さんの姿に、いつの間にか涙していたそうです。このような愛は本当に尊い。あなたのために涙して祈る人がいる。忘れないください。
 

3.神の(キリストの)使節となる

 そして、その愛を受けて、イエス様の十字架を信じて救われたならば、それで終わりではありません。今度は私たちがエレミヤのように、イエス様のように人のために胸を痛めながら祈り、伝える番ではないでしょうか。人々の弱さと、その行く末を嘆き、自分のことのように涙する人の存在が、必要とされているのです。今の世は、できるだけ傷つかないように、自分を守って生きる人が圧倒的に多いです。他の人のために傷つく覚悟を持つ人が、ほとんどいない時代となりました。だからこそ、エレミヤのような預言者、イエス様のような大祭司が必要です。その弱さを理解し、彼らのために涙して祈る存在です。前川さんのような人です。

Ⅱコリント 5:20にこうあります。  こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。 

 私たち救われた者はキリストに代わる使節なのです。神の愛とお心を知った者にしかできない役目です。あなたを通してしか、神様の愛とそのおことばを聞けない人々がいるのです。そして、あなたが祈って差し上げないと、誰からも祈られることがない人もいるのです。 私たちも神の心を自分の心としたいのです。人の弱さ痛みを知って、そのために涙して祈る者とならせていただきたいのです。十字架の上に、私たちすべての罪人の代わりにご自分の身をささげられたイエス様のように。主は心頑なで、拒み否定する者のために祈られました。

父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。

涙とともに祈られてきたあなたであると私は信じています。祈りなしに教会に導かれることはないと思うのです。今度はそのあなたが、涙をもって大切な人のために祈る番です。その涙を決して主は無駄になさいません。喜び叫びながら収穫する時が訪れるのです。


引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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