*** 9/17(水)祈祷会 説教概略 ***
第一ヨハネ5:4にこうあります。「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」キリスト者は、既に罪とこの世の様々な悪しき存在に勝利しています。キリストが十字架の上で勝利されたからです。ですから、敗北者としてではなく、滅びることのない勝利者として歩んでいきましょう。
ユダヤ人虐殺を企てたハマンが死刑になった後、このようなやり取りがありました。
1節 その日、クセルクセス王は王妃エステルに、ユダヤ人を迫害する者ハマンの家を与えた。モルデカイは王の前に来た。エステルが自分と彼との関係を明かしたからである。
2節 王はハマンから取り返した自分の指輪を外して、それをモルデカイに与え、エステルはモルデカイにハマンの家の管理を任せた。
王はエステルにハマンの家を与えました。そしてついに、エステルはモルデカイとの関係を明かしたのです。すると王は、ハマンから取り返した王の指輪を、なんとモルデカイに与えました。彼をハマンの次の宰相に任命したのです。かつて、エジプトのファラオがヨセフに全権を委任し、指輪を与えた場面を想起させます。実際、エステルとモルデカイのおかげで、この国はハマンの自分勝手な横暴から救われました!結果として彼らは、ペルシアの国にとっても恩人となったのです。このように神に従う者は、圧倒的な勝利者となるのです。自分の祝福だけで終わりません。関わるあらゆる人々に恵みと祝福をもたらしていけるのです。嬉しいですね。
与えられた神の試練は、本当に過酷なものでした。死が目の前に迫り怖かったでしょう。悩み苦しんだでしょう。けれども、神に信頼して誠実を行った時、いのちを得たのです。神の国とその義を求めて生きるならば、神様は必要なものはすべて与えて下さるのです。いや、モルデカイのように、それ以上を与えられるのです。
さて、一方でまだ戦いは終わっていません。ハマンが死んだだけで、出された虐殺命令は依然として有効です。命令は既に公布され、ハマンの同族のアマレク人たちは、着々とユダヤ人虐殺の準備をしているのです。ハマンが首謀者であるにしても、実にアマレク人全体が、出された法令を盾にしてユダヤ人を滅ぼそうと意気込んでいるのです。彼らは悪魔に心を奪われ、神の民を滅ぼそうとしていました。ハマンはその悪意のごく一部に過ぎなかったのです。ですから、エステルとモルデカイの戦いはまだ終わってはいません。それで3節にこうあります。
3節 エステルは再び王に告げて、その足もとにひれ伏し、アガグ人ハマンがユダヤ人に対して企んだ、わざわいとその計略を取り除いていただきたいと、泣きながら嘆願した。
彼女は涙しながら、ひれ伏して、必死に同胞たちの救いを嘆願しました。王は彼女を信頼し、話の許可を出しました。こうして5節にあるように、エステルは、命令を取り消すための詔書を出していただけないかとお願いしたのです。それに対して王は7節で答えます。
7節 クセルクセス王は、王妃エステルとユダヤ人モルデカイに言った。「見よ。ハマンの家を私はエステルに与え、彼は柱にかけられた。ハマンがユダヤ人たちに手を下そうとしたからである。
これは「もう私の方では罰すべきは罰した」ということでしょう。それ以上のことは、お前たちでするが良いというニュアンス。ですので、8節で王はこう言います。
8節 あなたがたは、ユダヤ人についてあなたがたのよいと思うように王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができない。」
何度も申しますが、この国では王命による法律は、決して撤回することができないのです。王は神のような存在で、「間違ったりしないのだ」という歪んだ前提に立っているのです。ですから「ユダヤ人を根絶やしにせよ」との命令は、もう覆らないのです。このような神をも恐れない価値観が悲劇のもとになっているとも言えます。
ですので、その代わりに、王の指輪で新しい法を出す権限をモルデカイとエステルに与え「後は自分たちでどうにかせよ」としたのでしょう。それでモルデカイは、同胞ユダヤ人に自衛権を与えることにしたのです。10-11節です。
