ペテロが脱出し、牢獄は大変な騒ぎだ。ヘロデ・アグリッパ王はその番兵たちを処刑した(18)。さて、ヘロデはツロやシドンにひどく腹を立て圧力をかけていたのだろう。それゆえ、それらの人々は王を訪ね、侍従に取り入って和解を願い出た(20)。ヘロデの機嫌を損ねて食糧を失いたくなかったからである。それで、ヘロデは権力を示すため、王服を着て彼らの前で演説を行った。集まった会衆はなんと「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた(22)。しかし、自分を神とするような者は、やがて神によって滅び去るものである。23節で事件が起こった。なんとヘロデは虫に食われて(刺されて?)、息絶えてしまった。その理由が23節にある。「即座に主の使いがヘロデを売った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである」と。主がなさったことなのだ。しかも人の手によらず、一瞬で、それも小さな虫一匹によって絶命したのだ。人とはなんと小さくはかない存在であろうか。それに対比されるかのように、24節で「神のことばはますます盛んになり、広まっていった」と語られる。むなしく消え去る一瞬の自分の栄光を求めるのか、それとも永遠に残り、ますます盛んになる神の栄光のために生きていくのか。私たちの選ぶ道ははっきりしている。
2日(火)使徒13章1-3節
アンティオキアで始まっていった教会には、多種多様な人々が同じ主を信じて集まっていた。ユダヤ人であるバルナバやサウロが集い、あるいは、ニゲルと呼ばれるシメオンもいた。この人はアフリカ出身の黒人系の人、そしておそらく主イエスの十字架を代わりに担いだクレネ人シモンではないか。また、クレネ人ルキオもまた、同じようにアフリカ出身の人物であろう。そして他には、領主ヘロデの乳兄弟マナエンもいた。説明にあるように身分の高い人物であることは言うまでもない。ユダヤ人、アフリカ人、また身分の高い人々・・・ここには多種多様な者たちがいたのだ。これぞ主の教会ではなかろうか。天の御国では、国籍や人種などでどんな差を設ける必要があろうか。同じ主にある「神の家族」というだけで十分だろう。それができたのは、2節にあるようにともに主を礼拝し、同じ御霊によって歩んでいたからである。そして、この群れからバルナバとサウロによる第一回伝道旅行が始まって行く。
3日(水)使徒13章4-12節
バルナバとサウロは聖霊によって送り出され(4)、サラミス島全体にみことばを伝え、パポスまで行った。そこで魔術師、また偽預言者であるバルイエス(通称名エリマ)というユダヤ人に会った。彼は地方総督セルギウス・パウルスのもとで仕え、この総督は賢明な人物でバルナバとサウロから神のことばを聞きたいと願っていたのだ(7)。しかし、魔術師エリマは二人に敵対し、総督を神から遠ざけようとした(8)。それもそのはずで、総督がまことの神に従うようになれば、偽の預言者も占いも魔術も用なしになるからだ。だが、ここでサウロことパウロは、聖霊に満たされて、彼をにらみつけて厳しく糾弾した(9-11)。驚かされるのは、パウロが「聖霊に満たされて彼をにらみつけて」相手を「悪魔の子」と呼んだことだ。聖霊に満たされる時、愛や親切に生きるようになるとばかり考えがちだが、悪に対して強く対峙する勇気も与えられるのだ。クリスチャンは優しく寛容なだけで良いのだろうか。間違っていることに対して、しっかり対峙するのも信仰だ。これにより、魔術師はしばらく目が見えなくなり、総督は主の教えに驚嘆し信仰に入ったのだった(12)。
4日(木)使徒13章13-25節
バルナバとパウロは、ピシディアのアンティオキアに来て、安息日に、会堂に入った席に着いた(14)。すると、会堂司が彼らに「何か奨励のことばがあれば、お話ください」と頼んだのだ(15)。それでパウロが立って語り始めた。それは旧約時代からの神の救いの歴史についての奨励であった。そこで何よりもパウロが伝えたかったのは、22-23節にあるように、ダビデ王の子孫として、イスラエルに救い主イエスを神が送られたことであった。さらに、24-25節では、バプテスマのヨハネについて語るが、彼は「その方は私の後から来られます」、「私には、その方の足の履き物のひもを解く値打ちもありません」と、イエスの権威を示したことを語っている。パウロは、こうしてイエス・キリストの救いを明示している。主イエスを迫害してきたパウロだが、今は誰よりもキリストの救いを伝えている。彼は「パウロ」と名乗り始めたが、その意味は「小さい」だ。彼はヨハネのように、自分を小さな者とし、キリストの救いの偉大さを伝えようとしている。私たちもそうありたい。
5日(金)使徒13章26-32節
パウロは会堂の聴衆に語りかけた。「アブラハムの子孫である兄姉たち」、また「神を恐れる方々」と(26)。まことのアブラハムの子孫は神を恐れる者であり、救い主を歓迎する者である。しかし、エルサレムの指導者たちは、このイエスを認めず、会堂で読まれている預言者らのことばも理解せず、イエスを罪に定めて預言の成就をさせることになった(27)。こうして、彼らは死に値するような罪が全くなかったイエスを十字架にかけて殺したが(28-29)、神はイエスを死者の中から復活させたのだとパウロは語る(30)。そして、復活後のイエスは多くの者たちに、何日にも渡って現れ、それを目撃した者たちが証人として証ししていると説いた。パウロは、このように聖書の約束と、実際に起こった事実とを説き明かし、聴衆に福音を伝えた(32)。私たちが信じているものは、迷信や神話ではない。旧約時代から語られていたことであり、実際に起こった歴史であり、多くの証人が存在する事実である。私たちも何を話そうかと悩まず、聖書そのままを、キリストの生涯を、事実そのままを伝えれば良いのだ!
