*** 9/14(日)主日礼拝 説教概略 ***
少し前に、中高生会で、ある教会学校の先生の話をしました。中学生になる時に、不良の道に行くか、それともイエス様について行くのかで悩んだそうです。「ええ!あの先生が?信じられない!?」と驚いている人もいました。不良の子分になるのか、イエス様の弟子になるのか。チェーンを持つのか、聖書を持つのか悩んだのです。
もちろん、彼女はイエス様の道を選んだので、今、幸せに過ごし、イエス様のことを子どもたちに教えているのです。私も同様で、二十歳でお酒とタバコをやめた人間ですから、イエス様について行く決断をしなかったならば、どうなっていたことか。
皆さんの前にも、多くの人生の分かれ道があります。しかし何のヒントもなく、良い道を見極めるのは困難です。一見良さそうに見えたけれど、進んでみたら最悪だったということはあるでしょう。しかし、私たちには尋ね求める相手がいるのです。警告の笛を吹いてくださる方がいる。今日の鍵となるみことば16-17節です。
16節 主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。17節 わたしは、あなたがたの上に見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った。
神様は「いにしえからの幸いな道」を知っておられ、「わたしに尋ね求め、その道を歩め」とおっしゃるのです。常に見張ってくださり、間違いそうな時には警告の角笛を鳴らし、そっちじゃないと教えてくださる。そうして、神が与える幸いな道を歩み、たましいに安らぎを見出せと言われる。それなのに、そこを歩まないとなる時、道を誤るのです。人生の分かれ道に立つ時、しっかり信仰の目で見渡し、主の声に尋ねて、幸いの道を行かせていただきましょう!
1.破滅の道を進み続けてしまう人の愚かさ
神が愛している民が、今や神から離れ破滅が近づいていました。7節は、その当時のエルサレムの惨状について、短いながらも印象深く語っています。
7節 井戸が水を湧き出させるように、エルサレムは自分の悪を湧き出させた。暴虐と暴行がその中に聞こえる。病と打ち傷がいつもわたしの前にある。
井戸を掘った際に、水が噴水のように湧いて出るかのように、悪が止まることなく湧き出て来ると言うのです。暴虐と暴行があふれ、病と打ち傷が絶えない。すべて神様に背き続けたゆえです。さらに、13-15節をご覧いただけるでしょうか。ここにも、この民が破滅を向かってしまっている深刻な理由が、主ご自身のことばとしてエレミヤの口から語られています。
13節 なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。
14節 彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。
15節 彼らは忌み嫌うべきことをして、恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない。
身分の低い者から高い者まで、預言者や祭司も、それぞれに自己中心で、利得を貪り、偽りを行っていたのです。これには最初、エレミヤは抵抗を覚えていました。いくらかでも良い人はいると考え、探し回ったのでした。なぜなら神様は、「公正を行い真実を求める者が一人でもいたら、エルサレムを赦そう」と言われていたからです(5:1)。
エレミヤは最初、身分の低い庶民の中で、そういう人を探しましたが、いませんでした。そこで彼は身分の高い教養のある人たちで探したのです。ところが、結局、神様に聞き従う者は一人もいなかったのでした。それで、この6章13-15節で主がおっしゃることばを、否定しようもありませんでした。多くの預言者たち、祭司まで堕落しきっていたのです。
14節では、「彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし」とあります。この「傷」とは心や霊的な意味です。神様への反抗の結果、神の愛と祝福から離れ、心もたましいも深く傷ついているのです。神から離れた愛なき孤独です。その傷をいいかげんに癒したというのです。以前の訳では「手軽にいやし」とされていました。「いいかげんに」、「手軽に」癒すとはどういうことでしょうか。それは、神様以外のまがい物でごまかすということです。それは、親の愛が欲しいと求める子に対して、おもちゃを買い与えて機嫌を取るかのようです。
ですから、本当は癒されていない。平安がない。それなのに、『平安だ、平安だ』と言いくるめるのです。それを信じる民も大問題、騙す指導者たちも大問題です。このような民ですから、これから神のさばきの中に倒れて行ってしまうのです。
12節では、「彼らの家は、畑や妻もろとも、他人の手に渡る。」とあります。15節の後半でも、「だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる」と語られます。破滅の道以外の何物でもありません。こんな悲惨な状態ですから、神様はなんとかして彼らを助けたいのです。救いたいに決まっています。ご自身が愛を注いで造られ、大切に守り導いてきた民なのですから!では、どうしたら良いのでしょうか。