10節 モルデカイはクセルクセス王の名で書き、王の指輪でそれに印を押し、その書簡を、御用馬の早馬に乗る急使に託して送った。11節 その中で王は、どの町にいるユダヤ人たちにも、自分のいのちを守るために集まって、自分たちを襲う民や州の軍隊を、子どもも女たちも含めて残らず根絶やしにし、虐殺し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪うことを許した。
つまり、攻撃してくる者たちに対して、いのちを守るために戦い、滅ぼすことができる許可を出したのです。このように制限なしの権利にすることも意味があったでしょう。
命がけの戦いで手加減はできません。中途半端に戦えば、まず間違いなく敗北することでしょう。ただし、11節最後にありますように命令ではなく、「許した」に過ぎませんでした。これは3章でハマンが出した法令と対をなし、内容はほぼ同じなのですが、「命令」ではなく「許可」であることは大きな違いです。どこまでやるかは、自由が与えられたのです。
さて、ユダヤ人虐殺命令の執行日が近づく中、9節以降では、急ピッチで新しい法令の書簡が制作され、各地方に早馬で届けられていきます。14節にこうあります。
14節 御用馬の早馬に乗った急使は、王の命令によってせき立てられて、急いで出て行った。この法令はスサの城で発布された。
現代でも、悪魔の支配のもとで滅びに向かう人々がいます。先日90歳間近の男性求道者とお交わりの機会がありました。とてもしっかりした方。考え方も理路整然。イエス様を信じないかと伝えましたが、「今はまだその時ではない」と。ただ、私は、人はいつ終わりが来るかは分からない。だから、少しでも早い時に、信じて備えておくことが大切だとお伝えしました。無理強いはしません。でも、救いを得る方法をお伝えし、お別れをしました。彼らに、救いの知らせを少しでも早く届ける必要がありますよね。そうでないと、滅びの日に間に合わなくなってしまうからです。それこそ早馬を走らせるように急いで伝えたいのです。
みことばに戻りますが、こうして、二つの救いの知らせが民に大きな喜びをもたらしました。15-17節でわかります。
15節 モルデカイは青色と白色の王服を着て、大きな金の冠をかぶり、白亜麻布と紫色のマントをまとって、王の前から出て来た。すると、スサの都は喜びの声にあふれた。16節 ユダヤ人にとって、それは光と喜び、歓喜と栄誉であった。17節 王の命令と法令が届いたところは、どの州、どの町でも、ユダヤ人は喜び楽しみ、祝宴を張って、祝日とした。この地の諸民族の中で大勢の者が、自分はユダヤ人であると宣言した。それはユダヤ人への恐れが彼らに下ったからである。
一つは、ユダヤ人の救いの象徴として、モルデカイが、王とほぼ等しい権限を持って立てられたことでした。15節を見ると分かるように、すべて神様がお膳立てをし、モルデカイに王の装いが与えられ、王から全権を委ねられた者として立ったのです。彼の姿は、やがて来られるキリストを象徴すると言えるでしょう。皆、彼を見て勝利を確信しました。歓喜しました。16節でそれは「光と喜び、歓喜と栄誉」と表現されています。
二つ目の救いの知らせは、17節にありますように、先ほどの新しい法令で、悪に対して徹底抗戦して勝利を得る許可が出たことです。それは、キリストの到来によってもたらされる「新しい戒め」、「新しい契約」の象徴でしょう。
もちろん、私たちは武力で戦うのではありません。みことばと信仰による戦いです。エペソ6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。悪魔とその配下の悪霊たち、そして彼らに操られる人々がいつの時代にも沢山います。しかし、キリストの十字架は、勝利のしるしです。もうすでに勝利を得ているのです。信じる者が、キリストの愛から引き離されることは決してないのですから! ですから、私たちは勝利の旗印のもと、悪の虜になっている人々に、十字架の救いの知らせを届けましょう。恐れず大胆に。もう奪われない。負けることがないのですから。
引用元聖書
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