6日(土)使徒13章33-39節
パウロは主イエスの復活を力強く証しし、それは旧約聖書の約束であったということを説き明かしている。これは旧約を学んできたユダヤ人にとって重要なことであった。33節では、詩篇2篇を引用し、34節ではイザヤ55章から、さらに35節では詩篇16篇を引用しながら、主イエスが神によって生まれた神の子であること、ダビデ自身は滅びるが、その子孫として生まれたイエスは、神によってよみがえり、滅びることがないことを語った(37)。イエス・キリストの復活こそ、私たちの救いの基盤である。罪のさばきをその身に受けて死に、死からよみがえり生きておられる!復活によって、律法では不可能だった完全な罪の赦し、罪への勝利がもたらされた!だから、信じる者は義(神の目に無罪)と認められるのだ(39)。主イエスの十字架の死だけでなく、その復活を心から信じよう!それは最初から神が定めていた救いのみわざであり、みことばの約束は復活によって成就し、確かなものとされたのだから!
7日(日)使徒13章40-43節
パウロは会堂での奨励の最後に、「気をつけるように」と言った(40)。それは、預言書にあるような悲しいことにならないようにであった。パウロは、ハバクク書1章5節を引用して人々に伝えた。「見よ、嘲る者たち。驚け。そして消え去れ」とある。嘲る者とは、神とそのことばを軽んじ、嘲る者たちということだ。その者たちは、驚き恐れ、そして消え去って行くしかない。なぜなら、先程のことばの後に「わたしが一つの事を、あなたがたの時代に行うからだ」と続くからだ。それは、神の警告を無視し、悔い改めないならば、神のさばきが、あなたがたの時代になされるということだ。幸いにも、この会堂の人々は心を開いて、みことばを求めた!!次の安息日にも語って欲しいと求めた!会堂を去った後も、人々が話を聞かせて欲しいと、パウロとバルナバの後について来て、語り合ったのだ。私たちも求めよう。求め続けよう。拒んだり侮ったりせず、主の救いのことばを求め続けよう。理解が十分できなくても、完璧に実行できなくても求め続けよう!主はそんなあなたを覚えていてくださる。
8日(月) 使徒13章44-46節
次の安息日には、ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まって来た(44)。このように求める人々が起こることは、とても嬉しく感謝なことである。どの町にも求める者はいる。だから、あきらめずに種を蒔き続けることが大切なのだ。だが、これを見たユダヤ人たちはパウロが語ることに反対し、口汚くののしったのだ(45)。しかも彼らの動機は「ねたみに燃え」てであった。正しいことをしよう、神のことばをまっすぐに伝えようと思えない姿に、当時の指導者たちの堕落を見る。だが、46節を見ると、このような反対さえも、神の豊かなご計画の一部であったことに気づく。こんなにも罪深い「ねたみ」さえ、主の計画を曲げることも止めることもできず、これによってかえって異邦人宣教への力が増していくのだ。46節にあるように、彼らのこの妨げで、パウロたちは「私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」と決意を固めることができたのだ。私たちも様々な妨げ、反対を受けることがある。だが、それもまた主の新しい計画が動こうとしているしるしかも知れない!
引用元聖書
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