2.幸いの道を神に尋ね求めよ
最初に読みましたが、改めて16-17節に目を留めましょう。
16節 主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。
17節 わたしは、あなたがたの上に見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った。
「いにしえからの通り道」とありますが、それは申命記等で繰り返し出て来た「主の道」を指しています。それこそは、神様との正しい良い関係をもたらす幸いな道です。詩篇16篇2節にこうあります。「あなたこそ 私の主。私の幸いは あなたのほかにはありません」とあります。神様ご自身に幸いがあり、神様ご自身に平安(シャローム)があります。この方に尋ね求めよと言うのです。人生の分かれ道に立つ時、しっかりと信仰の目を開いて見渡し、神様に尋ね求めるのです。その時に、神様が幸いの道へと導いてくださるのです。
ところが、私たちはしばしば16節の最後にあるような選択をしてしまいます。彼らは『私たちは歩まない』と言った、17節の最後にも『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った。とあります。本当に私たち人間は愚かで、自分の道が純粋で正しいと思いたい。思ってしまう。いや、思っていなくても自分の望む道を選んでしまうのが、悲しいかな・・・罪の性質なのです。では、それでもう終わりでしょうか。終わりではありません。
私たちは道を誤れば、時に本当に痛い目に遭います。なぜ、あの時、もっと神様の声に従ってこうしなかったのかと思う。けれども、終わりではない。その痛い目に遭っている時、そこに神様の相手の御手がそこにあるのです。8節にこうあります。
8節 エルサレムよ、懲らしめを受けよ。そうでないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを、人も住まない荒れ果てた地とする。」
主は「間違ったなら、懲らしめを受けとめ、悔い改めよ」と言われるのです。神様が懲らしめ、試練を与えるのは何のためでしょうか。私たち人間が嫌いなのでしょうか。憎いので苦しめたいのでしょうか。潰したいのでしょうか。断じてそうではありません。懲らしめによって、あなたを誤った道から救いたいのです。
箴言3章11-12節 わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。
主は誰を叱るのでしょうか? 愛する者を叱るのです。愛するわが子だと思うから懲らしめ、試練を与え、幸いの道へ必死に引き戻そうとされるのです。神様は私たちの意志を支配したり、マインドコントロールはしたりはしません。それは、ご自分に似せて、自由な意志を持つ存在として人を造ったことを自ら否定することになるからです。そのために、懲らしめ・試練を通して私たちが砕かれ、神の愛に気づいて、自らの意志で戻ることを待っておられるのです。ですから、10節でエレミヤの嘆きがありますが、そこにあるように耳を閉じてはなりません。神様の語りかけに耳を閉ざしてはならないのです。
私たちは罪ある人間ですから、多くの過ちを犯します。正しくない道にそれてしまうこともあります。ひどい失敗もします。しかし、主はあなたをあきらめません。今日も、これからも語り続けます。口で言っても、角笛を吹き鳴らしてさえ、私たちは聞かないかも知れない。その時は、愛の懲らしめをもって語りかけて、滅びの道から救おうとされるのです。キリストの十字架に立ち返りましょう。主キリストの十字架の道を歩むのです。
神様は、今日、あなたに語っておられます。「あなたの前に、人生の分かれ道がある。わたしは幸いの道を知っている。わたしがその道である。わたしを尋ね求めよ。この道に歩め。そうして、安らぎを得なさい!」と。主イエス様も言われました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」そして、イエス様は「わたしが道である」ともおっしゃいました。
イエス様の十字架の道は、従うゆえの苦しみも確かにあります。でも、その苦しみは、信じないゆえの苦しみとは全く異なるのです。喜びが苦しみにまさってしまう。幸いな苦しみゆえに、苦しみさえ喜びになる、そういう苦しみです。なんということでしょう。幸いな苦しみは、その苦しみさえ喜びとなるのです。だから、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」との詩篇の告白さえ生まれるのです。
何を信じ、誰と歩み、何をするのか?それは親のせいや、教師や上司のせいにはできません。私たちには神様から自由意志が与えられているからです。神の子として造られたのですから。
あなたは、人生の岐路に立った時、どうしますか? 信仰の目をしっかり開いて、主がそこにおられることを見ましょう。主の声に耳を傾けましょう、たとえ道を誤っても、そこにも主がおられます。その主の愛の懲らしめに気づかされ、幸いな道に何度でも立ち返りましょう!
引用元聖書
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